故木田金次郎画伯の長男である木田尚斌さん(東京都在住)が自ら設計した「木田金次郎美術館」(郵便045-0003岩内町万代51-3 電話0135-63-2221)は、日本海北部に突き出た積丹半島西南部の根元に位置する岩内町の、中心街から港までのあいだに広がるマリンプラザパークの一角に建設されました。この場所は1986年(昭和61)まで旧国鉄岩内駅舎と操車場の跡地であり、尚斌さんはそのイメージを生かすことをコンセプトに、さまざまな活用ができる親しみやすい美術館が完成しました。建物は鉄筋コンクリート造り2階建て一部3階。1階にはエントランス、ミュージアムシアター、ティーラウンジがあり、2階がギャラリー、展示室。3階は岩内岳、日本海と海岸線が360度見渡せる展望回廊が設けられています。中心部のパティオは1-3階まで吹き抜け。これらは、終着駅で蒸気機関車を回転させるためのターンテーブル(転車台)と貨車、客車を表現したもので、鉄道が走っていたよき時代の原風景をモチーフにしたものです。
一般公開が実現したのは1994年11月3日。午前9時30分から隣接の岩内地方文化センターで関係者多数が集まってセレモニーをおこなったあと、美術館前で岩城成治町長や木田画伯の長女・大野るり子さん(神奈川県茅ヶ崎市在住)、青塚誠爾(せいじ)館長らの手でテープカットが終わると、待ちかねた木田芸術ファンがドッと会場へ。この日だけで約4000人が館内を埋め尽くしました。
開館に先だって9月21日から6日間、札幌・五番舘西武の赤れんがホールで「木田金次郎展」のプレビュー(予告展)が開催され、個人展覧会としては同館の新記録という1万を超す入館者があったばかり。「札幌のプレビューも見ました。岩内にも、もう2回も来ています」という熱心な人や「道立近代美術館で見た絵があります。プレビューで見た絵も展示されています。その同じ絵を木田先生の生涯の制作現場であった岩内の美術館の壁で見たのがいちばん良かった、と言ってなんども足をはこんでくれる人の言葉がなによりもうれしい」と同館の学芸員の久米淳之(あつし)さん(32)が感激の面持ちで語るほどです。その久米さんは声をひそめながら「じつは、オープン後しばらくのあいだ館内の室温が下がらずに困ったことがありました。これは作品を寄託してくださった人の熱意、木田画伯ご自身の熱意、鑑賞に来てくださる人の熱意、そしてわれわれ職員、お手伝いのボランティアのみなさんの熱意が館内に充満しているためだろう、そんな詩的な表現で考えてしまうほどでした」と久米さんは苦笑します。
また、美術館設立運動の当初から、そして開館準備まで町民の立場から行政側と力を合わせて精力的に活動してきた、岩内美術振興協会の吉田吉就(よしなり)会長は「オープン後の熱気、そしてほんとうに感激してくださるお客さまの様子を見て、私たちはこれまでの労苦がいっぺんに吹き飛んでしまいました」と語るのです。
木田金次郎美術館は、まさに町民の熱い思いで実現したのでした。その直接の導火線となったのは、1982年(昭和57)のこと。岩内ロータリークラブが、木田金次郎の没後20年を期して『木田金次郎画集』を編集・刊行。さらに記念回顧展を開催して、その益金を「木田金次郎美術館建設基金の一部にしてください」と、町に寄付をしたのです。
そのときのメンバーのひとりだった吉田さんは「それは、純粋に木田芸術を慕う人たちの願いでした。みんなの心のなかには、木田金次郎その人に岩内人を見るような熱い想いがあったのです」と、当時の心境を話します。
