<<座談会出席者紹介>>
速水 潔さん
1919年生まれ、旭川出身。高校教師を勤めるかたわら、戦後、旭川山岳会を再発足させて初代理事長、現在は会長を務める。国内の山岳遭難救助、安全登山思想普及の草分け。その功労によって、内閣総理大臣賞、勲五等瑞宝賞を受賞。
中條 良作さん
1923年生まれ、愛別町出身。上川郷土研究会、上川町自然科学研究会を結成。町埋蔵文化財調査員として「越路34線遺跡」の発掘に当たるなど、町の開拓史、自然史の調査、研究に務める。北海道文化財保護功労表彰。
工藤 虎男さん
1917年生まれ、サハリン(旧樺太)出身。戦後、林野局雇員として勇駒別山の家(白雲荘)に務め、道北地方山岳遭難防止対策協議会東川部長として遭難救助、事故防止に尽くす。現在は忠別漁業日産組合参事として熱帯魚テラピアを養殖中。藍綬褒章を受章。
―みなさんは、大雪山とはどのようにかかわってこられたのですか。
速 水 私の生まれは現住所の旭川市大雪通という、以前は永山村といっていたところです。そのころ、あたりは一面の水田で、家の障子を開けると、寝そべりながらでも山全体が見渡せるという環境でした。
それに、父の知人などがよく遊びに来まして、山ヘクマを捕りに行った話など、山のいろんな面白い話をしているのを耳にしていて、自分もおとなになったらぜひあの山へ行ってみようという気持ちが芽生えていました。ですから、子どものころから山に対する、というよりも大雪山に対する愛着というか、あこがれが生まれていました。
私が12歳の時だったと思いますが、近所の人に連れられて初めて大雪山に登ることができました。上川町に1泊し、翌日、馬車で層雲峡まで行き、黒岳から登ったのです。その時は、子ども心に恐ろしさと疲れ、天候も良くなかったこともあり、あまりよい印象ではありませんでした。
その翌年、私は高等小学校に進学しまして、こんどは自分ひとりで登りました。その時は、真夜中に自転車に乗って家を出て、層雲峡に着いたのは夕方。そして、当時は国沢温泉という、ひなびた温泉宿に泊まりました。風呂場にはヘビがのたくり回るような温泉だったのを覚えています。
次の日、朝早く宿を出発しました。私の先には工事に行く人夫さんが大勢おり、私はその人たちの後をついて行きました。
四合目でしょうか、いまのロープウエイの駅舎の下あたりだと思いますが、見ると木の枝に提灯(ちょうちん)がたくさんぶら下がっています。おかしいな思ったのですが、それは、工事の人たちが暗いうちに飯場を出るものですから、足もとを照らすための提灯を持っていくのですね。そして、三合目あたりまで来たところで夜が明けるので不要になり、邪魔な提灯を木の枝にぶら下げて工事現場に行くのです。そして、仕事が終わって帰る時は日がとっぷり暮れているものですから、またその提灯を灯して足もとを照らしながら帰るのですね。
この時の登山は、うまく頂上まで登ることができました。頂上からの眺めは、これが地球の表面なのかと驚きましたね。あの断崖絶壁、そして山肌の色、きれいな高山植物。その後、何回となく、いろんな山に行きましたが、あれほど強烈な印象を受けたことはありません。
中 條 私が大雪山に初めて登ったのは1931年(昭和6)、小学3年生の時でした。からだが丈夫でなかったため、まわりの人も心配していたようで、その時は安足間橋を渡ったくらいでした。
初めて本格的に登ったといえるのは、次の年です。地元の青年が道路をつくっており、家族といっしょに三十三曲がりを越え、永山岳のクライマックスまで望んで、感激を新たにしたものです。
私は北海道に帰還して、それから10年あまり山には登れませんでしたが、1943年(昭和18)に帰還し、翌44年に1年間、管理人として山においてもらいました。
工 藤 わたしも樺太(現サハリン)から引き揚げて来て、1948年(昭和23)に東川町の忠別にいた家内の親戚のもとに落ち着き、農家の手伝いをしていました。そんな時「勇駒別温泉(現旭岳温泉)に営林署の小屋がある。そこに入って山の管理をしないか」と誘われ、その年の6月から帝室の御料林の管理をすることになったのです。1940年(昭和15)に建築した白雲荘ですが、行ってみると神楽営林署の職員2人が先に来ていました。わたしが管理人に雇われた者だと自己紹介すると、毛布、わら布団、炊事用具など備品目録の書類を渡してくれました。しかし、壊われたりして何もない。東の門戸から見ると、まるで熱帯のジャングルのような感じ。しかも、あちこちに湯気が立って、お湯が流れている。温泉なんだからと、夜になって風呂場へ行ったら、いきなり腐った板を踏み外して足を落としてしまった。みんなは「山、山」と言って登りに来るが、わたしは農業育ちで山には全然興味がなかったものだから「こりゃあ、えらい所に来てしまったな」と思いましたよ。それでも、この仕事を辞めようとはまったく考えませんでしたね。
