北海道大学名誉教授で農学博士の東三郎さん(68)が主宰する、森林空間研究所(郵便064-0953 札幌市中央区宮の森3条11丁目 電話011-611-7781)の研究拠点「追分向陽塾」(郵便059-1984 勇払郡追分町向陽865、01452-5-3953)のある町は、新千歳空港から北東へ14キロ、札幌圏内からは50キロの距離に位置した人口4000人弱の農村です。1892年(明治25)、夕張山系の炭山から産出する石炭を室蘭港に運び出すために開かれた炭礦鉄道室蘭線に停車場が開業し、同時に機関庫が設置されて発展してきました。しかし、町制が施行された1953年(昭和28)以降、ピーク時は約7千人だった人口は減少をつづけ、1904年(明治37)にポンアビラ簡易教育所として創立された本安平(ほんあびら)小学校も1992年廃校になりました。
同校は地区住民にとっては唯一の文化施設。なんとか校舎と歴史ある校名だけでも残せないものかという思いを抱いていた時期に、たまたま建設予定地の安平ダムの視察にこの町を訪れたのが東さんでした。
「この町には、町民と行政のパイプ役を果たしながらいろいろな提言をしている“追分町まちおこし研究所”というボランティアグループがあって、私にも町外研究員として参加しないかと誘われましてね。聞けば、この町は“花・水・緑交流アイランドinおいわけ”をキャッチフレーズにしているというのです。これがすっかり気に入りました。私が、これからやろうとしている課題にぴったりだったからです」。
役場の職員も交えて歓談しているうちに、廃校になる校舎を転用したいという話題になって、先に開設した森林空間研究所の実践施設が欲しいと思っていた東さんは、早速、その校舎を借り受けることにしました。
所在地の名をとって『追分向陽塾』。オープンは1992年7月3日としました。
「この日にこだわったのには理由があります。じつは、現在、鹿公園になっている町有林が日本でもっとも古い保健保安林なのです。1902年(明治35)、当時は公衆衛生林と呼んでいましたが、その第1号に指定されたのが7月3日だったからです」とのこと。
東さんは、鹿児島市の出身。第二次世界大戦のなかで青春期を迎え、敗戦によって“国破れて山河あり、城春にして草木深し”の感に浸っていたとき、北海道には深い原始の森があると聞き、「都ぞ弥生……」の寮歌にもあこがれて北大農学部林学科の学生となったのです。学生時代から、同大学教授としてエルムの庭で過ごした40年間、東さんは砂防工学一筋の研究生活をつづけてきました。その成果によって数々の賞を受賞しています。
東さんのライフワークである「砂防」とは、山地や海岸、河岸の土砂を崩壊や流出から防ぐこと。国土保全には重要な分野です。しかし、実際には物質文明、経済効率優先の論理で進められてきた資源開発や土地利用によって破壊された荒廃地に、森林を復元することが主たる作業になっています。東さんが、関係の現業機関とともにその復元に努力した荒廃地は、襟裳岬の魚付き林、流氷の海に面したオホーツク海岸林、天売・焼尻をはじめとした離島の水源林、火山災害に打ちのめされた有珠山麓の復元、都市開発が進む石狩湾新港での森づくりなど北海道全域にわたり、そのどれもが、10年、20年の歳月を重ねて見事な成果をみせています。
「森林というのは、きわめてローカルで多様な個性を持つ存在です。ですから、流氷の来るような海岸にスギやヒノキを中心にした日本の常識的な植林方法を適用しようとしても無理。森づくりには現場的直感力が必要なのです。それには、地質学、気象学、水文学(すいもんがく)、生態学などの学問分野をつなげ、生活者の眼から見て森とは何かという見方をしたいと思ったのです。それはあまりにも森羅万象にわたるため、林学(りんがく)の世界ではほとんどおこなわ黷トいないことです。私は、荒れた土地に森を復元するため最大限に現地情報を集め、仮説を立て、実行と検証を繰り返してきました。私のこれまでの経験は、木を見て森を知り、森を見て山を知り、山を見て川を知り、川を見て水を知り、水を見て地を知り、地を見て木を知るという、いわば“知山知水の旅”だったと思っています」とのことです。
