私は、大雪山小泉岳の主・小泉秀雄の探以来、大雪山にかかわってきた。もう、かれこれ10年以上になる。その間、探索のなかから数多くの人物が浮び上がり、通り過ぎていった。そのなかから、気にかかる人物のいく人かが私のまえに立ち止まる。姿見の池の命名者・磯部精一、山の画家・高本暁堂もそうだが、特に深い関心を持ったのは村田丹下であった。
旭川の実業家・荒井初一(大雪山荒井岳山名の主)は、大正13年(1924)大雪山調査会を設立、自ら会長となって大雪山・層雲渓の学術調査、観光開発に力を尽くし、全国的に大雪山を紹介した。
その事業の一環として荒井は丹下に、大雪山・層雲渓の絵300点を描かせたといわれる。その絵をもって東京・丸ビルに展覧会を開き、久邇宮の台覧を仰ぐなどPRにつとめた。その絵を描くために、丹下は大雪山にもいくたびか登った。黒岳石室の宿泊者名簿にも数回彼の名があり、「真夏すら知らぬ真顔の大雪山」という句も書き残している。
私は丹下の人間とその足跡、そして300点といわれる絵の行方に大きな関心を持つものである。絵は小泉家にも数点所蔵されており、道内でも蔵している人は多いのではなかろうか。旭川の古書店、尚古堂にも売りに出されていると聞いた。また、前記大雪山調査会からも丹下面の絵はがき数種が発行されている。
彼の業績についても断片的にはわかっている。彼は各地に転住したようだが、晩年は岩手県花泉町に居住、昭和57年(1882)9月、87歳で亡くなった。過日、その丹下について旭川の詩人、東延江氏から貴重な情報を提供していただいた。『旭川新聞』に掲載する丹下の文章や、彼の動向を知らせる記事である。それによると、彼は本業の絵のほか、随筆、詩歌をたしなみ、小説も書くという多芸多才ぶりを発揮している。
丹下に興味を持ちながら空しく過ぎた数年、丹下探索の旅はいま始まったばかりである。