それから2~3年たつと速水さんも来るようになる。愛山渓には中條さんのお父さんもいました。営林署の職員も、何時間もかけて山越えして歩く。そんな人たちにいろいろ話を聞かされているうちに、それなら少しは山を歩いてみなければと思うようになりました。速水さんとは知床の羅臼岳に登ったこともありましたね。
若いころは元気だったですね。天人峡から米を1俵(60キログラム)背負ってもまだ軽いものだから、また荷物を持つ。それでも、先に出た登山者を途中で追い越してしまうほどだったですよ。夏は毎日のように登山者が多く、自炊の残飯が出る。もったいないので、それを餌にブタを飼うことにしました。なにしろ給料が安いから、ブタを肥らせて生計の足しにしようと思ったわけ。
そのうちに、速水さんなどにも誘われて旭川山岳会の会員になり、その後、東川地区支部ができて、いま、わたしが3代目の会長です。思えば、無我夢中でやってきたような気がします。
中 條 私の父親は1921年(大正10)、20歳の時に山へ入っているのです。当時は安足間から愛山渓とつめて、永山岳まで行く。まだ道がなかったから、たいへんなことだったと思います。
当時は、愛山渓から黒岳へ行くコースが「表大雪登山口」、勇駒別からは「裏大雪登山口」といい、旭岳に登るのは「横道」と言ったものです。
私が1944年に山に入った時は、胴乱(植物採取などで腰に下げる容器)一つとニギリメシ。それも豆八分、米二分という、ほとんどが雑穀入りの弁当を腰に下げて歩いたものです。その年に巡視員の臨時雇いになったのですが、冬になるとなんの補償もないのです。補償がつくようになったのは1951年(昭和26)からでした。
戦時中のことでしたが、植物などの盗採もけっこうありました。ですから、わりと一生懸命巡視活動をやっていました。戦後のほうが、山に入る人も増えたこともあり、かえって気をぬく面がありましたね。
黒岳の五合目までにロープウエイが設置されたのは1967年(昭和42)、1970年(昭和45)にはその上から七合目までにリフトが取り付けられました。勇駒別から姿見の池までロープウエイが開通したのは1968年(昭和43)でした。そのため、ここから気軽に各方面に行けるようになり、大雪山のすばらしさを多くの人が知るようになりましたね。自然保護の面からいえば、黒岳の登り口など、しぜんにできた道が縦横にあって高山植物を傷めることも多かったのですが、ロープウエイがついたことで他の道に入らなくなったという、良い面がありますね。
1951年ごろだったと思いますが、層雲峡の名付け親で黒岳登山口の祖でもある文学者の大町桂月が、初めて登山をしてから30周年になるということもあり、桂月一行が山頂付近に置いてきたといわれる道具類を探そうということになりました。方々探した結果、マネキ岩の下の方で手桶と鉄製の三脚、アイスクリームの製造機などを多数見つけました。大切な歴史資料だからと、人夫をつけて全部下まで降ろしたことがあります。
―大雪山登山について、戦前と戦後にどんな変化を感じていますか。
速 水 圧倒的な変化は登山人口の数。それとともに登山者の質の問題ですね。むかしの登山者は、ほんとうに登山を楽しむ人でしたが、現在は観光目的の人が多くなっています。
山の自然破壊の話題が出ていましたが、むかし山に登った連中は、当時としては一生に一度の想いだったと思いますね。だから、やたらに「登ったんだぞ」という記念の木杭を立てていくのです。ずいぶんたくさんありました。これが山の破壊の始まりだったと思いますね。次が落書き。山頂付近の岩や石室の中などにずいぶんあって、いまよりも多かったのではないかと思いますよ。
私も、黒岳の小屋に落書きをした覚えがありますもの。それで、ひじょうにきびしく取り締まった一時期があります。私の落書きには住所、氏名をはっきり書いてきたものですから、ある日、林務署から呼び出しがありまして「消してこい」というのです。それで、正直に消しに行きワした。忘れもしない9月20日。雪の少し降ったあとの寒い日で、もう番人もいない。戸が閉まっているのでやっとの思いで屋根にのぼり、天井から中に入って消してきた思い出があります。
その後、本州の学生などが縦走登山に来ては、やたら野営をするようになりました。野営した跡は、ハイマツなどが根こそぎ焼かれてしまうのです。あれが植物破壊の始まりではなかったかと思いますね。また、観光客などはコースがあるのに、より美しいところに行こうとしてコースのない植物の上を歩き回ったりすることが多くなりました。これらはまったく悪気のない、純真な行動だったと言えます。
