“もはや戦後ではない”という経済白書の発表に幕を明けた1950年代後半は、経済自立に向けての活動と、全国的な安保論争が活発な時代でした。
そんなとき、一人の演劇青年が東京から札幌に戻って来ました。その人は、鈴木喜三夫さん(当時27)。東京・玉川学園大学の演劇部を経て、台本作りや劇作をつづけていたのですが、大都会での生活に疑問と疲労感を感じ、「30歳を目前にして、これからの人生をどう生きるか」を考えての帰郷だったといいます。
鈴木さんが札幌に立ち戻ったのは1958年(昭和33)夏。さっそく児童劇団の「劇団こりす」、NHK札幌の劇団などで演出の仕事に取り組みました。しかし、鈴木さんの胸中には、新劇団創設の思いが強く燃えはじめていたのです。鈴木さんはアマチュア劇団の人たちや報道関係、文化団体などの人にその熱い思いを語り回りました。しかし「札幌では、芝居では食えないよ」「人材がいない」「無謀だよ」「3カ月でつぶれるさ」「時期尚早」―。ほとんどの人からは、反対あるいは消極的な反応しか返ってきませんでした。それでも、鈴木さんの決意はゆるぎませんでした。
「若かったのですね。劇団経営の怖さも、むずかしさも知らなかったから、一気に突っ走ったのです。充分に調べたり、体制固めをしようと時間をかけていたら、きっと二の足を踏んでいたでしょうね」。
鈴木さんの呼びかけにこたえて、仲間が集まってきました。プロとしての劇団活動をしたいという夢を持っていた人はほかにもいたのです。そのなかに、現在ただ一人の創立メンバーとして劇団運営に情熱を注ぎ込んでいる今野史尚(こんのふみなお)さん(56)がいました。今野さんは、勤めていた呉服店を辞めて参加しました。中学校の教員を退職した人、市役所のアルバイトをやめて集まった人もいました。
「ほとんど、見通しも計画もなかったといっていいでしょうね。あったのは『札幌に生まれ、札幌で育てていく、郷土を心から愛する劇団』をつくろうという熱い思いだけでした」と今野さんは語ります。そのスローガンを掲げた創立パンフレットには“誰にでも、よくわかって楽しめる、よい演劇創造のために”勤めの余暇や趣味、道楽にだけでなく、一生、魂を打ち込んでゆく仕事とするために”という固い決意が述べられていました。
発起人は8人。1959年(昭和34)4月12日、当時、札幌中央警察署の向かい側にあって、児童文学者が経営していた喫茶店サボイアで創立記念パーティーがおこなわれました。鈴木さんが新劇団創立の決意を抱きはじめて半年という、驚くほど短期間の快挙でした。
最初の稽古場(けいこば)は札幌美術学園でした。さっそく、第1回試演会にむけて『はだかの王様』(アンデルセン原作、鈴木喜三夫演出)に取り組み、4月25日、札幌・中島児童会館ホールでの公演でしたが、稽古期間の短さは歴然としており、結果は大失敗でした。それが原因で、中心メンバーが早くも他の劇団員とともに退団していきました。創立途端の危機です。そのひとりが「半年間は冬で公演ができないし、よい指導者も役者もいない北海道では、専門劇団はけっして育たない」と新聞紙上に発表するありさま。それを読んだ鈴木さんは発奮しました。「よし、それなら育ててみせよう!」。その危機を救ったのは、今野さんら残った劇団員の結束と、陰に表に支援してくれた人たちの存在でした。
翌60年1月の第4回試演会は、詩と音楽による『ある音の恐怖』(鈴木喜三夫作・演出)。この舞台が成功して、劇団員に笑顔が戻りました。そして、その年9月の第6回試演会『アンネの日記』の大成功で、劇団崩壊の危機から完全に脱出することができました。
「この公演は、450人の客席の会館で立ち見席が出るほどの入り。そればかりか、開演が遅れたうえに上演時間が延びたこともあって、2(ツー)ステージ目のお客が外で待っているほどでした。そんな熱気に触発され、芝居は観客とともに創るものだという実感をほとんどの劇団員が持ったと思います」と今野さんは語ります。
61年には、札幌市民劇場第2回公演に『十二夜』(シェイクスピア作)で札幌演劇協議会と合同公演。92年には『ピノッキオ』公演で札幌市民劇場奨励賞を受賞するまでになりました。中島児童会館で毎月のように上演していた「日曜子ども劇場」への参加、民放テレビなどへのマスコミ出演も多くなりました。
この3年間、劇団は稽古場を4つも移るというジプシー生活でした。専門劇団には、1日じゅう自由に使える稽古場がなければ芝居がつくれません。ようやく見つけたのが、市内北35条西4丁目の古倉庫でした。まだ市電は北24条までしか通っていない時代。家賃1万円は劇団にとって重い負担でしたが、屋根と土間を修繕し、壁に段ボールを張って、電話も取り付けました。冬、あちこちのすき間から雪が舞い込む稽古場でしたが、夜中でも気兼ねなく使える自分たちの城に、寒さにも耐える情熱が劇団員のからだにみなぎっていました。