「230年におよぶ岩内町の歴史は、ニシン千石場所として繁栄し、やがてニシンが去っていく。そんな矢先の1954年(昭和29)の“洞爺丸台風”によって全家屋の80パーセントが焼失する大火に襲われたのです。その失意を乗り越え、漁業資源の主力をスケソウダラ漁に切り替えて再興を期してきましたが、200カイリ時代の到来によって漁場は狭゚られ、資源の枯渇とともに町経済は衰退へと傾斜していきました。そうした社会的変動の苦難に耐え抜いて、つねに前進をめざしてきた岩内人の不屈の精神は、木田金次郎という一人の画家にそのまま凝縮されていると見るのです。その想いを込めて、木田金次郎を顕彰しようという機運が熟したのです」と語ります。そして、このことを契機に、青年会議所をはじめとした町の人たちの運動へと発展していったのです。
画集刊行の2年後、木田画伯の文子(ふみこ)夫人から「できれば、主人の作品が将来もこの町に残っていくような美術館を建てていただきたい」という願いを込めて、油彩18点と色紙やデッサン画など124点が町に寄贈されました。
そんななか、1986年(昭和61)に旧国鉄岩内線の廃止が決定されました。町の中心に大きな空き地ができてしまう―、町はその跡地再開発の策定を迫られたのです。そこで打ち出されたのがマリンプラザ構想。そのプランのなかには、将来は美術館の設置もと図面に加えられました。
そのことを知って立ち上がったのが、町の若手たちです。1987年(昭和62)、町の青年会議所の会員、役場や教育委員会の職員ら25人が集まって「木田金次郎記念美術館を考える会」を発足させたのです。その時の代表が、町内で文具店を経営する森嶋敏行さん(58)です。
「発足に先だって、美術館建設を具現化するにはどんな手法があるのか、美術館とは何かということから勉強してみようということになりました。そこで、発起人数人で岩内町と同規模の人口2万人前後の町にある美術館はどのように運営されているかを視察することにしたのです。じつは、この時に的を絞っていた美術館がありました。それは、信州・上田市の山里で、夭折した画家のデッサンを集めている信濃デッサン館でした。その館主で作家でもある窪島誠一郎との奇縁があったからです」と森嶋さんは語りだします。
それは、岩内大火から7年後の1961年(昭和36)のこと。かつて町が繁栄していたころには、珍しい回り舞台を持つ芝居小屋があって、毎年、東京から大看板の歌舞伎役者がやって来て興行を打ち、大相撲も巡業してきました。しかし、ニシン景気が去るころから極度に減り、町の人たちは文化的なものに渇望していたのです。そこで、森嶋さんら当時の青年会議所の若手たちは、第一級の知識人を講師に全国を巡回している文芸春秋社の文化講演会を招こうという大胆な企画を思いついたのです。
ところが、当時の文化講演会は都市だけで開催され、岩内のような小さな町村は対象外とのこと。それにもひるまず、発案者たちは町の人から署名まで集めて招致運動を起こしました。でも、それだけでは不充分。有力なコネクションが必要と考えて、森嶋さんらは中央の文化人に知人を持つ木田金次郎さんに相談を持ちかけたのです。木田さんは、その場で達筆な紹介状を書いてくれました。その相手が、八木義徳さんでした。
八木さんは戦前に芥川賞を受賞した北海道出身の作家であり、木田金次郎をモデルにした小説『漁夫画家』を発表した人です。紹介状を手に横浜市鶴見区の書斎を訪ねると、八木さんも即刻、文芸春秋社に電話をしてくれ、全国町村では初めての文化講演会招致に成功したのです。
この時の講師は臼井吉見(うすいよしみ)、柴田錬三郎の両氏と、前年に『雁の寺』で直木賞を受賞したばかりの新進作家、水上勉(みずかみつとむ)氏でした。講演会が終わって、大盛況の労を謝すため一行を雷電海岸に招き、浜鍋を囲みました。北陸人の水上勉さんは、奇岩が連なる北海の景観に大きな感慨を抱いたようです。
「先生、こんどはぜひ岩内を舞台に大作を書いてくださいよ」。誰かが言った言葉を笑って聞いていた水上さんは、しかし、その半年後『週刊朝日』誌上に連載したのが、岩内大火から発想を得た『飢餓海峡』でした。
水上勉さんと岩内の出合いはそれだけではありません。水上さんには戦時中に行方不明になった男児があったのですが、それが生父を探し求めて『父への手紙』を発表した窪島さんだったのです。しかも、窪島さんの夫人は、偶然にも岩内出身の人だったのです。
