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1995年01月号/第66号  [ずいそう]    

青春回帰
平野 紀子 (ひらの のりこ ・ 尾瀬沼畔 長蔵小屋代表)

私は、生まれも育ちも札幌っ子です。山鼻と中島公園、豊平川が私のテリトリーでした。子ども時代、周りの環境は、緑と森と、清い流れの川々、神々しく暗い神社、土の道々、木造の住宅、木造の校舎、どの風景も自然と共存した、暖ったかい土の香りがしていました。近所隣の、なごやかで、おおらかな人間関係。親たちはたがいに助け合って、子どもたちはリーダー格の兄チャンたちに引き連れられ、とっぷり日が暮れるまで、遊んで遊んで、遊びまくっていたのです。

もう、40年もの昔のことです。今の私の暮らしは、札幌よりはるかに遠い、群馬と福島の県境の「尾瀬」の中の山小屋で、30年の月日が過ぎました。22歳の秋、電光石火のように急に決まって、あれこれ考える間もなく、翌春には山小屋の嫁さんになっていました。

その時代(1964年)は、日本じゅう、高度経済成長とクルマ社会への移行、海も山も開発ラッシュ、経済優先の大驀進がつづけられていました。少女時代から北海道の山々を歩いていた私の目に映った最初の「尾瀬」の光景は、群衆に近い登山者、ゴミの山、湿原に平気で踏み込む人たち。日本各地で起きていた「自然破壊」の縮図でした。その中での生活は、心が痛む日々でした。

北海道の山々がいつも頭から離れず、何年も心の中に大きく存在し、もう一度帰りたいと思う日々でした。その最中、尾瀬自動車道路の工事が始まり、主人・長靖(ちょうせい)は反対に立ち上がり、寝る間もなく反対運動をつづけ、過労と豪雪により36歳で死亡しました。6年数カ月の結婚生活でした。

翌年から、尾瀬は「ゴミ持ち帰り運動」「自然を守る運動」の拠点となりました。登山者一人ひとりの想いが小さな輸となり、大きな力となって、ゴミのない、きれいな尾瀬、湿原の回復、山小屋の浄化槽設置と、一つひとつ解決できました。

今、私は若き日の、青春の山々と同じように美しく再生した尾瀬で生かされているのです。

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