東さんは、1989年に北海道大学を退官しました。それと同時に、自宅に森林空間研究所を設立しました。「人間はほかの動物とちがって、自然を物質資源として利用する手段を発達させました。とくに、森林に対しては破壊的行為をつづけ、自然の生態系を追放して安住の場を確保してきたのです。それでも、いつの時代も燃料と飲み水だけは森林に求め、みんなで森を大切に守ってきましたね。ところが、エネルギー革命によって、薪から石炭、ガス、石油、電気、原子力へと移り変わり、衣食住のすべてを森に依存することはなくなりました。そんななかで、ほかに代替できない価値あるもの、人間の生命を支える飲み水の供給源は、唯一、森林だけが保有しているのです。そのことを生活者の立場から主張し、実践していこう――、それが設立の趣旨でした」と語り、各地に出向いての講演活動などに多忙な日々を送りつづけていました。
それから3年後に開設された追分向陽塾で、最初に手がけたのは土壌浄化方式のトイレづくりでした。向陽塾をオープンした日、町内外から220人の客が集まりました。その後も、児童生徒の見学や、砂防・林学関係者の研修会、講演会の会場に使われ、大勢の人が訪れています。そこで第一に必要のは、きれいなトイレです。東さんは、長くこの学校の用務員を勤め、いまは向陽塾の管理主任である水橋富雄さんといっしょに、自費で旧式な古い校舎のトイレを水洗トイレに改造しました。これは「土壌浄化方式トレンチ工法」といい、外側に浄化槽を埋めて土壌菌で汚物を分解し、下水処理場と同じBOD(有機物汚染指標)20ppmにまで浄化した水を、穴をあけたパイプから地中に染み込ませていく方式です。使用人数は15人対象。トイレットペーパーなども通常に使え、今年もマイナス24度の気温にじゅうぶん耐えています。これで下水道のない地域でも、川を汚さずに水洗トイレが使えるというわけです。浄化装置の上には、花壇がつくられています。
「これは、農村をクリーン化する施設ですよ。だれもこんな寒冷地でできると思っていなかっただけにたいへん好評で、いまもいろいろな人が見学に来ます。森からいただいたおいしい水を飲み、排泄もきちんと始末する。それができなくては、環境を語る資格がないと、1年目はこの作業が中心でした」といいます。
次に取り組んだのは、水没に強い植物エゾミソハギの栽培です。7月から9月にかけてピンク色の美しい花を咲かせるこの植物を発見したのは、東さんが大学を退官した年の夏、やはり水没に強いタチヤナギの試験をしていた豊平峡ダムでのことでした。
「干し上がったダムの湖底に向かってたくましく進出している姿は、とても、ただ者とは見えませんでした。生態を調べているうちに、これこそ耐水没性植物の主役になると確信しましたね」と、そのときの印象を語ります。
ダムは、満々と水をたたえているときは周囲の景観とあわせて、見る人の心をうばいます。しかし、水位が下がって泥や石などがむき出しになったときの赤茶けた風景は悲しい。もし、干からびた湖岸を美しい草花で被うことができたら……。そんな願いをかなえてくれるのが、この野草だったのです。草丈は0.5~1.5メートルにも伸び、昔から東洋では薬草として知られ、ヨーロッパでは山菜として用いられている植物です。盛花期を過ぎたあとの紅葉も美しく、最近は草木染めの材料に適していることもわかっています。
東さんはこの植物の増殖法を研究。乾燥にも湿度にも強い耐性をつける特殊な処理をして、学名からとった『サリカ』という美しい名で商標登録をしました。昨年から、企業に営業権を譲って商品化されています。追分町では、いま、農業用水を確保するための安平ダムを建設中ですが、完成したときには湖岸が美しいサリカで彩られることになります。
東さんが考案して商標登録し、商品化したものに『ハードルフェンス』もあります。積雪寒冷地の森づくりには、植え付けた苗木を寒風や春の乾いた風から守り、自力で根を成長させてやらなければなりません。そのため、昔からヨシズや板などで防風垣を用いてきましたが、数年で腐食したり倒壊してしまいます。そこで考えたのが、隙間のあるフェンスで風害を防ぎ、雪を積もらせて土の凍結を防いで、根の成長を促進しようというものです。
材料には大量に供給されるカラマツ間伐材を用いてpネルを作り、2枚を接続して正三角形に組み合わせます。これで杭を土中に埋めなくても自重で安定し、苗木をしっかり守ります。単体は2枚のパネルなので、さまざまな形に組み合わせることができますし、運搬にも便利です。なによりも、目下、利用価値の少ない小径木の間伐材を活用するリサイクル製品であり、そこには東さんの理念が生かされています。