そんな緑もあって、窪島さんは熱心にアドバイスしてくれました。意を強くした森嶋さんらは小諸、佐久、軽井沢、穂高など信州に多い個人美術館をつぶさに視察しました。さらに、500点におよぶ木田金次郎の作品の所在を調査し、全国に分散している所蔵者を一軒一軒確認をして歩きました。1988年(昭和63)8月、調査活動から得た個人美術館の現状と運営方法、そして自分たちの考え方を「提言書」にまとめて、岩城町長に実現方を要望しました。そして、これを町民運動に広げようと、その年の10月に「考える会」を正式に設立したのです。
町役場は、こうした活動にこたえて企画課の中に美術館設立問題を取り扱う係を新設し、行政サイドからの調査検討を開始しました。そして、官民一体となった「美術館建設検討委員会」が設置されたのです。ここには、行政側はもちろん、町の各種ボランティア団体や文化団体、そして「考える会」からのメンバーも加わり、本格的な活動がはじまったのです。
「“考える会”の活動は半年間と短かったのですが、みんなが純粋に木田芸術を愛し、地域ルネッサンスの実現をめざして燃えていました。岩内に文化の灯と、岩内人のバイタリティーをよみがえらせる機会をつくったことに誇りを感じています」と森嶋さんは語ります。
この運動をもっとも喜んだのは、木田文子さんでした。長女のるり子さん(45)は「母は、子どもたちがいくらすすめても岩内の町を離れようとせず、父の絵を守っていました。しかし、その絵を一堂にそろえて、できるだけ多くの人に観てほしいという気持ちをつねに持っていました。建設運動がはじまったとき、必ず実現してくださる、という信念のようなものを持っていたようです」と話します。
その文子夫人は京都で、海外勤務中の次男・敏斌(としたけ)さんの留守宅を守っている途中で発病、1991年(平成3)不帰の人となったのです。折しも、その3カ月前、岩内では「木田金次郎絵画展」を開催しました。しかし、文子夫人は、その様子を目にすることはできませんでした。
11月、町の人たちの手によって「木田文子さんを偲ぶ会」が文化センター大ホールで催されました。翌日、青塚さんらは、るり子さんら家族とともに、文子夫人が夫・金次郎と長年苦楽をともにしてきた岩内の自宅を整理することになりました。そして“あかずの間”といわれていたアトリエを開いたとき、未発表の遺作、油彩20点と素描など180点が発見されました。
1992年4月、設計家の尚斌さんによって基本設計がまとめられ、6月には本体工事が着手されました。町教育委員会内には、美術館開設準備会が設置されました。木田芸術を愛する人や文子夫人らの宿願が、いよいよ実現に向けて確かな前進へと踏み出したのです。
多くの熱烈なファンをもつ画家・木田金次郎の魅力とは何か。「それは、ドラマがあるから」と話すのは、木田金次郎研究者のひとりである北海道立近代美術館の佐藤友哉学芸第一課長です。
「ひとつは、青年期に有島武郎(たけお)と出会い、『生れ出(いず)る悩み』のモデルになったこと。そして、有島から〈その地に居られて、その地の自然と人とを忠実に熱心にお眺めなさる方がいい〉という手紙の言葉を守り、苦難と格闘しながら画業に精進したこと。もうひとつは、大火で1500点ともいわれる作品を焼失しながら、その失意に打ち勝ち、みごとによみがえったこと。そうした苦難と、それを乗り越えていく人生のドラマは、絵と表裏一体になっています。そこに感動する人が多いのでしょう」。
事実、有島武郎の『生れ出る悩み』、八木義徳の『漁夫画家』と、ふたつの文学作品のモデルとなった画家の例は少ないのです。木田金次郎は、69年の生涯のほとんどを岩内の地に土着し、中央の公募団体にも参加することなく、終生、岩内の自然をテーマに描きつづけたのです。