悪気のあるのは盗採、密採。これは犯罪です。近年、こうした行為が多くなりました。そこで、これを防止するために、よく登山者のマナーが問題にされます。しかし、山のマナーのことが言われはじめたのはごく最近のことで、せいぜい15年前ごろからでしょうね。それまで、マナーといえばテーブルマナーのこと程度の感覚しかなく、山へ入ったらどうしなければならないかなど気がつかない人が多かったのです。だから、なかなか徹底しないわけです。
山自体の変化を言えば、むかしに比べてコースがものすごく悪くなりましたね。黒岳の上なども、あんなに土が流されて岩が出ている状態ではなかった。黒岳は1924年(大正13)に登山道ができたのですが、しばらくは登る人も少なく、きれいな側溝もありました。間宮岳付近もほんとうに平坦なよいコースでした。しかし、登山道ができたことでその道を水が走るようになり、いまは雨裂(うれつ)というのでしょうか、深い裂け目ができて、それがますます大きくなり、登山道が東の方に移動しています。まあ、手入れが悪かったことと、登山者の数が多くなったためでしょうね。
山の開発のことも問題にされます。これも、人口が増えたから開発が進んだのか、開発が進んだから人口が増えたのか。いずれにしても、すでに手つかずの自然などほとんどないはずです。人工物ができたことで、局部的にはあまり傷められずに済んでいるかもしれないという一面もありますね。
―旭川山岳会は、大雪山の登山コースに道標をたくさん立てましたね。
速 水 以前、いくつかの団体が、やたら指導標を立てて歩いたことがあります。それぞれ形式や距離も異なっていたので、これではだめだ、見苦しいということで、大掃除をしたことがあります。そして、きちっとした指導標を立てようということになりました。戦前に帝室林野局や北海道庁林務部などの墨筆で書いた標識は、風化して細くなっているのに文字が消え残っています。あれなら長持ちするだろうと思い、看板屋さんに3寸5分の垂木(たるき)に文字を書いてもらいました。なにしろ、生木なものですから、とても重い。それを10本くらいずつ背負って、勇駒別口、天人峡口、愛山渓口から黒岳に抜けるコース全部を測量しながら立てていきました。ところが、看板屋さんは墨汁を使わなかったらしく、4、5年で剥げてくるものもありました。
中 條 1959(昭和34)、60年ごろでしたね。
速 水 1970年代近くになって、旭川市交通課の課長が旭川山岳会の会員でもあったので「もっと格好のいい、丈夫なものを立ててやる。道路標識と同じ作り方なら風雪にも耐えるから」と言ってくれ、当時の国策パルプ工機部が焼き付け法で文字を書き、鉄の脚を付けた頑丈なものを作ってくれました。その後、環境庁で引き受けてくれ、山頂に立ててくれました。しかし、その途中はいまもありませんね。
工 藤 やはり、いちばん長持ちするのは木製の標識だね。むかし、息子と孫を連れてトムラウシの方は500メートルずつ、旭岳の方は200メートルおき、中岳の方も全部測って3寸5分(約10センチ)、長さ6尺(1.8メートル)の角材を立てたことがあります。下の方は少し腐食しているけど、いまも残っていますよ。旭岳から盤の沢、第一公園、第二公園、それから愛山渓に行く経路、こういう湿地帯は傷みがひどくなっているので環境庁などが整備してくれるといいのですがね。
天人峡の方は6月末の山開き前に地元の人たちが出て、コースの水切りを良くしようと枕木などを敷いています。効果はあるんだが、ほんの一部だけ。国立公園なんだから、登山者が歩きやすいように、事故がないように、年次計画を立てて整備してくれてもいいんですがね。
―各地区に山岳会があると思いますが、どんな活動をしているのですか。
速 水 大雪山周辺では旭川山岳会がもっとも古く、国立公園に指定されてまもなくですから、創立60周年ほどになります。それ以前には北海道山岳会がありました。これは道庁や林務署の役人たちで結成したもので、官僚色が濃いという一面がありました。大雪山の西側でいえば、山麓の町村はどこも山に関心が強いので、美瑛、東川、当麻、上川などに支部組織があります。
中 條 私どもの山岳会の母体は旭川で、当麻、東川、上川、美瑛、みんな速水さんがしっかり掌握して私たちを指導してくれていました。
