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1994年11月号/第65号  [ずいそう]    

盗聴事件に思う
笹森 学 (ささもり まなぶ ・ 弁護士)


 (1)東京地裁は、1994年9月6日、日本共産党国際部長宅電話盗聴事件について警察組織の関与を認定し、国、神奈川県、警察官3名に対し損害賠償を命ずる判決を下した。

 盗聴にまつわる問題は枚挙に暇がない。

 (2)昨年、長野地裁は覚せい剤事件について警察に対し刑事手続法史上初めて検証令状で盗聴を許可した。

 (3)最近、札幌地裁で有価証券偽造罪に問われて無罪を主張しているカブトの社長宅とその弁護土の事務所から盗聴器が発見されたという報道がなされた。

 (4)また私が関与しているタクシー会社の労働組合事務所からも盗聴器が発見された。

 (5)アメリカ合衆国では携帯電話の盗聴防止装置の販売に際し、国務省が販売会社に対し装置の原理を届け出ることを主張し物議をかもしていてることが報道された。

盗聴を考えるとき、忘れてならないのは「被害の本質」だと思う。盗聴は「社会」と「個人」に潰滅的な被害を与える。

「社会」に対する被害の実態を教えたのはウォーターゲート事件である。この事件は(1)(2)(5)が性質を異にすることを教えた。もちろん、国家権力が主体であるという点においてである。

日本ではほとんど知られていないが、ウォーターゲート事件の伏線となった重要事件に「アメリカ合衆国対アメリカ合衆国地方裁判所」事件というものがある。この事件で時のニクソン政権は「政府には国家の安寧秩序維持のために憲法に制約されないで行動できる固有の権限がある」という論法を展開し、大統領の盗聴には司法権は及ばないと主張した(ちなみに、この主張を起案したのが現在のアメリカ最高裁長官レンキストだという)。

裁判所の代理人となったアーサー・キノイ弁護士らの活躍で、幸いなことにこの奇妙な主張は最高裁に一蹴された。その理由はもちろん明快で、民主主義と相容れないというものである(A・キノイ「試練に立つ権利」第1章、日本評論社)。すなわち、国家権力による盗聴は国民を日常的に監視し、囚人と化することが目的である。われわれの自由社会にとって必要不可欠である国民が政府の政策について日常活発に批判し討論することが、プライベートな場でさえ保障されなければ、公開の場での批判は全く保障されなくなるからである。

他方、人間をスポイルするという意味で、盗聴の「個人」に対する被害の深刻さを、私は、フランシス・フォード・コッポラ監督の「カンバセーション―盗聴―」という映画から教えられた。仕事の過程で他人の秘密を知った盗聴屋を主人公とし、自らも盗聴され、命をつけ狙われる恐怖を描いたものである。盗聴に晒され、他人と全くコミュニケーションをとれなくなって孤立した人間を描き、盗聴が「道徳的存在としての人間性」を否定することを鋭く提起したものである。

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