北海道生まれの私の生まれた町には銅山があった。「金山(かなやま)」という地名のように、山の斜面は赤褐色に焼け、幼い子どもには近づきがたい雰囲気が漂っていた。とは言っても、学校には銅山で働く人たちの子がたくさん通っており、彼ら彼女らはごく普通の同級生だった。ところがある年、銅山が閉山となった。
それが町にどんな大きな影響を与えるか、もちろん知る由もなく、私にとってそれは、毎日毎日、同級生が次々に転校していくことだった。櫛の歯が欠けるように机が空いていく教室。潮が引いた砂浜にポツンと取り残された小石のように、自分たちだけが置き去りにされる淋しさ……。
この閉山の前後には東海道新幹線開通や東京オリンピックがあり、時代は高度経済成長の道をひた走っていた。一方、町の人口は激減し、策を求めて、行政は今で言う「町おこし」のアイデアを町民から募集した。中学生だった私も必死になって考えた覚えがある。それは、町職員として働く父の姿を見ていたからかもしれない。
過疎に歯止めをかけるどころか、私は親の大反対を押し切って「わらび座」に入ってしまったが、5年ほど前の秋、私の町で「わらび座公演」が催された。中心になって取り組んでくれたのは幼なじみ。「あいつのために、あいつの父さんや母さん、この町の人たちにわらび座を見せたい」。彼がそう言ったと担当の座員が伝えてくれた。
あの町に残り、生きて働き、町のことや、一緒に育った人間たちの現在(いま)にまで思いをはせるあたたかさ、強さ。なんてすごい人間になったのだろう。伝言を聞きながら、私はしばらく圧倒されて言葉がなかった。後日、公演の大成功を知らせる母の電話は弾んでいた。
町をぐるりと囲む山々が真っ赤に燃える、一年で一番美しい季節がまた来る。彼らに。そして私にも。