綾 子
ふり返ってみますと、わたくしが太刀川家にお嫁に来たのは昭和11年(1936)でしたから、それから数えて、ほぼ50年の歳月をこの家で暮らして来たことになるのですね。
そのころは、日本のいちばんよき時代の最後でした。すでに数年前から満州事変が起きていましたし、昭和11年といえば二・二六事件の起きた年ですから、もう、わたくしたちの暮らしのうえにも戦争の暗雲がおおいかぶさって来ていました。
お正月の話としてはふさわしくないかもしれませんが、ちょうどその年、わたくしは後に太刀川家の5代目当主となる善平との婚約がととのい、3月に結婚の予定でおりました。ところが、婚礼を来月に控えた2月におじいさま(4代目当主・2代目善吉)がお亡なりになったのです。その葬儀には喪主の婚約者としてわたくしも参列いたしましたが、あんな盛大なお葬式は函館では最後でしたね。なにせ、うちのお店から2キロ近くも離れた本願寺の西別院まで行列が続いたのですもの。
その日は雪が降っておりましたが、肉親はもとより、使用人までも全部、蔵から白素地の羽織・袴(はかま)を出して着せ、家の中から白い下駄を履いて外へ出るのです。京都の本山から御連枝様がおいでになりました。この方だけは人力車にお乗りになり、あと大勢のお供のお坊さんは袈裟(けさ)をお召しになり、傘をさした行列が雪の道に延々と続くのでした。
49日の喪が明けた5月に、わたくしたちの結婚式が行なわれました。商家では、長男の結婚式だけがお店の玄関から入ることを許されていて、わたくしはその玄関から輿入れいたしました。たいへん華やかな婚礼で、これもこの街では最後でなかったでしょうか。ほんとうに、このすぐ後には戦争ですからね、わたくしはそういうよき時代をほんのちょっとだけ味わわせていただきました。
綾 子
太刀川家は越後国(新潟県)長岡の出身で初代を善之助といい、代々善之助、善吉、善吉、善平、善一と続き、いまの当主善一は6代目に当たります。初めて函館に渡って来たのは2代目善之助で、幕末に23歳の若さで当時の箱館に来て米屋を開き、帆前船を持って回船業や漁業などの事業に手を広げていったと聞いております。
いつごろからか、太刀川の家には伊達の方から十勝の方にたくさんの土地があり、広尾にはうちの漁場がありましたから、そこからとれる雑穀やサケを帆前船に積んで越後に下ろし、越後からは米や材木などを積んで来て商売をしていたようです。
この店の前は、そのころはまだ海でしたから、帆前船がすぐ店の前に停まって荷揚げや荷下ろして、にぎやかなものでした。うちの帆前船も、わたくしがお嫁に来るころまであったのですよ。
綾 子
この土蔵造りの店を明治34年(1901)に建てたのは初代善吉(3代目当主)で、洋館の方は大正4年(1915)に2代目善吉(4代目当主)が建てたものだそうです。
家の中をご覧になるとわかりますけれども、建築材はほとんどケヤキとカツラで、とても大きいのです。大部分は越後から運んだようですが、それを運ぶのに帆前船の底に米をバラして敷き、そこに木材を一本一本縦に刺して、何年もかかって運んだということです。
綾 子
うちはご維新前から商売をしていますけれども、もともと「太刀川商店」とか「太刀川米穀店」といった看板がないのです。そのため、国から重要文化財の指定を受けたときは、戦時中の配給所だったときに役所から支給された看板が掛けてあったのですが、これがエナメルで書いたへんな字で、わたくしは大嫌いなのです。それが文化財ということで家の付き物みたいにして写真を撮るものですから「あれはうちで作った看板ではないのだから困る」といってはずしてもらうことにしました。
蔵の2階には古材が残っていましたので、わたくしが昇って行って格好なケヤキの板材を見つけ、いろいろ思案の末に、ひとを介して函館護国神社の宮司様でいらっしゃる真崎宗次先生にご揮毫(きごう)をお願いしたのです。ふだんはなかなかむずかしいお人なのだそうですけれども、快くお引き受けくださいました。後日、できたから取りにくるようにとのお知らせをいただいておうかがいすると、別のお部屋にその看板が白い布に巻かれて置いてあるのです。まるで除幕式のような形でその布をはずしてみますと、すばらしい墨筆のうえに、刀彫までしてくださったのです。わたくし、ほんとうにうれしくて胸がつまり、涙がでました。
明けて去年の10月に、明治神宮の宮司様がわたくしの家を見たいとおっしゃって、ちょっとお立寄りになりました。ささやかなおもてなしのあとのお帰りぎわに、この看板にお目をとめられ「とてもよい書だ。これも文化財の値いする」とお褒めくださったのです。真崎先生はすでにお亡くなりになっていて、このお言葉をお聞かせできないのはとても残念に思います。
