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1996年01月号/第72号  [特集]    札幌市

すばらしい演奏を陰で支え音楽文化の発展のため調律技術の成果を表舞台で発揮する仲間たち
調律師「若い芽の会」 札幌市

  
 現在、日本は世界一のピアノ生産国であり、家庭には4軒に1台の比率でピアノが普及しているといわれ、西洋楽器のなかではもっとも親しみ深い楽器のひとつです。バッハやモーツァルトをはじめとした名作曲家のほとんどは、クラヴィコードやハープシコード、ピアノなどの鍵盤楽器で名曲を書き、今日、その多<を人類遺産として残しています。また、子どもたちの情操教育にもピアノは大きく貢献しています。こうした“ピアノ文化”の普及を陰から支えている職能に、調律師の存在があります。7年前、札幌市内で発足した『若い芽の会』(井筒和幸代表 電話011-882-4437)は、調律師の技能を生かして地域社会の音楽文化発展のためにユニークな活動をつづけています。

世界的にも高いレベルの“ピアノ・ドクター”

イメージ(鍛えた音感で注意深く音律を整えていく)
鍛えた音感で注意深く音律を整えていく

日本にピアノが伝わったのは、1823年にドイツ人医師シーボルトが持参したのが最初。ちょうどショパンが演奏活動を始めたころでした。そして1887年(明治20)、西川虎吉によって国産第1号が作製されました。いらい、日本でもピアノ文化はめきめき発展をつづけていますが、その要因はコントラファゴットからピッコロの極限以上におよぶ7オクターヴ+(プラス)3度という音域の広さと、ダイナミックな音量を発揮するこの楽器の魅力、そして、ピアノのために書かれた名曲の数々と名演奏家たちの活躍によるものです。

しかし、そこに見過ごしてはならないのが調律師の存在です。札幌市内で調律所・工房(豊平区北野2条1丁目)をひらき、25年のキャリアをもつ日本ピアノ調律師協会会員の井筒和幸さん(48)は、調律師の役割について次のように語ります。

「どんなに素晴らしいテクニックを持つ優れた演奏者でも、ピアノの状態が悪ければ、よい演奏はできません。そのピアノの状態を最良にしておくのが調律師の役割です。その意味では、私たちはピアノ演奏会の陰のコンダクターのようなものであり、ピアノの健康と使用者の正しい音感を育てるドクターでもあるという自覚を、ほとんどの調律師は持っていると思います」。

現在、北海道には約170人の調律師がいます。そのうちの約70人が札幌。独立自営の調律師は道内で約40人、あとはヤマハやカワイなどのピアノメーカーと専属契約をしている人、メーカー社員、楽器店などに勤めながら販売、調律の業務に携わっている人たちです。

調律師の資格取得には、社団法人・日本ピアノ調律師協会(東京)の認定試験に合格することが必要です。受験資格は、専門学校やピアノメーカーなどが主宰する養成所や個人の工房などで1~2年間勉強し、さらに3~4年のインターン期間を経るなどして5年間の実務経験を積んだうえ、調律師の指導者、先輩の推薦状を得る必要があります。

「現在の調律師協会の認定試験は、レベルがひじょうに高いのです。いちじ、国家試験に移行しようかという動きはありましたが、国家試験に移行した場合は低い等級から設定しなければなりません。すると、技術の未熟な調律師を相当数つくらざるを得ないだろう。それでは困るということで、国家試験への移行は見送られたのです」と、井筒さんは言います。近年、調律師を志望する人は増え、札幌にも調律科を設けた専門学校も生まれ、講師のスタッフに『若い芽の会』会員の能代秀生さん、大井淳司さんも参加しています。

では、どんな動機からピアノ調律師を志すのでしょうか。

イメージ(「若い芽の会」発足の契機となった1962年ドイツ・スタンウェイ社製のグランドピアノ(函館市・ユニオンスクエア明治館所蔵))
「若い芽の会」発足の契機となった1962年ドイツ・スタンウェイ社製のグランドピアノ(函館市・ユニオンスクエア明治館所蔵)