1960年の暮れも迫ったころ、第2次池田内閣は国民所得倍増計画を閣議決定し、高度経済成長へ向って国民生活は眼に見えて改善されはじめました。しかし、芸術文化活動への関心は薄く、専門劇団といっても収入はきわめて乏しく、劇団員はほとんど無給の状態でした。
「親がかりで芝居をつづけている人もいましたが、ほとんどは昼間稽古がはねたあと、アルバイトに行きます。いまのようにコンビニエンスストアなどのない時代ですから、女性の多くは歓楽街ススキノでホステスとして働く。男性は新聞の発送、スナックでバーテンやボーイをして凌いでいる状態でした」と今野さん。
「たしか、コーヒー1杯の値段が30円か50円の時代でしたが、それも誰かに頼らなければ飲めない。稽古場までのバス代が惜しくて歩いて往復する人もいましたし、雑貨店からいちばん安いパンを1個買ってきて昼めしにする人など、劇団員の経済的苦労はさまぎまでした。お金がなくても、なんとか暮らしていける時代だったかもしれませんが、とにかく、めしが食える芝居をつくりたいという思いがみんなにありました。いまの人には理解できない心情だと思います」とも。
夜中のアルバイトで疲れ果て、稽古場の片隅で仮眠をとる人がごろごろしている毎日でしたが、出演回数は順調に増えていきました。ある年の学校向け演劇教室に出演して、それまでにない金額の上演料が入り、劇団員全員に1千円が支給されました。「カレーライスが100円くらいのころ、劇団員にとっては予想外の高収入で、みんなは大歓声を上げ、中島公園から駅前通りを躍るように歩いた光景が、いまも忘れられずにいます」と鈴木さんはふり返ります。
しかし、経済的な苦悩は劇団員の結束にひびをもたらし、生活費を要求する劇団員と劇団首脳のあいだで激論が交わされることが多くなりました。なかには、公演を目前にひかえながら稽古を放棄して退団していく人も出るありさま。しかし、去る人があるなかで、新しく入団してくる人もあり、新しい力をよみがえらせながら公演をつづけていきました。
1963年(昭和38)、劇団は大きな飛躍をとげました。それまでは札幌市内での公演でしたが、道内巡演へと脱皮したのです。さまざな議論の末、地方にも芝居好きな観客は大勢いる。その人たちに、よい芝居を観てもらおう―という意見にまとまっての決断でした。巡演劇場第一作は『トタンの穴は星のよう』(藤本義一作、鈴木喜三夫・吉川雅喜演出)。皮切りの釧路に2週間泊り込み、中学校、高校など10校近くと一般公演を打ちつづけました。最後に札幌に戻って公演をするまでに、いくつかの町村も回りました。どこでも、中学生をはじめとした地方の観客は、素朴ではあったが熱い喝采を送ってくれました。
「ホールは、ほとんどが木造の体育館。舞台が狭いので小ぶりな作りしかできないのですが、それでも、とても喜んでくれました。ある学校では、前列の児童が息をしていないのではないかと思うほど静かなので先生にどうしたのかと聞いたら、電気のないへき地から来た子どもたちだというのです。舞台照明を見て、あ然とし、声も出ないのだろうということでした。めったに芝居が来ることもなく、テレビもまだ充分に普及していない時代でしたから、ほんとうに感激してくれました」と今野さんは懐かしそうに話します。
こうした道内巡回公演の成果に、北海道教職員組合や北海道民間教育団体連絡協議会などが積極的に協力。63年と64年の2年間に中学校38、高校22、一般11、その他3で192ステージをこなし、公演日数は77日におよびました。また、68年から北海道教育委員会が道内辺地校を対象に演劇や音楽を提供する「巡回小劇場」という名の事業に乗り出したのです。劇団の活動の機会がぐんと増え、経営にもメドが立つようになりました。
1970年、大道具・小道具を積んで全道を巡回することができるトラックを購入しました。なによりも劇団員をうれしがらせたのは、全員の給料制が実施されたことです。それまでは、上演料が入ったときに小銭の硬貨を何枚かずつ支給されるだけ。給料が支給されたとはいっても、中身は一般サラリーマンの半分程度。依然、きびしい生活がつづくことに変わりありませんが、プロ劇団員であることの実感を持つには充分な重さでした。
学校を回る巡回公演は、全道の児童生徒に大きな教育的成果を与えつづけました。