速 水 山岳会も、山を楽しむという本来の目的が、現在は半減されているといえますね。あとの半分は、自然の保護活動です。やはり、山岳会員ともなれば身をもって範を示さなければならないので、「クリーン大雪」を合言葉にパトロールに出かけたり、ゴミ捨いをしたりしています。
中 條 自然の保全は山岳会に頼らざる得ないのが現状ですね。ところが、どこの山岳会にも老化現象がみられます。20歳代の人が入会してこないのです。
―登山の楽しみと、危険防止についてのお考えを聞かせてください。
速 水 登山は多少の危険性がなければ面白くないといえますね。つねに緊張感があってこその面白味だと思いますよ。
中 條 危険といえば、むかしは、沼の平に行っても人の足跡よりクマ(羆(ヒグマ))の足跡の方が多かったですよ。現在は年間1万人くらい登っていますが、むかしは2、3百人程度でしたから、はるかにクマの方が多かった。でも、何ひとつ防備はしないで歩いていましたね。
速 水 防御のしようがないですものね。ただ、ひとに聞かれたら、できるだけ音の出るもの、トランジスターでも鳴らして行きなさいとか、爆竹などを持って行きなさいとは言いましたが、自分で持って行ったことはありません。
長い登山歴ですから、クマのそばを知らずに通ったことはずいぶんありますよ。あとで知ったのですが、動物園や猛獣サーカスを見に行った時のような、一種独特のにおいがします。もうひとつは、ハイマツが両側から被いかぶさっているような細いコースを歩いて行きますと、向こうにブヨなどの虫がだんご状態になって群がり、ブァーツと移動して飛んでいることがあります。あれは、クマの背中を追って群がっているのだと思いますね。
工 藤 わたしは、北海道に来てまもなく、猟師やアイヌの人といっしょにクマ捕りをしたことがあります。アイヌの人の連れたイヌが鼻をクンクンさせるので、見たら沢の下を歩いている。そこで、狭い尾根を回って近くまで行き、村田銃を撃ったが当たらない。3日間そのクマを追ったが、十勝側に逃げてしまった。しかたなくトムラウシ山に2晩泊まったのですが、その時に子グマを捕まえた。子グマは簡単に生け捕りできるんですよ。親グマは、人に追われると命が惜しいから、まず逃げる。すると、子グマはすぐ木に登ってしまう。そこを捕まえるのです。子グマは荒縄で縛っておいても食いつくことを知らない。目がまん丸で、口吻が長く、可愛い顔をしています。それをリュックサックに入れて背負い、途中、知り合いのバス運転手に乗せてもらって忠別まで帰ったことがありますよ。
クマは大雪山全体で3千頭くらい生息していると推定されていた時代がありますが、現在はそんなにいないと思っています。大雪山ではクマは減って、シカが増えています。クマはシカを殺して食います。全部食べきれなかったら、土に埋めるのです。それを見つけたことがあって、シカの皮も肉ももったいないからと横取りしたこともありますよ。
クマの通る道は決まっているのですが、自分からは見えて相手からは見えないところに身を隠していますね。勇駒別方面なら、熊の沢から6キロのシミズノ沢を通って愛山渓に行くところ。また、幣の滝とワサビ沼、天女が原あたりがよく出没する場所です。温泉の出る湿地帯は、いろんな雑草が生えている。水辺の岩を起こすと、ニホンザリガニなどもいます。ミズバショウも、秋になれば根を掘って食べるんですね。クマは雑草、穀物、肉、なんでも食べるから絶滅しないとは思いますね。冬になれば、エネルギーの消耗を防いで仮眠しています。人間にはわからない、いろんな特徴を持っている動物ですよ。
速 水 クマは、いろんな学者の説を聞いても、たしかに減っているでしょうね。以前は、北海道全域で5千頭説を唱えていましたが、その後、3千5百頭説が出たり、最近の調査では2千5百頭くらいだと言っています。むかしは登山者の数は少なかったが、山に行くたびにクマに遭ったという話を聞いたものです。しかし、最近はこんなに登山者が多くなり、クマに遭うチャンスはあるはずなのに、クマに出遭ったという話をあまり聞きませんね。
中 條 クマよりも、山でほんとうに怖いのは遭難ですね。1960年(昭和35)に、北海道学芸大学(現北海道教育大学)函館分校の学生が10人も遭難したことがありました。私も出ましたが、速水さんも工藤さんも、みんな救助に出ましたね。
速 水 あれは旭岳の陰でしたね。12月31日から元旦にかけての、想像を絶する大暴風雪でした。あの時期ですと積雪が2、3メートルはあるはずなんですが、まったく吹き飛ばされて岩が出ている状態、それくらい強い風だったらしいです。硬い雪の繧ノ深く刺してあったスキーが折れていましたし、持ち物やテントの裂れ端は300メートルくらい飛ばされていました。
