落語に「花見酒」というのがあって、八公と熊が代わる代わる売り手と買い手になり、1文しかない銭を相手に渡して二人で担いでいる樽の酒を飲み、樽の酒全部を飲んでしまう話である。
1文の銭は銀行が発行する貨幣の総量で、八公、熊公は庶民全体を代表する生活者、商人と消費者。樽一杯の酒は社会が生産した物資の総量である。金は天下の廻り物、右や左へ行って互いに儲かったと言い、物資が流通して皆の胃袋に収まる訳だ。
八さん、熊さんの場合も樽の中へ新しい酒を2人で汲んで来れば良い訳で、それが生産の意味らしい。杯が1個で1文銭は1ヶしか無いのだから、素直であれば値が上がる訳はない。人間は妙な者で、“1文では半杯しか売れない”、いや“2杯くれ”などと言うから複雑なことになる。
一文しかない金でどうやって酒を造るのだろうか。大工職人には無理かもしれないが、材料を集めて仕込めば酒になる。大工仕事をすれば相応の儲けがあり、それが材料の米と麹、そして酒に変わる。この儲けは貨幣の尺度で計られるが、酒の価値を生み出した“もの”は“働き”であって“物”ではない。
その昔、交換経済の時代があった。酒一杯が貝殻10ヶであったりした。貨幣経済が導入されたのは“中世”であるが、依然貨幣が猛威を振るっている今日も中世ではなかろうか。20世紀も卒業の時期にきて世界が狭くなりつつある現在、世界共通の価値を表現する“働き”の尺度を“働き”そのもので表現できないだろうか? 貨幣でなくとも交換経済は成立する。ご存じカードマネーである。
決済の尺度には円やドルが使われているが、そこでの円やドルは金貨の量ではなく、商品に付随する人間の活動量“働き”の代価が表現されると考え得る。人間が日々生み出す活動量、業績ないし信用度が個人のデータとして公的に評価、累積登録されれば、貨幣のない世界も夢でなく間近に迫っている。