このハードルフェンスは、すでに日本最北端の宗谷岬の牧場林、襟裳岬の海岸林その他、多くの試験地で有効性を確認してきたものです。
このハードルフェンスという強い味方もあって、今年の2月、東さんは地元のお年寄りといっしょに、向陽塾の周囲で“真冬の植林”をおこなって、みんなを驚かせました。
「一般に、植林は春におこなわれていますが、じつは、それでは遅いのです。たとえば広葉樹のミズナラ(ドングリ)を実生する場合、秋に発根した根は雪をかぶった土の中で冬を越し、暖かい5月の陽光がさしはじめるのを待って、一気に芽を出します。雪に覆われた土の中は暖かいのですから、真冬でも植える場所を除雪してドリルなどで穴を掘り、挿し木するなり、根付けするなりすれば、雪が解けるころには元気に芽を出すのです」と、東さんは事もなげにいいます。
そればかりではありません。苗木を1本ずつ植えるのではなく、3本まとめて植えていきます。東さんはこれを束植えといっていますが、3本の苗木は地中でくっつきあって合体し、たくましい苗木に育つというのです。2千年の樹齢といわれる屋久杉をはじめ、名木といわれる巨木の多くが合体樹であることを見ても、その強さは証明されます。
この植林でさらに驚いたことは、植え株には無造作に古新聞をかぶせ、木片をばら巻いて風に吹き飛ばされるのを防いていることです。こうしておけば、苗木を雑草から守り、土の乾燥も防ぐことができるというのです。
東さんはまた、ブルドーザーやレーキドザーを駆使し、一見手荒な植林工法で森を再現させた実績をいくつも持っています。たとえば、北見地方滝上町の上紋峠のササ山に水源林を造る事業では、洞爺丸台風で壊滅状態になったササ地をレーキトーザーで掻き起こし、残っていたダケカンバの母樹から種子を自然的に誘導して、刈り払われた空間に若い林帯を出現させました。ここでは、一面に生い茂っているササを一方的に潰してしまうのではなく、筋刈りをして、残ったササを風よけに利用しています。ですから、刈り払われた土の上に落ちた木の種子や埋め込んだ枝は、そのササに守られて成長するのです。この部分の林帯が一定の段階にまで成長したら、こんどは残っているササ地を取り除いて第2の林帯を造ります。この場合、第1林帯と第2林帯を同じ樹種にしてもよいし、広葉樹と針葉樹を分けて植え、針広混交林として再生させることもできます。
「ただ、森林の破壊はグローバルな問題ですが、森の復元はローカルな作業です。したがって、郷土に根ざした樹種を先発隊と後発隊に分け、雑草などに負けない頑丈な根が張れるように、じゅうぶんな地ごしらえをしてやらなければなりません」と東さんはいいます。
そこで登場するのがブルドーザーです。掻き起こした土に火山灰を混ぜて通気性を高めたり、泥炭土を掘り起こして排水溝や盛り床を造ってやるのです。こうした東さんの実績は、いわば常識を超えた逆説の技法といえます。しかし、とかく経済優先、開発優先の風潮のなかで無定見に荒廃させてきた土地利用の後始末に徹し、山に向かい、森に向かってその成り立ち、生い立ちをトータルな視点で研究してきた人だからこそ、これは森づくりの本質にせまる技法だといえるにちがいありません。
東さんは現在も北海道特定開発行為審査会の会長のほか、各種委員を務め、セミナーに講演に、文筆活動にと多忙な毎日を送っています。
「しかし、本に書いたり講話をして森と水の大切さを伝えることに限界を感じています。やはり、実例を示し、実物を見せ、体験する教育が大切なのです。その実物教育の拠点が追分向陽塾です。しかし、大学の雰囲気をここへ持ち込んでも農村社会の人たちにとっては迷惑でしょうから、理屈ぬきで遊ぶことに徹しようと考えています」といいます。ですから、東さんが関係する諸会議を向陽塾で開催する際にも「駐車場が広いよ。町の特産のアサヒメロンが存分に食べられるよ」と気さくに誘いかけているとのこと。
ある農家のお年寄りが向陽塾にやって来て「先生、鳥の声を聞いたことあるかい」と尋ねたといいます。「おれは今になって初めて聞いた。農業をやっているときは忙しくて聞く暇がなかったし、聞く耳もなかった。しかし、家督を息子に譲って、初めて鳥の声を聞くことができた」。そして、周囲を見回しながら「それにしても、木を切りすぎたよな」と、過ャた日を振り返るように語ったというのです。
その話を聞いた若い人は「なんでこんなに森を壊したのか」という見方をします。