とにかく、すごい風でしてね。斜面ですからテントを張る部分の雪を掘り下げて待避していたらしいのですが、まずテントが飛ばされ、そのあとどんどん風が吹いて雪を飛ばすものですから、からだと雪の壁とのあいだに吹きつける雪が溜まります。そのうちにだんだん自分のからだが浮いてきて、ついにからだごと飛ばされたのです。テントの中ですから、みんな靴を脱いでいたんですね。靴下だけで散りじりになり、山頂めがけて逃げたのですが、道に迷う者が出てくる。しかも、そんな低気圧が通過したあとは急激に寒くなりますから、西側斜面はすっかり氷になっています。そこを靴下だけで歩いたものですから、氷の上でスリップして谷底に落ちてしまったのです。11人のパーティーのうち、助かったのは1人だけ。この人も両足が凍傷にかかっていて、両足の踵から下を切断しました。いまは元気になって社会復帰していますが。
工 藤 この時の遭難は、わたしも速水さんらといっしょに捜索したんだが、吹雪で行動がとれなくて、下からニギリメシを運んでもらっては石室の中で待機していました。きょうは、もうだめだからと帰ろうとしても、吹雪で沢は埋まってしまっている。地形が全然違っているんですよ。
速 水 生き残った人が白雲荘の裏に出て来たのを、工藤さんが見つけた。全身が凍っているので、早速、そのまま風呂に入れたのでしたね。
こんな暴風雪に遭った場合でなくても、大雪山の冬山で遭難する原因は、白一色で目標物がまったくないからです。しかも、本州の山のようにはっきりと尾根がない。中央高地といわれる高原状態ですから、方向を間違ったら目標物がないのです。寒いところで、磁石と地図を合わせてみることもなしに、勘で歩いているだけですから、いよいよコースがわからなくなったら、どうすることもできない。そんな、コースを見失って遭難するケースがひじょうに多い。
夏の場合も、切り開かれた夏道を、足もとを見ながら歩いていれば間違いはないのですが、雪渓に入りますと出口がわからなくなってしまいます。そうしてあちこち探して歩いているうちに疲れきってしまい、藪の中に迷い込んで死亡するケースがあったりします。そして、有毒温泉ですね。以前、御鉢平(旧噴火口)で死亡事故がありましたが、あれは自分から降りて行ったのでしたね。
もうひとつ、事故がありそうで案外ないが、ただし1件だけあったのが黒岳の断崖からの転落事故です。あれは、道東のある町の町民登山の子どもでしたね。それで、あそこに防護柵を設置したのです。
工 藤 岩見沢市の山友が、訓練のためと4人で来たことがある。石室に泊まったあとあちこち歩いたんだが、旭岳に登った帰りに迷ってしまい、1人だけが助かったという事故がありました。なかなか見つからなかったのだが、父親が毎日来て探すんです。「天人峡から登って来たら、だれか焚火をしているのが見えた」とか「盤の沢で3人がふらふら歩いている」と言うので捜索に行ったが、見つからない。ほかの人にも聞いたが「何も見えない」と言うのです。
それから4年8カ月たった時に、白骨で発見されたんです。そこは通常、人の通らない場所ですが、開発局の人が測量に入って骨を拾って来た。見ると赤茶けていて、人骨には見えない。シカの骨ではないかと思ったが、わたしの家内が「仏様だから線香をあげる」と言う。しかし、線香もローソクもないんですよ。それでも、だんごなどを作って拝んでやったのです。家内は、「ほかにもあるかもしれないから、探しに行った方がいい」と言うので、次の日探しに行きましたよ。忠別川敷島の滝の上、高根原下の小沢、小川、3か所目の湧き水の出ているところの笹の上に、セーターの裂れ端がひっかかっている。あたりを探したら人間の頭蓋骨が見つかったのです。さらに探したら、また頭蓋骨が見つかった。こんどは、ザイルやストックも見つけた。遭難したのは3人のはずだから、みんな連れて帰ろうともっと探したら、トドマツの木の下にナイロン製の着衣姿のままの3人目の遺骨も見つけることができましたよ。
遭難した時は、情報が大切なんですね。どんなわずかな情報でも、発見に役立つ場合があります。また、本人も何かの目印をしておくことが大切です。たとえば、沢を移る時は木の枝などで行く手を示しておく。そんなことで助かることもあるんです。
速 水 最近、遭難の数は少なくなったとはいえ、まだまだ多いです。工藤さんは、数え切れないくらい救助していますね。