「私は音楽が好きで、高校生までずっと器楽クラブで活動していました。楽器はおもにフルートでしたが、私の高校にはマンドリンクラブがあったので、マンドリンも弾いていました。高校3年生になっても器楽クラブに入り浸りなものですから、顧問の先生が大学受験はどうするのかと心配してくれました。私は大学を受験する気はなく、音楽関連の道に進みたいと話すと、それならと調律師の勉強をするようにすすめてくれたのです。私の師匠は、東京在住の斎藤義孝さん。この人は北海道出身で、NHK交響楽団や音楽の殿堂である東京文化会館の専属を務めた、優れた調律師です。そこで5年間修業し、当時、最年少で調律師の認定試験に合格したあと、1年間のお礼奉公をして札幌に帰ってきました」。

5年間の修業で鍛えた耳で230本の弦を丹念に調律

修業時代のはじめは、修理工場でピアノの解体と掃除。あるいは、部品などを接着するニカワの煮方などを教えられます。そんな下働きに慣れてくると、弦を張らせてくれたり、アクションのハンマーや消耗部品の取り替えをさせてくれるようになります。そして2年ほど経験を踏むと、修理の仕事が終わったあとに先輩に教えてもらいながら調律の訓練をしてみることができるようになります。

まず、音の響きを聞き分ける耳を鍛えなければなりません。「最初は、4度の“うなり”の違いを聞き分けます。先輩がラとレのキーをポンと叩いて、ほら、これだけの“うなり”があるだろう。この“うなり”を作ってみなさいと言います。しかし、うなっていることさえわからない。何度も繰り返し試しているうちに、ああ、これかとわかってくるようになります」とのこと。

ピアノにはグランド(平型)とアップライト(竪型(たてがた))があり、通常、いずれも88個の鍵盤(7オクターヴと4分の1)を持っています。そして、1音に中音・高音部は3本、低音部は2本、最低音部は1本、合わせて約230本の弦が、1本平均90キログラムの張力で張ってあります。「その一音一音を聞き分けられるまでには、1年くらいかかるでしょうね。確信が持てるまでになるには、さらに長い期間が必要です。とにかく、数多く聞き慣れるしか耳を鍛える方法はないでしょうね」と井筒さんは言います。

調律は、まず鍵盤中央の「ラ(A)」の音を、むかしは音叉(おんさ)発振器で、現在は水晶発振のチューニングメーターで計測することが多いのです。

通常、家庭用のピアノの場合は440ヘルツに、札幌交響楽団の場合はオーケストラ・ピッチで442ヘルツにしているとのこと。

基音が決まると、それを基準に1オクターヴ12音に「割り振り」していきます。音色によって高く感じたり低く感じたりするので、音の最初の振動で聞き分けるのがコツ。中音から高音には、一つの鍵盤に3本の弦が張ってあるので、まずそのうちの1本を正しく調律し、残りの弦も1本ずつ合わせていくのです。

グランドピアノの場合、3本の弦は水平に張ってありますが、1本ごとの弦の高さが微妙に違っている場合があります。すると同じ音は出ないので、それも丹念に調整していきます。1本を締め過ぎると、せっかく調整を終えた弦に緩みが出て、また調整しなおさなければならないこともあります。いちど全オクターヴの調律が終わっても、さらに修正しなければ完全に調律できた状態にならない場合が多いようです。もちろん、ぜんぶの音を聞き分けるのは、耳だけが頼りです。音を決定するのは弦だけではありません。鍵盤、ハンマー・アクション、エスケープメント(離脱装置)、ダンバー(消音装置)など、打弦機構の取り付けネジがよく締まっていないとじゅうぶんに作動しません。とくにフェルトを巻き付けたハンマーはすべての堅さ、柔らかさが同じ状態であるようにと、一つひとつを調整していきます。

現代の調律法は平均律の調律で、白鍵だけで弾くハ長調の音階も、そこから半音上げたド(C)のシャープ(黒鍵)から弾きはじめた音階(嬰ハ調)も同じくハーモニーしなくてはなりません。