綾 子
この土蔵造りの店舗が国の重要文化財の指定を受けたのは、民家としては北海道の第1号ですけれども、わたくしたちは、はじめ大反対でした。
ふつう、文化財となれば市などに寄付してから指定を受けることが多いのですが、わたくしたちはここでこの先も暮らしていくのですから、いろいろ規制されるのはいやですし、家を守るのはわたくしたちの当然のつとめなので、なにもそんな指定を受けなくてもいいのです。しかし、よく考えてみますと、戦時中の配給所時代から米屋で奥が潤っているわけでもありませんが、文化財になれば幕末から開いてきた太刀川米穀店の名が末永く残ることになるのですから、それは先祖のためにもよいことではないかと考えまして、やっと受けることにしたのです。
綾 子
家を守るといえば、火の用心はうちのきびしい家憲でした。
函館はまれにみる大火の多い街でしたでしょう。それに家の中の暖房は全部火鉢でしたから、使うお炭が10貫俵(37.5キロ)で2日に1俵ずつ焚くのです。ですから、火の始末にはとても注意しています。特にわたくしの主人はとても神経質な人で、枕元はつねに着替えから懐中電灯までがきちんとそろえてあって、半鐘が鳴ったら暗闇でも着替えをしてすぐに飛び出せるようにしていました。風が吹いたら玄関に長靴を出して置くとか、そんな備えは日常普通にしてきたことです。
家の造りも防火を第一に考えています。隣と接する側面には防火用の袖壁をつけて、窓は一つもありません。それに、土蔵の前の床下にはいまも3ヵ所に壁土が埋めてあり、お正月とお盆にはこの壁を塗った左官屋さんが来て柔かくこね直しておくのです。お正月には寒水を使い、太刀川の印の入った半纏(はんてん)を着てね。そして、仕事が終わるとご祝儀を受けて帰るのです。よく昔から言いますね、火事の時に蔵の味噌を壁に塗って店を守ると。うちでは、あらかじめ壁土を床下に用意してあるのです。
綾 子
うちは、ほんとうに使用人には恵まれました。わたくしがお嫁に来たころは、奥にわたくしと同じ年の女中さんが4人おりました。料理を作る女中さん、子供の世話をする女中さん、お給仕も御飯のお給仕とお味噌汁のお給仕とが、それぞれ専業で分けられているのです。お掃除はとても女の手には負えないので、男の人の仕事でした。それを、おばあさまが朝からきちっとした和服姿で監督するのです。やはり明治の人なのですね、とても几帳面で、、ご自分のお化粧にもたっぷり2時間くらいかけるのです。十三屋で買った黄楊(つげ)の櫛(くし)を大島から特別に取り寄せた純粋の椿油に1年も2年も漬けておいて、しっとりとした櫛を使って丁寧に髪をすかせたりしているのです。
うちの場合は、食器の出し入れもたいへんでした。竹籠に和紙を貼って柿渋を塗ったボテというもので、いちいち蔵の桐箱から出して運ぶのです。
お店の使用人は番頭さんとか支配人とか、いろいろな人が8人くらいおりました。爺やさんなんか国宝みたい、街に火事が出たといったら一番に主人の家を守るために駆けつけてくれるのです。
綾 子
ですから、先祖代々、主人たちは店の人を大切にしていました。
特に商家でしたから、お正月は店の人を中心にお祝いします。なにせ、お正月は12月28日のお年とりから始まって、二十日正月までずうっと続くのです。お年始は女中さんたちに新しい着物、帯をつけさせ、男は紋付。そんな店の者全員を集めて、わたくしたち家族が金盃でお屠蘇(とそ)を振る舞うのです。お膳は黒の本膳です。
2日は馬橇(ばそり)で初売りです。この時は、店の前に大きなサケを下げるのですよ。2日、3日なんて女中さんはみんな寝ませんでしたね。
11日の蔵開きは、同業者をお招きしました。この時は芸者衆が入ってお給仕です。そして20日の恵比須講。その後が女たちのお正月となるのです。
綾 子
うちのまゆ玉は壮観でしたよ。幹の太いミズキを3本も組み合わせて、吹き抜けになった10畳間の天井いっぱいに吊るのです。そこに付けるお餅が2斗(30キロ)、それに、大きくきれいなお飾りがいくつも付くのですから大変な重さです。ですから、たしか12月の15日ころだと思いますが、このまゆ玉を吊るのに消防団が手伝いに来てくれたものです。
お供え餅を飾るのは23ヵ所くらい。仏間に飾るのなどは七升(10.5キロ)のお餅です。その大きいことといったら。それでも、それを載せる三方がうちにはあるのです。
お料理は、たいした御馳走ではありません。元日はタイのおかしら付きですけれども、あとはサケ料理ばかり。広尾に漁場を持っていたものですから、お歳暮にはサケを五本ずつ特別の魚盆に載せ、家紋の抱茗荷(だきみょうが)を染め抜いた風呂敷を掛けてお配りするのです。