工 藤 やはり、苦労は遭難救助だね。2日も3日も捜索する。長くなると救助隊員も不足する。家族が応援に来るのだが、服装などきちっとしてくれていればいいが、そうでない場合が多い。隊員に無理を言ったり、勝手な行動をしたりする。遭難者の家族や友人にも焦りがあるのはわかるが、「われ墲黷フ指揮下に入っているんだから従ってくれ。二重遭難が起きたら困るから」と言っても、若い学生などは「自分たちで探す」と言ってきかない。隊員たちは「勝手なことをするな」と怒り出すんですよ。隊員がしょっちゅう入れ替わるのも、たいへんです。救助の時は二重遭難を防ぐために必ず2人ずつ組む。人員も足りないですよ。隊員には警察の無線機やうちの無線機を持たせるのだが、それも足りない。ロープだって足りないから、借りて回るのが実情ですよ。
中 條 遭難は、冬山よりも夏山の方が多い。石室の近くで、よく遺体が見つかることがあります。
速 水 全国的にみれば遭難数は多い方ではありませんが、質が違うのです。大雪山はコースを踏み間違うケースが多いが、本州の山は転落、岩登り中の事故が多いですね。それは、尾根が険しいからです。
北海道の山はなだらかで、ちょっと見には、女性的な山の代表のようにいわれます。しかし、女性的な恐ろしさは山にもあります。人生と同じですよ。
―大雪山の山の上で、石器時代などの遺跡があるようですね。
中 條 白雲岳、黒岳の裾の白滝から大雪山に向かう大函の陰などから黒曜石の鏃(やじり)がたくさん見つかっています。アイヌの人たちやそれ以前の古代人などの、北見側と石狩側のルートが大雪山にあったと考えられています。
速 水 1924年(大正13)に、白雲岳や黒岳付近で発見されたということですね。あの寒いところで生活できるわけがないので、おそらく夏に狩に行って、その場に一定期間滞在して鏃を作って、使っていたのでしょう。土器は出てこないようですね。あの辺はわれわれでもキャンプをするには最適の場所ですから、夜はその周辺で野営して、翌朝早く高原沼の方へ下がって狩をする。黒岳付近からは烏帽子岳の方へ行って獲物を捕っていたのでしょうね。
中 條 白雲岳付近の雪渓を掘ったら、かなりの数の石器類が見つかりました。なにか、アメリカインディアンとの関連を証拠づけるものもあるということでした。
速 水 大雪山の歴史をさらに語れば、コースがもっとも早くできたのが愛山渓コースです。それから天人峡コース。そして、黒岳から勇駒別までのコースができました。そのように愛山渓と、当時は松山温泉といっていた天人峡に温泉客なども訪れるようになり、その後、急速に登山者が増えたのが黒岳です。
それはなぜかといえば、やはり黒岳に石室ができて案内組合が生まれ、山の案内人がいたことです。それに、山小屋に番人が常駐している山小屋は、当時、北海道のどこにもなかったのです。
工 藤 旭岳は標高が高くて、天気さえ良ければ四方は見渡せるが、滞在したり、そこからどこかへ行くとすれば下の鞍部を基地にしなければならない。その点、黒岳は層雲峡に近く、石室を基地にして白雲岳にも、旭岳にも、安足間岳にも登れる。朝早く起きたら、凌雲岳や桂月岳から日の出を拝める。とにかく、いいところですよ。石室のまわりは高山植物が豊富だしね。
ところで、富士山の山小屋ではカミソリを忘れて行っても買うことができるんだね。またあるとき、本州から来た観光客の話では「本州の山と同じつもりで石室に行ったら、食料が売ってない。そして、本州の山のようにすぐ越えられると思ったら、行けども行けども山道ばかり、途中で出会った人にやっと食料を分けてもらって助かった」と言っていましたよ。
速 水 むかし、現在の八合目あたりでアイスクリームを売っていたことがあるのですよ。
中 條 あれは、上川町の人でしたね。
速 水 黒岳に登って雪渓の雪を持ってきて、それで冷やしてシャーベットのようなようなものを売っていた。これが、おいしくてね。
―層雲峡の開設に大きな役割をはたし、山のガイドとしても著名な成田嘉助さんがいましたね。
速 水 成田嘉助さんの娘さんの嫁ぎ先が私の家の近所だったものですから、よく遊びに行ったことがあります。その時に、嘉助さんが昔話をするのを面白く聞いていましたが、大町桂月さんが1921年(大正10)に黒岳に登った時に沢登りをやったのです。昔のことなので、草鞋(わらじ)をたくさん用意して行ったのですが、全部擦り減ってしまったようです。みんなが困っている時に、桂月は「手ぬぐいのある者は出せ。風呂敷でもなんでもよい。それを割いて草軽を編め」と言った。さらに「それもない者は、このようにやれ」と言って、桂月みずからフンドシを外し、それを割いて草鞋の経(横糸)を作り、緯(縦糸)は細びきを使って作ってみせたというのです。そのなかには田所碧洋という画家ともう一人文筆家を連れていましたが、この二人がモゾモゾして脱ごうとしないので聞きただすと「わたしはフンドシをしていない」と言う。さらに、どうしてかと聞くと『猿メなるものを履きにけり。これでは緊褌(きんこん)一番役立たず』と、のちの文章にユーモラスに書いているのです。
