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1995年07月号/第69号  [ずいそう]    

〈喧噪〉のもたらしたもの
深澤 光有 (ふかざわ こうゆう ・ 浄土真宗佛光寺派北海道組長(そちょう))

オウム、オウムで日も夜も明けて、70日。いかなることになるのやら、この国は?というほどに喧喋(けんそう)を極めて、遂に〈教団の犯罪〉が明らかになった。その異様性、反社会性は、いかに世紀末とはいえ、前代未聞といえよう。

多くの問題が未だ残る。代表者や幹部の逮捕では済まないほどに。サリンをはじめとする毒物、銃兵器はもうないのか。拉致(らち)された人びとの行方は。信者や地下鉄の被害者の真の救済と解決等。

痛ましく、また、なんともやり切れなくおぞましい〈事件〉であり〈罪悪〉である。

だが、多くの問題は、つきつめれば多分ふたつに絞られるかもしれない。文化文明の爛熟と信心の未成熟である。前者は肥大化し高度に専門化したこの社会に、個人として全面的なアクセスがもはや不能という不安と絶望を植えつけ、短絡的な力量発揮を欲してオウムに走ったエリートを生んだ。被害者の方々は、〈ある日突然に〉災いを被ったのである。ここには高度に肥大化したゆえに(いうまでもなく肥大化に力点がおかれる)逆に社会性を見失い、無視する、せざるをえないという犯人像が対置される。

後者は、むろん個としての人間一人ひとりの内面の見えざる深み、谷間にかかわる。本来信心(一般的に信仰)は、その得たはずのものを問い続け、たしかめつづけるもので、得たからといってすぐさま短絡的に行動に表すべきものではない。むろん遂には行動(利他行)に結びつかねば本物ではないが。

少しばかり空中に浮いたからといって、さとりや自他の救済のための何になるのか。薬物を用いなければ得られない信心とは何なのか。こけおどしや、暴力団の介入や、あやまった階級制度の涯(はて)に身の程知らずな〈制覇〉の古くさい図式を暴露したとき、オウムの野望はついえ、ついでに私も含めた日本国民は、〈あなたの信心は?〉を問われ始めた。

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