家には、浜で直接樽漬けした塩びきが何本も送られてきます。それを「寒九の水」といって、寒に入って9日目の水で水出しします。2週間くらいの水出しのあとサケの頭と復すを欠いて、竈(へっつい)の天井に50~60本も吊り下げるのです。かまどからのぼる煙と温度で、燥製とも違う、とてもおいしい「寒塩びき」ができるのです。サケの飯鮨(いずし)も、うちへ来てからもう一度逆押しするのですが、その重しに米を5俵くらい積み上げたものですの。
戦後の改革でそんな漁場も、あちこちにあった土地も無くなりました。使用人たちもみんな年をとり、残っている人も少なくなって、みんな昔の話になりました。
綾 子
わたくしたちがみなさんからちょっと褒められるのは、家の管理がよかったということですね。それは、家族みんなが気をつけてきたことです。ガスの元栓は大丈夫か、灰皿にタバコの残り火はないかと、だれということなく見て回るのが習慣になっています。家にしても、雨が降ったあとはあまどいを見回ります。昔からよく言うでしょう。屋根にペンペン草が生えるとその家は没落すると。瓦(かわら)が1枚浮いても、壁にちょっとシミが出ても、やがてそこから家が傷んできます。側壁に窓がありませんから、毎朝、店の者が7メートル近くもある鉄梯子(はしご)を昇って「じょうや」の天窓を開き、風通しをするのです。
それもこれも、みんな古いものが好きだからです。嫁の雅子さんもわたくし以上に古いものが好き。ですから、小学5年の孫も古いものが好きですし、大切にもします。わたくしは、そういう家族に囲まれていることがとても幸せ。
うちでは、古くからの食器類をそのまま日常的に使っております。ちょっとお客様が見えて、ごくふだんのお食事を差し上げた時なども、そこにお出ししたお皿を見て、お客様は「はあー」っと感心なさいます。それを見ると、わたくしたちはずうっとそうした中に住んでいることの幸せを思います。
お友達の家を久しぶりに訪ねてみますと、次の代になった途端、電灯なども蛍光灯にかわっていたりします。それもいいのでしょうけれども、おかあさまの時代にはあんなにいい家だったことを思うと、なにか惜しい気がするのです。
うちには電気のコンセントがありません。蛍光灯もありません。もちろんプラスチック製品は使いません。それでも書斎の横にちょっとお茶をお出しできるくらいの厨房を建て増しました。先日、東京の雑誌杜のかたが取材にみえて「古い建物の中で、新しいシステムキッチンがとてもよく調和している」と言ってくださいました。わたくしはそれだと思うのですよ。古いものがあって、新しいものがあって、しかもそれがよく調和している―それがだいじなことだと思うのです。
雅 子
ただ、そういう感性って、大きくなって急に勉強しても身につくものではないようですね。小さい時からいいものに触れて育ちますと、その良さがわかります。わたくしも古い家に生まれて、古いものに触れて育ちましたから、いま急に好きになったというのではないのです。ですから、うちの子供も東京のマンションの中で育ちましたけれども、やはりいい食器で食事をさせ、いいものに触れて育てました。だから、その良さがわかるのです。やはり、小さいころからの環境というのが特に大切ですね。そうでないと、急に古い家にお嫁に来ても、結局、不自由で、汚くて、窮屈にしか感じないですよね。
わたくしなんか「どうしてこんなもったいないものを使うのかしら」とみなさんにおっしゃられますけれども、それを大切に使う。洗い方にも、しまい方にも、いただき方にも、その心を教えます。もし、それで壊れたときは、仕方のないことですね、それが命かもしれないのです。でも、わたくしは修理の方法をたくさん覚えました。漆(うるし)でもなんでも、壊れたものはほとんど修理して使います。
雅 子
わたくし20年も東京におりまして、3年前に戻ってまいりました。この辺りの西部地区はさびれていましてね。この家が重文ということで地図に載っているものですから、旅行者がみえて道の向こうから写真を撮ったりするのですけれども、触れることができませんでしょう。ちょうどお店に場所がありましたし、なにかこの街並みに合うものはないかと考えました。こうしてみると、函館は昔から外国人がたくさんいましたし、とてもエキゾチックですよね。それでヨーロッパのアンチックな調度品はこの街の雰囲気に合うのではないかと、コレクションの店をはじめました。あまり高級なものではなく、ほんとうに道具屋チックで、どなたもが簡単に触れられるような状態にしてね。「たくさん用意してありますから、ご自分の眼でいいもの、お好きなものを見つけてください」そんな発見の喜びを提供したいという気持でやっております。ですから、いいものも何気なく置いてあります。わかる人はそこを探します。そして堀し出し物を見つけた時のお客様の顔がとてもいい。「ああ、函館に行った時の記念になった。あの店で買ったのだわ、いいものが手に入ったわ」と、たとえハンドバッグ一つでも、それを身に付けるたびに思い出してくだされば、それが函館のいちばんのお土産になると思うのです。