網走地方の東藻琴村は、幼稚園・保育所が2園、小学校2校と中学校、高校各1校で、全児童・生徒は約600人という小さな村。村の教育委員会は、12年前から「青少年文化劇場」という名で年間6回、演劇や音楽演奏の鑑賞会を開催しています。
「地方の小さな村では、生の芸術文化にふれる機会が少ないのです。村民の文化活動でも劇団を招くとなったら費用や動員がたいへんで、簡単には取り組めません。そこで、行政が学校教育事業の一環としてこの事業をすすめてきました」と、村教委社会教育係の菅原洋治さんは話しています。
この事業には村内の父母や青年たちで実行委員会をつくって積極的に支援しており、各校年2本の公演を楽しんでいます。
「校内鑑賞会のときは屋内体育館で、一般公演のときは農村環境センターのホールにパイプいすを並べて上演されますが、事前にパンフレットなどが配られているので、子どもたちは早くから公演の日を心待ちにしています。当日、幕があくと、舞台と観客が一体になったように熱心に鑑賞しています。劇団側も和やかな参加型の舞台づくりをしてくれますので、みんな心から楽しんでいます」とのこと。
そんな公演を観て大きな感銘を受けたひとりが、現在、女性劇団員の最ベテランとして活躍中の長谷川京子さん(47)です。
「中学生のときに巡回公演を鑑賞し、公演後に劇団員との交流会に参加したりして、すっかり演劇ファンになりました。中学卒業を待って入団希望を申し出ましたら、鈴木さんらから、高校を卒業したら入団させてあげるといわれました。その言葉を信じて、高校を卒業すると同時に押しかけてきたんですよ」。1966年のことでした。
「演劇はいろんな人の人生にふれられるのが、おもしろいと思いました。自分自身の人生は一回ぽっきり、それも自分だけの人生でしょう。あのころの女性は、たぶん学校を卒業したあとは無難な職業について、ある時期が来たらお嫁に行ってと、コースは決まっていましたよね。ところが、お芝居では子どもの役からお年寄りの役、外国人にもなれるんです。それらの役を通して、少しでも世の中に目を開き、学びつづけたいと思いました。また、劇団は男女差別もなく、年齢も関係なく生涯つづけていける場なので、そんな世界で生きたいと中学生のときから考えていました」。
現在の劇団員は26人。そのうちの半数は女性です。昨年の春も、高校を卒業したばかりの女性がふたり入団しました。
現在、公演形態は、幼児とその親子向けの小型作品が年2本、小学生向け2本、中・高校生向けと一般公演用を一本持って、札幌をはじめ道内各地を巡演しています。劇団は全国児童青少年演劇協議会にも加盟し、青森や宮城、福島などの東北圏内、石川県にも足を伸ばしています。川崎市や東京公演も実現しました。それらの公演日数は年間約200日。もっとも過密なのは9月、10月で、休日は月に2日とれるかどうかというほどの旅回りがつづきます。
「長い巡演つづきで疲れがピークになり、劇団内の人間関係がばらばらになりそうなときもあるんです。そんなとき、いいお客さんに恵まれて舞台が引き締まる。すると、また元気を取り戻して頑張るんです。もちろん、呼べど叫べど、だめなときもあります。でも、お客さんもいろいろ。そう思って気を取り直し、やっぱり頑張るんです」と長谷川さん。
公演作品の幅は広いが、大別すると2つの流れに分けられます。その一つは、北海道をテーマにした道内作家による現代劇。1983年、かつて北見地方で起きた強制労働をテーマにした『常紋トンネル』(矢作京介作・飯田信之演出)が劇団独自の創作劇として大成功を収め、その後、松岡義和の3部作『まわせ水車』『夜明けのロックンロール』、そして昨94年初演の『知床に吹く風』その他の蓄積が増えていることです。もう一つは『なら梨とり』や『へっこきあねさがよめにきて』などの民話劇。日本人の感性の原点ともいえる民話を大切にしたいという劇団員の思いが込められた舞台は、誰にでも素直に受け入れられています。そのほかに、10分か20分の話を簡単な衣装と背景、それに動きをつけて演じる二人芝居風の『昔話の世界』もあります。巡演のほか、毎月第3土曜日は劇団ホールで定期公演をおこなっています。
稽古は午前10時から、自主トレーニングではじまります。炊事当番の人ヘ、厨房で昼食作りにとりかかります。午後は公演のスタンバイと稽古。夕方から、また自主トレをしたり、衣装や小道具作りの時間です。自主トレは、次回公演の予習をしたり、思うように演じられなかった部分の再習をしたり。ベテランはそれをじっと見ていて、気がついた個所があれば指摘します。新人はまだ声ができていないので、発声練習。体力もまだ不充分なので、肉体の柔軟性を養う訓練も大切です。そして、セリフは心で語れるようになるまで練習を繰り返し、役づくりの勉強に励みます。