ところで、案内人の嘉助さんのことについては、桂月自身のフンドシは新しくて白いのに『夜目にも黒く、塩ふきたる蝦夷昆布の如し』と書いています。そのことを嘉助さんに「ほんとうですか」と聞いたら、「違う。大町桂月という偉い人が来るので、おそらく山ではすぐのびてしまうだろうと思って、高い金を出して縮緬(チリメン)の兵児帯(へこおび)を買ってきたのだ。それで先生を背負って下山するつもりだった」と言っていました。
層雲峡ロープウエイ開業の時には、嘉助さんも招かれて出席していましたね。
―大雪山が国立公園に指定された時はどうなさっていましたか。
中 條 あのころ、私はまだ未成年でした。地元では指定促進運動が盛んだったようですね。
速 水 あのころは、大雪山が急速に発展している時期でもあったのです。たしか1940年、日本は皇紀2600年といい、その記念に永山岳の斜面を主会場に冬季オリンピックを開こうとしていたのです。そのため、施設の充実をはかる気構えでした。愛山渓まで鉄道を通そうとして用地を確保するところまでいったはずですよ。
中 條 そのために、紅葉橋まで道がつきましたね。私は、そこを通ったことがあります。
―大雪山の保全活動をどのようにすすめたらよいとお考えですか。
中 條 レンジャーは充実しましたね。かつては一人でしたが、いまは上川、東川、上士幌の3管理事務所に6人いるのかな。
私は大雪山が国立公園になってから50年はかかわってきましたが、ふり返ってみると、それほど山は荒れていない。これは不思議なくらいです。ただ、黒岳から御鉢平に行く途中に、ひところコマクサの群落がありましたが、それが失われた。しばらくして復活したと思っていたら、またなくなっています。長く観察していると、これは人為的な原因が半分、自然消滅も半分の原因があると思います。ただ、植物の場合は動物のように危険が迫っても逃げることができない。人為的に絶滅させようと思えば、簡単に失われてしまいます。
工 藤 最近、高齢者や初心者で縦走しようという人が多くなっています。こういう人たちの事故防止には、じゅうぶんに注意しなければならないんです。天候のこと、山のことを無料でアドバイスしてあげるから知らせてくれと各ホテルなどに言っているのですが、あまり積極的ではない。受け入れ体制を良くしなければならないと思いますがね。
速 水 われわれの目には、地元の対応が充分とは思えませんね。
山岳会ではいろんな登山会を催していますが、これは山における教育の場と考えています。ただ山に登るのを楽しませるだけではなく、登山はこうあるべきだということ、あるいは植物の名前や遭難対策のことなどを教えています。やはり、自然保護のことが中心になりますね。
自然保護も、具体的にはマナーの問題になります。登山のマナーの第一は、他人に迷惑をかけないことです。だから、高山植物も自分だけが楽しめばいいというものではない。ゴミひとつ落としても、あとから来た人に不愉快な思いをさせる。とくに遭難は、もっとも多くの人に迷惑をかける。山に入ると、すべての行動がマナーの問題になるのだ、と強調しているのです。
工 藤 山のゴミはかなり少なくなったが、まだまだ不心得者がいる。地元の高齢者や少年愛護会の子どもたちが、おとなの散らかしていったゴミを一生懸命拾い集めているんですよ。
速 水 よく、高校生などを対象に講演を頼まれることがありますが、そんな時に、ゴミを捨てるのは自分のためにならないと話して聞かせます。たとえば、山に行って弁当を食べたあとの薄皮や空き箱をすぐ捨てないで持っていると、最悪のとき、残っていたご飯粒、梅干しのタネをしゃぶっていても、ひと晩過ごすことができるのですよ。弁当を包んでいた新聞紙や折り箱で、焚き火をすることができる。ジュースの空き缶は沢の水を汲んで飲むことができるし、それを容器にしてお湯を沸かすこともできる。そう考えると、山で捨てるものは何ひとつないはずだというと、「なるほど」という顔をし、納得できるようです。
―最後に、大雪山のどんな点を愛していらっしゃるかをお聞かせください。
速 水 大雪山を見て育ったものですから、私にとって大雪山は心のふるさとになっています。いろいろな山に行きましたが、この山にかなう山はありません。
たとえば、本州のどんな高い山に行っても、見下ろせば必ず人家が見えますし、登山シーズンに行けば大勢の人と行き交う。頂上に登るには、順番待ちしなければならないという状態です。しかし、大雪山から人家が見えるということはない。縦走などをしたら、半日以上、人に会わないということがよくあります。ほんとうに、山に入ったなという感じです。また、四国の山などは宗教的なにおいがあって、山に登ったという感じがしませんが、大雪山は大自然そのものという感じですね。
