北海道の地名はアイヌ語の当て字で判りにくいといわれることがあるが、時代的に見て、古語から成りたつ本州の方にむしろ判りにくいのが多いのではなかろうか。
姨捨(おばすて)は有名でわかるが、例えば安曇(あずみ=あど、と呼ぶ地名もある)、各務(かがみ)、柿楽(したら)など、読めないものが各地に存する。
アイヌ語地名には、語源の意味に関係なく当て字、その意味性に合った美しい地名もかなりある。その中で、問寒別(といかんべつ)。天塩(てしお)川が北上し、サロベツ平野に出る少し手前、北から流れくる同名の川の合流点にある集落である。かつて、この川の源頭のイソサンヌプリに登ったとき訪れた地で、流域一帯は深い原生林であったが、伐採されてその後植林したが育たず、荒蓼たる原野で、かつて映画『人間の条件』のロケ地となったところである。私にはその印象もあって、地名の意味性と音感の好ましさとあわせ、美しい地名として記憶を蘇らせてくれる。
このほか、道北に声聞(こえとい)、雨煙別(うえんべつ)、歌登(うたのぼり)、音威子府(おといねっぷ)、風連(ふうれん)――道東にも風蓮、霧多布、日高地方には様似(しゃまに=現在は、さまに)、襟裳(えりも)、絵笛(えふい)など、よい地名がある。
道南には和名が多く、長万部(おしゃまんべ)、倶知安(くっちゃん)など読みにくいといわれ、音感があまりよいとはいわれないが、変えられないでいる。ついでながら、和名の駒ケ岳のアイヌ名はカヤベヌプリである。
知られたところでは発寒(はっさむ)がある。「寒」のつくのに、和寒(わっさむ)と月寒(つきさむ)があるが、「ツキサップ」が、いつの間にか「ツキサム」になってしまった。
アイヌ語には、濁音よりも半濁音が多いが、川とか沢を意味する「ベツ」だけはいたるところにあり、特に十勝地方に多い。幕別(まくべつ)、直別(ちょくべつ)、尺別(しゃくべつ)、更別(さらべつ)、徹別(てしべつ)、音別(おんべつ)と、列車が通るとき気がついたまでである。
これら地名の語源は、その意味の示すことと適切とは限らない。定山渓の北に天狗岳という名の山があるが、アイヌ名はキトウシヌプリである。「葱の多い山」と訳されているが、どこの山にもアイヌ葱は多い。
このように私は、アイヌ語は語源の意味の詮索よりも、音感リズムの美しさにひかれる。
だが、私の知る山名の例外がある。十勝山脈のオプタテシケ山である。アイヌの男性の神様の名という。それにふさわしい豪壮な山容である。阿寒は女神で、これもよい名である。
アイヌ地名のもう一つの特色は、特に山名にだが、長いものが多い。中央高地の山は殆どが当て字と和名の名が多いが、日高山脈には音そのまま仮名書きのものが殆どといってよい。日高山脈第2の高峰はカムイエクウチカウシ山で、山をヌプリとすれば13音で、十勝山脈にも全部アイヌ語にすれば、同じ長い名のペナクシホロカメットクヌプリがある。このほか、コイカクシュサツナイ岳、エサオマントッタベツ岳、コイボクシュシベチャリ川など……。
日本には、むかし長い人名があったが、いまは、すべての言葉に省略の風潮があるように思う。こうした中で残念に思われる名前に、ニセコ町がある。喉につまったような発音、ニセコアンの「アン」が省略されたもので、アンをつけたならどれだけよかったか。音律の美しさはもとより、カナ名の特色で、本州にある仮名地名よりも特色のある地名となったであろう。もともと「ニセコアンのあるところの山」として山の名があり、アンヌプリなどという語源をくずした呼称は、風潮のあらわれというほかない。
そういえば、地名が行政上で安易に変えられることにも問題がある。私が残念に思うのは、右左府(うしゃっぷ)が日高に、野付牛(のつけうし)が北見に変わり、國名と同じになったことである。その他、町村では徳舜瞥(とくしゅんべつ)が大滝に、久遠(くどう)が大成にと、ありふれた名にされた。アイヌ民族から引き継がれた歴史を変えることもなかったと思う。
このほか小さな地名で目につくことが多い。日高町の千呂露(ちろろ)が千栄(ちさか)に、喜茂別(きもべつ)町の壮渓珠(そうけしゅ)が双葉に、尾路遠(おろうえん)が御園にと平凡な名になった。そして双葉と御園、あるいは美園は、本道の各地に見られる地名である。
アイヌ語の研究者である村上啓司氏は、地名の保護を称えておられるが、この運動がもっとひろく強くなされるようになって欲しいと思う。