「芝居は感性で観るもの。娯楽のつもりで、伸びのび観てくれるのがいちばんありがたいのです。子どもたちが素直に、熱狂的に喜んでくれるのを見ると、苦労は一気に吹き飛んでしまいます」と今野さん。
1976年(昭和51)に、現在地の宮の沢に土地を購入して、プレハブながら事務所と稽古場を建てました。こんどこそ自前の稽古場です。それから10年、劇団はたくましい成長をつづけていましたが、1986年(昭和61)、創立から劇団代表を務めていた鈴木さんが、フリー演出家に専念するため退団していきました。翌年には、創立メンバーとして数々の芝居をつくってきた吉川雅和さんが病気のため世を去りました。しかし、後継者は着実に育っていました。そして1991年に木造モルタル3階建ての事務所・稽古場を新築。同時に劇団を法人化し、株式会社となりました。建設資金を得るためのカンパ活動、劇団債の発行にも多くの協力が寄せられました。
鈴木さんからバトンタッチされて代表に就任したのは、1970年に入団した林中直樹さん(49)です。
「昨年4月から1年間、劇団は創立35周年記念と銘打って公演をつづけています。35年間の歴史は財政的な苦難の連続でした。そのため、劇団員に世間並みの待遇ができず、経済的ひっ迫に耐えきれずに退団していく多くの仲間。それを引き留めることができず、残念な思いをなんども経験しました。その苦しさはいまも解消できずにいますが、半面、北海道に根ざしたオリジナル作品をいくつか生みだし、子どもから大人まで幅広い人たちに文化的なものを少なからず提供できたことは大きな成果だろうと思います」と林中さんはふり返ります。しかし、その巡回公演の前途にも不安が持ち上がりつつあります。
「今年から、学校にも月2回の5日制が導入されます。ところがカリキュラムは以前のまま残され、教育スケジュールの過密化に拍車をかけつつあります。本来、心のゆとりを求める教育の実現が目的のはずなのに、文化やスポーツ行事から削減される傾向をみせはじめているのです。道や市から若干の事業助成はいただいていますが、劇団は株式会社なので、営利団体扱いで直接の補助対象から外されています。劇団経営はどう設定しても営利は成立しないのですが、実態を評価してくれるまで社会環境は成熟していません。もっと行政や地域社会に、文化活動を支える輪が広がってくれたらと思います。しかし、私たちの公演を待っていてくれる大勢のお客さんがいます。小さいながらも支援してくれる後援会もあります。多くの人によい芝居を観ていただくために、完全2班編成で巡演できるようにしたいと思っています。そのためにも、役者やスタッフとなる人材がほしいですね。大きな芝居を2班編成で上演できるようにすることは、財政面からもぜひ実現しなければなりません。そして、もう少し収入を増やして劇団員の生活水準を向上させたい。それが最大の課題です」。
もうひとつ、劇団さっぽろは町内会と協力関係の深いことが大きな特色です。稽古場のある宮の沢町内会の染谷重雄会長は、「私たちの町内会は、札幌に生まれたプロの劇団のある“文化町内会”と位置づけているのです」と、まず語ります。
「はじめは町内会の人たちの一部に色めがねで見る雰囲気もあったようですが、劇団の人たちが町内会の盆踊りや夏祭りに積極的に参加してくれるようになり、気軽に声をかけあう雰囲気ができて、合同で新年会をするようになりました。稽古場を新築するとき、劇団から協力要請があったので回覧板を回したところ、町内の有志から予期以上の寄付金が寄せられました。それにこたえて、劇団が設計図を持ってきて『町内会としての希望があったら、言ってほしい』というのです。そこで、できるだけ明るい建物にしてほしいとアドバイスしました。町内会の人のなかからは、看板の行灯(あんどん)や掲示板を製作して贈る人がありました。物置の屋根を取り付けるとき、何人もが手弁当で奉仕したのです。チケット売りに協力する人、旅公演にドライバーをかって出る人もあります。それに対して劇団は、2階の和室を町内会に開放して、会合や囲碁、マージャンを楽しむ場所を提供してくれています。また、毎月定期的に『昔話の世界』を公演して、町内の子どもたちやエプロンがけのお母ウんたちを楽しませてくれています」とのこと。
地域に根ざした劇団をめざして誕生した劇団さっぽろは、苦節35年の歴史を積み重ねつつ、多くの人の支えによって着実に文化の灯をともしつづけています。