イメージ(フォルテ・ピアノと呼ばれた初期のピアノ)
フォルテ・ピアノと呼ばれた初期のピアノ

「この平均律が実用化されるようなったのは比較的新しく、ピアノが一般家庭にまで普及するようになった100年前ごろからです。有名なバッハの平均律のピアノ曲集は、じつは平均律でないということがわかりました。バッハの時代には、まだ平均律はつくれなかった。ですから、1台のチェンバロ(ハープシコード)で24の調のすべてを弾くことはできない。この曲の原題は『Das Wohltemperierte Klavier』であり、Wohltemperierteは『よく調律された』という意味。それをヨーロッパの著名な音楽学者が、ぜんぶの音階がよく調律された調律は平均律しかないだろうということで『平均律クラヴィーア曲集』と訳してしまったのです。日本は誤ったまま輸入してしまったので、平均律はバッハの発明のように思っていますが、それは間違いなのです。私たちが実際に検証してみましたら、平均律でなくてもあの曲集のすべてを弾ける調律がありました。それは、おそらくベルグマイスター第3番という古典調律法で調律したものと思われます」と井筒さん。

コンサートで最高の芸術表現ができる支えに

イメージ(堀栄蔵製作のフレンチ・ハープシコード)
堀栄蔵製作のフレンチ・ハープシコード

調律師の重要な業務のなかに、コンサートでの調律があります。コンサートに使うピアノには、ホールの温度変化に影響されるという問題があります。つまり、ホール内の温度が高くなると、ピッチが下がっていく傾向があるのです。

本来は、朝のうちからピアノをステージに上げ、本番と同じ照明と冷暖房を入れてピアノをその状態に馴れさせます。そして、ピアノがその環境に馴染んでから調律すると、途中から狂っていくのを防げます。ただ、夜の演奏会ぎりぎりまで別の団体が会場を使っていて、それまでピアノは倉庫に入っていたりすることがあります。そんな場合、午後5時過ぎになってピアノをステージに運び上げ、午後6時半に開演するといった状態で調律をすると、温度変化が急激ですから演奏中に音が狂いださないとも限りません。

ピアノは一台一台に長所も短所もあって、それぞれに違いがあります。鍵盤は、同じ強さで弾いたら同じ強さの音量が出なければなりません。どのキーの音色も一律にし、ピアニストの指づかい、芸術表現が正確に反映される状態に保たれていなければならないのです。そのピアノの短所を短所と気づかせないように調整をします。ピアニストが快く苑tできるようにするのは、調律師の技量の見せどころです。

「基本的には、リハーサルの前に調律をするのです。そして、お客さんが入場する前に、もういちど確認をします。演奏が始まると調律師の仕事は終わっているのですが、私はいつも終演まで待機しています。それが演奏者に対する誠意だと思っています。演奏者は半年も1年も前からその日のためにテンションをあげ、集中して、最良の音楽を聴かせようとしているのですから、それを支えるつもりで演奏者と向かいあっていよう、どの調律師もそんな思いを持っていると思います」。

『若い芽の会』発足の契機は60年前の名器スタンウェイ

もうひとつ、井筒さんは調律師の社会的役割を考えています。

「私たち独立自営の調律師は、地域社会から仕事を受けて生きています。すると、その地域社会の音楽活動がますます活発になり、みなさんに音楽を楽しんでもらう仲立をするのも調律師の役目ではないかと思うのです。私たちは、ピアノとその演奏者双方のよき理解者であり、適切なアドバイスができる立場にあります。単に音合わせをしているだけでなく、地域社会の音楽文化がもっと盛りあがるように、たとえばファミリーコンサートをする、町内で子どもたちの音楽発表会をするなど、地域全体で音楽を楽しむ環境づくりの手助けをしたいと、よく同業者仲間で話し合っていたのです」。

『若い芽の会』は、そんな趣旨に賛同した調律師が集まって発足しました。直接の契機になったのは、1988年(昭和63)に函館市内で、1926年(大正15)にドイツ・ハンブルクで製作されたスタンウェイ社のピアノが見つかり、村岡武司さんら明治館ユニオンクラブの人たちから、井筒さんがその修復を依頼された時です。

スタンウェイ社はハンブルクとニューヨークに本社を持つ世界最高級のピアノメーカーで、創業は1820年。これはやや小型の家庭用グランドピアノで、最初の持ち主は確認されていませんが、日本の洋楽黎明期に購入し、放送局や個人、企業などの経路をたどり、函館市内の企業の倉庫に眠っていたのです。

