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1994年03月号/第61号  [ずいそう]    

昔の話
和田 徹三 (わだ てつぞう ・ 詩人 英文学者)

私は初対面の方から、貴方は道産子ですか、と聞かれるのが一番の苦手である。というのは、つまらないことに時間がとられて、肝心な話になかなか入れなくなるからである。

私はもちろん道産子だが、大抵の方は3代目か4代目なのに、私は12代目なので、次々と質問に答えねばならないのである。私の家の初代が渡道したのは元和8年(1622年)だから、370年餘り前のことである。それまで最上藩に仕えていたが、幕府に接収されて重職を失った初代が、はるばる松前家7世藩主公広に仕えることになった。

昔を偲ばせる遺品が、私の子供の頃までは、かなり残っていた。古文書類のびっしりつまった文書櫃がいくつか、ほかに二棹の鎧櫃があり、ひとつは紺縅(こんおどし)、ひとつは緋縅(ひおどし)の見事な鎧が入っていた。それから刀箪笥もあった。これは畳を縦半分にしたほどの大きさで、四つ角を鉄板で補強し、方々に鉄鋲のうってある、いかめしい箱であった。蝶番のある重い蓋を開けると、刀がびっしり収められていた。外見では本物と変わらない子供用帯刀も、5、6本は入っていた。掛軸、置物と衣類などを仕舞った古びた衣類箪笥などもあって、2階の納戸は子供の好奇心をかきたてるワンダー・ランドであった。

それらの遺品は、私の両親の死亡後、叔父がすべてを賣り拂った。いま松前の資料館にある『和田日記』は資料館が雑品屋から買い求めたものである。この日記は北海道史の編纂に役立ち、中村真一郎さんの『蠣崎波響の生涯』執筆にも役立ったと聞いている。いまでも私の家に残っているのは武田菱(松前家家紋)の入った鏡と和田家家紋の入った陣笠だけである。それと、7代氏茂が藩公から頂戴した掛軸がある。これは古書店が東京の競り市で買い求めたのを私が譲り受けたものである。氏茂は藩主章広の側用人であった。古文書では二代市兵衛著『軍法伝来之秘書』延宝中和田氏代々日記令書、松前監物広長の編著『福山秘府(年暦部)』(実子和田精維写本)和田氏茂著『松前北嶋カラフト蝦夷物語』和田精維著『魯西亜國漂流人●舌録』[●は偏が“口”、旁が“方”という1字の漢字]それらと『和田氏系譜』くらいのものである。

*「●」をどう読むかはわかりません。書かれたとおり写したものです。

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