インド・ヒマラヤにトレッキングをしたことがありますが、ただ巨石をうず高く積み上げた“死の山”という感じで、温かみがまったくありません。アラスカのマッキンリーなどもそうですね。生物がまったくいないのではないかと思われるほどです。一方、ヨーロッパ・アルプスなどへ行くと、たしかに峨々(がが=険しくそびえ立つさま)とした山はありますが、その山の裾は緑したたる牧草地で、岩場を離れたらヤギやヒツジが草を食(は)んでいる。いわば、生活の場という感じですね。ロッククライミングをする人は、あれがほんとうの山だと思うかもしれませんが、大雪山で育った私たちには、あれがほんとうの山という感じはしません。このように比べてみると、この心のふるさと大雪山は一番の山だと思います。
中 條 あちこち回ってみますと、やはり大雪山は温かみを感じます。この山には自分に返ることができるものがある。どこの山へ登っていても、いつも心の中にある山で、その良さを確認させられます。
速 水 大雪山の貴重さを言えば、単純な話ですが、北海道の中央部にこの山がなくて平野だったら、どんなに便利だろうと考える人がいますね。そのかわり、これほど多くの人が住むだけの水は、絶対に確保できないでしょう。稲作をするための気象条件も変わってしまうと思いますよ。
そんなことを考えると、やはりこの山はなくてはならない。この山塊を挟んで上川と十勝の方では、北西の風が吹くとフェーン現象によって一方が寒くても、もう一方は暖かい。オホーツク海から北東の風が吹き込んでも、山を越えて上川の方に吹き込む時は、やはりフェーン現象で暖かくなっています。だから、上川地方や十勝地方は全国有数の穀倉地帯であるわけです。私たちは、つねに大雪山の恩恵に心しなければなりません。
―貴重なお話をありがとうございました。今後も、さらに大雪山を愛する人たちへのご指導を期待しております。
4000万年前 北海道に中央高地、日高山脈などの基盤が形成される。
90万年前 大雪山火山活動はじまる。最初に忠別火山を形成。
3万年前 2000m級の中央火山爆発、現御鉢平できる。大函は溶岩流の巨大堰止め湖に。柱状節理できる。山岳形成は、中央火山・永山火山・小泉火山→トムラウシ火山→旭岳の順に。
約1万年前 黒岳、凌雲岳、北鎮岳、白雲岳、トムラウシ山などの大雪山群が現在の形に。人間とのかかわりがはじまり、のちに石器類を発見。
250年前 旭岳最後の噴火。
安政年間 十勝岳噴火。
1857年 石狩在勤の足軽が踏破第1号。層雲峡温泉を発見。松浦武四郎が十勝岳、旭岳登頂。
1872年 開拓使役人が層雲峡の渓谷景観を世に紹介。
1898年 現天人峡温泉を発見。
1899年 松原岩五郎著『日本名勝地誌』で「大雪山」と初めて呼称。
1903年 上川文武館生徒21人がオプタテシケ(楓岳)へ団体登山第1号。
1911年 太田龍太郎(愛別村長)国立公園運動をすすめる。
1914年 勇駒別に温泉発見。
1921年 大町桂月が黒岳から旭岳へ登山。大雪山の主・成田嘉助が案内。「層雲峡」を命名。
1923年 旭平、雲ノ平に石室/層雲峡、忠別に駅逓所開設/層雲峡―天人峡間に縦断登山道開く。
1924年 黒岳と旭岳に石室完成。層雲峡案内組合発足。
1924年 犬飼哲夫教授がナキウサギ確認。
1926年 十勝岳大爆発、泥流で大惨事。
1934年 国立公園に指定される。
1953年 国立公園レンジャー制度発足。
1954年 国体山岳競技大会を開催。15号台風(洞爺丸台風)で未曾有の大被害。
1960年 裏大雪の俗称改め「東大雪」に。層雲峡博物館オープン。
1961年 東京都立大生が有毒温泉で死亡。
1962年 十勝岳大爆発。道学芸大函館分校山岳部員が旭岳で遭難、1O人が死亡。
1967年 層雲峡口ープウェイ開業/姿見の池~黒岳に登山歩道を整備。
1970年 糠平温泉に「ひがし大雪博物館」黒岳スキーリフト運転開始。
1971年 特別保護地区、天然保護区域に。
1973年 大雪産業開発道路計画取り下げ。
1974年 大雪ダム完成。
1975年 層雲峡で台風6号により6人が死亡。
1977年 大函遺跡から石器発見。
1978年 北鎮岳の白鳥雪渓消える。過去40数年来の初現象。
1984年 黒岳標高年。黒岳登山者5万4千人。
1994年国立公園指定60周年各種事業。
参考資料:「中央高地登山詳述年表稿」「北海道大雪山」