「もっとも大切なのは作品の価値と魅力です。木田金次郎は、自然の実相の本質を懸命に、単刀直入にみずからの目で追っていきました。自然は絶えず新しく生成されるという思想のもとに自然をとらえ、それをみごとに描きだしところに木田芸術のすばらしさがあります」と佐藤さんは話をつづけます。
「とくに、大火後の作品はタッチがあまりにも荒くて、未整理だという人もいます。しかし、木田は絵を完成させるよりも、自然の実相をつかむことが大切だと思っているのです。一刻一刻変わっていく現象のなかに自然の本質があると気づいて、同じ場所を連作のように何枚も描いています。それに、木田の絵画には色と線が一体になっているものが多い。それを私は“色線”と表現しましたが、木田はその色線によって対象をとらえようとしています。木田は自身がかなりの能筆家であり、富岡鉄斎を敬愛していたので、南画的な書のタッチを感じさせる作品が多いともいえます。しかし、色彩は純色を使って描いたものが多く、明るい感じの絵になっています」。
現在、木田金次郎美術館には約百点の油彩と2百点のデッサン、有島武郎からの書簡、愛用の画材などが展示されていますが、作品の3分の2近くは所蔵者から一時寄託されたもの。その作品の借用に奔走した久米学芸員は、その時の様子を語ります。
「ほとんどの所蔵者は、この作品をどのようにして手に入れたか、これはどんな作品で、どのように保管しているかを、じつに熱を込めてお話しされるのです。とても事務的な貸借の手続だけでは済まず、こちらのスケジュールは狂い放しでした。しかし、木田芸術がどれほど愛されているかを、あらためて勉強させトもらいました」。
木田芸術のすばらしさを再認識させられた経験は、るり子さんにもありました。
木田芸術をもっとも愛し、支援を惜しまなかったひとりに、北海道銀行の初代頭取だった故島本融氏がいます。その緑もあって、るり子さんは同行に就職し、夫人の故島本初音さんにも懇意にされました。
「私は、父のことをずっと『生れ出づる悩み』のモデル画家として見ていることを話しましたら、それは『お父さまに対してずいぶん失礼なことではないの』とたいへん叱られました。『モデルになったのは昔のことですし、お父さまの作品の価値とは関係ありません。お父さまは立派な絵を残されたことで、じゅうぶん有島のお気持に報いていらっしゃる。お子さまであるあなたがお父さまの作品を正しく理解できないなんて心外です』と、それはきびしいおっしゃりようでした。そのお吃りをうけて、ああ、この奥さまは父のことを心から理解してくださっているのだと、新たな驚きを感じました」。
木田金次郎美術館は、建物は町立ですが、運営は岩内美術振興協会に委ねられます。開館2週間前まで決まらなかった館長には、木田金次郎に18歳の時から指導を受け、最後までそばでともに画業に精進した青塚誠爾さん(71)が就任しました。青塚さんは道展会員、一水会会友でもあります。「暇があったら絵を描け、と言いつづけていた木田画伯の教えを守って、表面には立ちたがらない人なので、説得がたいへんでした。しかし、彼ほど木田金次郎を知っている人はほかにいない。木田さんが亡くなったあとも、夫人とも交流をつづけた人です。彼には、この美術館は恩師とその夫人への鎮魂の場でもあると思ったのでしょう、私たちに非常勤、無報酬という条件を突き付けて、ようやく承知してくれました。ほんとうに、最適任者に引き受けてもらいました」と吉田さん。
その青塚さんは、木田金次郎との思い出についてはいきいきと語ります。
「1940年に中学を卒業したあと、東京から病気で帰郷していた夏に、東京美術学校の先輩に連れられて先生のお宅に伺って絵を見ていただき、翌日から木田さんのそばで絵を描くことができるようになりました。戦争末期に軍隊に召集され、復員が遅れたために、仲間より多く写生などに連れて行ってもらいました。教え方はきびしく『話してわかるのは同等の力を持っている人間だけだ』と言い、描いた絵の上を絵筆で塗り潰してしまうのです。影の色の感じなど口で説明してもわかるはずがないと、ご自分の感じた色をカンバスに塗って見せるのです。下手でも一生懸命描いていると面倒をみてくれる人でした」。