こんど、れんが建ての古い郵便局跡を使った「ユニオンスクェア・明治館」というところに小さなリサイクルのブティックを出しました。ともすれば眠りがちな函館を人の動く魅力ある街にしたいと思ってのことです。わたくしなどは小さな力ですけれども、この街の活性化を願って、お客様にはできるだけ声をかけます。「お天気がよくて楽しいですね」「雨ですね、たいへんですね。どうぞ、よいご旅行をなさってください」って。たとえ小さな力でも、そんな願いを少しずつ広げていくことは大切なことだと思っております。
所在地 函館市弁天町15-15 建設 店舗 明治34年(1901) 洋館 大正4年(1915)
店舗部
煉瓦(れんが)造り2階建てで、内外とも漆喰(しっくい)塗りの土蔵風。屋根は寄せ棟造り瓦(かわら)ぶき。
店舗の玄関は5間半(9.9メートル)と広く、その前に2本の鋳鉄(いもの)製の円柱が立ち、ひさしの小壁には3つの半円アーチが連ねてあって、和洋折衷の建築様式の特徴が印象的。
上下階の両脇に戸袋を設けているが、特に1階は石造風の目地を入れていて重量感があり、建物全体を引き締めている。側面は厚い防火用袖壁になっていて、窓や開口部はない。店舗内部は土間と帳場だったが、いまは帳場が米穀店の事務室、土間はコレクション・ショップになっている。
居住部
店舗のすぐ奥は10畳の「じょうや」で2階まで吹き抜けになっており、階段は洋風で手すりはケヤキのロクで成型、彫りけたには唐草模様が浮き彫りされている。また階段下の引き出しも工芸的芸術品と評価されている。
隣は12畳の仏間。店舗との間仕切りは化粧板戸で、ケヤキの輪島塗り。永年磨き上げられた光沢は、これを見ただけでもこの家の風格がうかがい知れる。その上をはしるけた木もケヤキで、その木柄は60センチ以上もの幅があって豪壮である。
店舗と主屋の土蔵扉の厚さ、その上部横はりの龍彫像の巧みさも目を見張るばかり。
2階は来客用2間つづきの和室。上座12.5畳は「麒麟の間」と呼ばれ、床の間に青銅の麟麟の香炉が置かれている。その隣は10畳で「馬の間」と呼ばれ、こちらの床の間には馬の置物がある。床壁の種石は一室ごとに荒目と細目に分けた石炭を粉砕して使っているが、その光沢はとても80余年の歳月を経て来たものとは思えない。
ともに床脇出しは書院造り。その陰に貴重な黒柿の柱を使っている。縁側はケヤキ、中廊下はカツラの幅3尺(90センチ)の1枚長さ12尺(3.6メートル)の床板を敷いているのも、いまは得がたい。
奥1・2階は家族の居室。2階の奥には使用人室も。そして土蔵があり、へっついと1階縁側は模様替えしたが、その他は畳と障子の張り替え以外に手をつけていないといい、その保存管理のよさは高く賞讃されている。
洋 館
木造2階建て、瓦ぶき正面切妻で、両脇に円柱を持ったポーチがあり、2階が台形を呈しているのが特徴的。間取りは階下が玄関、応接、書斎。2階は和室で、書斎は吹き抜けになっている。玄関の照明がガス灯であったり、種々の洋式装飾が施されていて、これは国の重要文化財ではないが、当然それに値いすると評価されている。
建物総面積193.25坪(637.72平方メートル)
北海道の南玄関・函館が1859年(安政6)に横浜、長崎とともに日本最初の貿易港として開港してからは、本道経済の中心地として大きく発展した。特に米、英、仏、ロシアをはじめ7ヶ国の領事館が設置され、早くから欧米文化が流入していたため和洋折衷の建物が多く、特にその時代の中心街だった西部地区のあちこちにユニークな景観を残している。いま、函館の文化、経済発展の歴史をとどめる西部の街並みを残して、再び活性をとり戻そうとする市民の機運が高まっている。今田光夫さんもその1人。『函館の歴史的風土を守る会』のリーダーとして、街並条例の制定をにらみながら一党一派に偏しない日常活動を広げている。「函館はまったく大衆がつくりあげた街であり、和洋折衷の文化がなにげなく融合していて、世界でも珍しい街。いま市民の手で守らなければ、歴史を伝える文化財は永久に失われてしまう」と、家などの個体保存の呼びかけは共感を広げている。