向陽塾の庭には、大きな木の根株がいくつも転がしてあります。かつて、そのお年寄りは、開拓のために木を切り、その根株を取り除くためにどれほど苦労したことか。その労苦は家族の暮らしを、そして多くの人の暮らしを守るために田や畑を作るうえでやらねばならない行為だったのです。
「ですから、2人のあいだに入って私はいうのです。今までやってきたことをとがめてはならない。その分を少しでも取り戻すために、みんなで、また新しく森をつくらなければならない。森が身近になければ風が強くて良い作物はできないし、鳥がいなくなる。きれいな飲み水がでなくなるよ、と話して聞かせるのです」と東さん。そして、自身が手がけて生態系を復活させたいくつもの森の話をします。
そのひとつが、石狩湾新港の遮断緑地。若い15から18年生の雑木林に、いまでは50数種の野鳥が生息し、クマゲラの飛来も確認されていること。阿寒川上流のササ地が植林によって20年で針広混交林に変わり、明治以来枯れ沢になっていた川筋に冷たい水が流れ出し、エゾシカの水飲み場になっていること。そして、今ではすっかり有名になった襟裳岬の魚付き林は、緑化が完了したあと確実に魚の回遊が増えていることなどの例を示し、木材生産を第一義としないこれらの森は水源林の役割を果たし、人間と動物の共生を支える場になっていることをわかりやすく説明するのです。
また、東さんは町内の高齢者や女性、若者との交流にも心をくだいています。そのひとつが、離農地を借り受けて『遊農園』とし、サリカの増殖や水産廃棄物のヒトデの無臭肥料を使って無農薬野菜の栽培などをおこなっています。ここでは、生産の効率性を追わず、ゆとりとエコロジーの精神を大切にした観光農園づくりを進めています。また、旧校舎の隣には、お年寄りたちの手で「向陽塾名人会」の工房ができあがり、裏山のイヌエンジュの木を持ち寄って、愛きょう豊かなフクロウの木彫や木の器などを制作しています。若者には手づくりカナディアンカヌー教室を開き、今年3月に雪中進水式をおこないました。この夏には、おおいに森と水に親しもうと呼びかけています。さらに、昨年、町の公民館が新築されたので、まちおこし研究会と協力しながら町民フォーラムや講演会も開催しました。東さんは、これらの活動を契機にして町全体を森と水をテーマにした『エコ・ミュージアム』にしたいという希望を抱いています。
「かつて、森は生産資源でした。いまは環境資源だといわれています。しかし、これからは文化資源であるべきです。森には、経済価値を超えた文化価値があるのです」と東さんは主張します。文明社会では、ますます水需要は高まっていきます。人間は水がなければ生きられないし、産業活動もできない。しかし、都会に住む人は森を潰し、汚れた水を浄化して飲んでいます。
「だからこそ、川の上流に住む人は、水源となる森の大切さを身をもって示し、川をきれいにしておく責任がある」ともいいます。
「では、何をやろうとしているのかと尋ねられたら、ちょっと困ってしまいます。向陽塾は発足してまだ3年目にはいったばかりです。満2歳の子に道を尋ねても無理です。しかし、向陽塾にはいろんな資料や標本、試験物など、私のトライ・アンド・エラーの産物が並べてあります。それらは、塾を訪れてくれる人に何かを訴えてくれるものと思っています。そして、よちよち歩きの子どもも3歳になり、5歳になり、やがて成人式を迎えるころには、一人前の理屈を語るようになるでしょう。その日の来るのを楽しみに、私はこの向陽塾を思いっきり手足を伸ばす“遊びの庭”にしていきたいと思っています」と控えめの言葉。
モットーは、『触れて(Touch)試して(Try)、語ろう(Talk)』の3Tアクション。東さんの人柄と理念、行動力に共鳴する大勢の人が、向陽塾をまるで自分の家の広い庭のように気軽に訪れています。
追分町まちおこし研究所 所長 堀 喜代衛さん
私たちは、行政などへの提言を中心に民主導でまちおこしをしている団体です。町内所員は57人、町外所員も約30人おり、東先生もその1人です。先生は即決即断の人。地域住民との結びつきを大切にされ、お年寄りから女性や子どもたちを巻き込んでさまざまな活動をしてくれています。
追分町は安平川の源流の町ですが、雑排水などで水の汚染がすすみ、魚の生息も減っています。先生は「源流に住む人は川をきれいにする責任がある」といわれます。私たちは、東先生を軸にして森と水を守り、ひいては地球環境を守る情報発信の一翼を担いたいと願い、町民の意識を高める活動をつづけていく考えです。