教員養成大学の教壇に立って2年目のころ、「初等理科教育法」の最初の授業で、「超能力」を使った授業を始めた。「超能力」とは言っても、実際はマジックであるが、それらしく見せるところが難しい。まず人気があるのが「念力振り子」の実験。指から出る「念力」を使えば5円玉の振り子が動き、止めることもできる。つづいて「透視」の技。3個の茶碗の中に隠された一個の物体を「透視」で、百発百中、みごと当てるもの。学生諸君の反応は、驚きや疑いなどさまざま。そして、感想をきくと「弟子にしてください」と言う。特別な訓練をすれば「超能力」が身につくと信じているあたりが、なんとも受験生的である。一応、6割以上の諸君は私の「超能力」を信じてくれる。むしろ、疑う諸君は少数派である。時代が時代ならば袋たたきに遭いかねないが、ほんとうの授業の目的で、私がもっとも楽しみにしているのは、この少数派が私の「超能力」を見破っていく過程にある。
ある年のこと、学生F君は「透視」の実験に注文をつけ、「全員、目をつぶってからやってください」と要求してきた。なぜかと問うと「学生の誰かが、先生にだけわかるサインを送っているかもしれないから」と言う。実験の結果、私は突然「透視」ができなくなってしまった。お見事といったところである。
「何かおかしい」「なぜか」と感じる感性的な能力は科学を志すものの基本とされる。このような子どもの能力は人間が生まれながら備わっているものかもしれないが、中学、高校、そして大学に至る受験勉強の中で、ゴリゴリとヤスリで削り落とされるように、奪われてきたのではなかろうか。今、学校現場は「新」学力観と学校5日制で混乱しているようだが、あのF君のように教師にチャレンジしてくるような子どもが「落ちこぼれ」(落ちこぼし)にならない教育ならば歓迎したいところだ。