私はマンドリン。私が持ち主の彼の手に渡ったのは、半世紀も昔のことだ。彼は当時、税務署の若い公務員だったが、1カ月分の給料に相当する3500円で買い求めてくれた。爾来、彼は大事にかわいがってくれた。
当時は、今日の落ち着いた経済社会では想像しがたいくらい、戦後の混乱期にあった。ひどいインフレに悩まされ、税金も重かった。賦課課税から申告納税に制度が切りかわったが、正直者は馬鹿をみる、といった風潮。まさに、今昔の感がする。そんな環境のなかで、世間から白い眼で見られがちな税務署の難しい仕事に彼は明け暮れていた。1日の仕事の疲れを癒し、孤独感から気分転換するかのように、札幌・伏見寮で毎晩のように私を優しくかき鳴らしてくれたものだ。
彼は教則本で独りで習いはじめたが、熱心だった。独特のトレモロ奏法も滑らかとなり、古賀メロディーの「丘を越えて」をモノにするくらいになった。彼に抱えられ、私は半月球のかわいいボデーから精いっぱいの共鳴音をだして、彼に応えた。
やがて、彼は職場で幹部登竜門と言われる税務大学校の本科生として東京で1年間の研修生活にはいった。校舎は新宿・若松町にあったが、近くに小さな喫茶店グリンカがあった。店主は旧満州でオーケストラの指揮者をしていたという木村遼次さん。年老いた方だが、若者にギターやマンドリンを誘い、店での教えに余念がなかった。そんなころ、彼は偶々(たまたま)先生と出会った。わが意を得たりといわんばかり、彼は研修を終えると駆け込んで、仲間と弦を弾いた。
結婚して間もないころで、奥さんとともに原町での間借り生活。研修に専念すべきときだったが、よく学び、よく遊べを地でいった。彼は猛練習してモーツァルトの交響曲第40番もこなすほどの腕前に達した。私にとって、日々が充実し、いろんな弦楽器との合奏、そして独特の素晴らしいハーモニーに魅了させられ、大きく音をあげた。
1年後、札幌に復署してからも彼は職場の弦楽愛好者に合奏を呼びかけ、演奏活動に精を出した。そんなある日、木村さんから『ふるさと大連』と題する著書が贈られ、あの時の集いが拡がって、グリンカマンドリンクラブの創立に至り、東京都内で90余回にわたる定期演奏会を催すまでの苦労話や音楽と人生が語られていた。彼に、感謝のことばも添え書きされていた。彼は涙していた。
東京から戻った年に、女児が誕生した。私の心が通じたのか、その子は大の音楽好き。専門に習い、歌にピアノに熟達。いまはオーボエ奏者の夫と一緒に身を立てている。
役所を辞めた彼は、公私ども多忙の極み。久しく私にお呼びがない。が、すでに還暦を経た彼だ。いつの日か、必ず私の出番をつくってくれることを静かに心待ちにしている。