22年間、ずっと身近にいた青塚さんは「絵を習うというよりも、人間としての生き方を習ったようなものです。『絵の技を磨くよりも、人間を磨け』とも言っていました。おかげで軍隊に行き、抑留されても辛いとは思わなかった。木田さんを思えば、どんな苦難にも耐えられたのです。70歳を過ぎたいまも、私に、朝3時に起きて絵を描かなければならないという気持ちを起こさせますからね」と。
「毎日200人、400人と来館する人の対応には37人のボランティアが手分けして活躍しています。町内の主婦が多いのですが、近隣の町村から峠を越えて通う夫婦連れもいます。まだまだ研修は不充分なので、お客に質問されて答えられないときなど、私のところに駆けつけてくれます。内線電話があるのだからと言っても、それではお客に失礼になるのではと心配りし、頭が下がるほど誠意を込めて対応してくれています」そんなボランティアと一緒に仕事をするのが楽しくてしようがないと久米学芸員。
久米さんにとってもうひとつ力強いサポーターは、ピカソ美術館と『生れ出づる悩み』美術館、西村計雄(けいゆう)美術館を館内に持つ町内の荒井記念美術館と、木田金次郎の指導を受けて岩内派といわれた画家たちの作品を展示している岩内町郷土館、ニセコ町の有島記念館、原子力エネルギーの科学と埋蔵資料を展示する泊町の「とまりん館」、共和町の「かかしふる里館」の学芸員らが文化ネットワークを組んで協力しあっていることです。
いま、美術館などの地域文化施設はどのようにして地域住民に親しまれ、地域活動の活性化に役割を果たすかが問われています。木田尚斌さん(51)の設計にも、そのことを視座においたさまざまな要素が組み込まれています。
「駅舎を活用した美術館には、パリにオルセー美術館があります。私の設計では中央のパティオはシリンダー状になっていますが、やはりパリのシャルル・ド・ゴール空港もシリンダー状の建物です。芸術の都パリの建物の要素も仕掛けてあるので、なにかのヒントにしてもらえればと思います。多目的に使えるステッププラザがあり、野外シアターになるスペースも確保できます。それらを有効に活用して、美術館を中心にさまざまな催しが繰り広げられ、多くの人に親しまれるものにしてほしい」と尚斌さんは望みます。そして「岩内町は、文化的にも経済的にも西積丹地方の中心地であるべきです。これまで産業といえば生産部門を重視しがちでしたが、消費部門の発展にも目を向ける必要があります。夢物語になるかもしれませんが、フローティング・マーケット(海に浮ぶ市場)をキーワードにした商業施設の設置を考えてみるのも面白いのではないでしょうか。豪華な施設でなくても、新鮮な海産物を中心にしたマーケットにすると、港の過疎化の再生にもなり、真新しさに関心を呼ぶと思うのです」。それは、ロンドンの王立歌劇場のあるコベントガーデンが、かつては野菜や花を露天で自由に売る広場だったことを想起させるアイデアでもあります。
一方では「画壇の重鎮のひとりは木田先生の複製の作品を観ただけで、これは命を削っている人の絵だ、と指摘した」(青塚さんの話)といわれるほどきびしい生き方と作品を残した木田金次郎。そして、「芸術は魂だと思うのです。自分を理解してくれる人のためだけに描くのだ、と言いつづけていた父の魂を感じとっていただきたい」というるり子さんの願いを心して、木田芸術の真価を鑑賞する場に。
もう一方では、できるだけ多くの人が芸術・文化に触れながら、心の安らぎと生活の楽しさを享受できる場に。その両立を実現するため、岩内地方美術振興協会を中心に、町の人みんなが知恵を出し、力を集める努力がはじまっているのです。