井筒さんはこのピアノを札幌の工房に運び、その復元に着手する前、「せっかく古い名器が来たので、みんなで勉強してみようよ」と若手調律師に呼びかけ、部品の修理から塗装、調律まで2ヵ月がかりで調整し、見事、名器を60余年の眠りから蘇らせたのです。

「ユニオンクラブでは、さっそく函館・ユニオンスクエア明治館で修復記念コンサートを開いてくれ、私たち調律師の修理技術の成果を、表舞台で多くの人に知ってもらう機会になりました」と井筒さん。そして「同じ仕事をしている者同士、会えば気軽にあいさつしあえる間柄でありたいし、たまには親睦会もひらいて酒でも飲み合おうよ」。その呼びかけに意気投合した調律師が『若い芽の会』を誕生させたのです。

調律師だから開催できる「エレガント・コンサート」

その年の12月、こんどは「面白いピアノがある。井筒さんなら喜ぶのでは」とお客さんが知らせてきました。雪の降る札幌市内の古物商の店先に、古いアップライトのピアノがビニールシートをかけて放置してありました。早速譲り受けて、工房に運びました。見ると、1920年(大正9)にニューヨークのミルトン社で製造されたものでした。このころ、アメリカは技術革新に成功して廉価でつくるようになり、職人芸が主体のヨーロッパに代わって、ピアノ生産の全盛期を迎えた時代でした。普及クラスですが、歴史的にも貴重なピアノです。譜面台両側に燭台が取り付けられている古風なスタイル。板部は割れていたり音の出ないキーもある、おんぼろピアノでした。

井筒さんは、再び『若い芽の会』の仲間に呼びかけて修復に取り組みました。響板の割れを補修し、弦はすべてを張り替え、消耗品も取り替えて、ほぼ7ヵ月の作業で製造当時のままに蘇らせたのです。

修復が終わって音色を確かめたとき、井筒さんは「なんて愛らしい、エレガントな音色だろう」と感嘆しました。そして「70年前、アメリカでよく演奏されていた音楽をこのピアノで聴いてみよう」と仲間と相談。日本ピアノ調律師協会北海道支部や市内の楽器店などの協力を得て、1988年(平成元)8月、2日間にわたって演奏会を開催しました。その名も『第1回エレガント・コンサート』。会場は19世紀後半のアメリカ様式で建築された『豊平館』。サンサーンスやサティなど、当時の欧米作曲家の作品が演奏され、大好評でした。

『エレガント・コンサート』の第2回は古典調律をした4台のチェンバロ演奏。1つの鍵盤から1つの音しかでないものから、3つの音が出るものまでをそれぞれに鑑賞したほか、話題を呼んだのは「バッハの平均律曲集は、平均律ではなかった」というミステリーでした。「では、どんな調律だったか」と、文献を調べて確認された古典調律を披露して、聴衆を驚かせました。

第3回『エレガント・コンサート』は、古楽器の世界的製作者である堀栄蔵さんを東京から招き、同氏が製作したNラヴィコードやハープシコードなど音色も音量も違う5種類の古典鍵盤楽器をそろえ、バッハやモーツァルトの時代にはどれほど繊細な音楽を楽しんでいたかを体験しました。

第4回『エレガント・コンサート』は、北海道教育大学の沼田元一名誉教授の研究論文に基づいて、井筒さんが考案した「札幌ソステヌートペダル」のデモンストレーション・コンサート。ソステヌートペダルは、グランドピアノの3本のペダルの中央にあり、そのとき鳴っていた弦の音だけを保持して響かせるものです。ところが、左右のペダルに足が取られて踏みにくく、プロの演奏家でも使うのがむずかしい。そこで井筒さんは、左のソフトペダルわきまで延長する補助ペダルを付け、使いやすくしたのです。コンサートでは、実際にソステヌートペダルを使って演奏した場合の音の違いを鑑賞するものでした。

そして、第5回は昨年8月22日に開催した『戦後50年コンサート』。サブタイトルには“戦争時代を生きた作曲家とその作品”とありました。井筒さんは、昨年、古書店で戦前・戦中の音楽雑誌、約130冊を入手しました。その中には、当時、第一線級の音楽家が日本にいるユダヤ人音楽家の排斥を叫び、「戦争に役立たない音楽は、いまは不要」とまで主張して、国民の戦意高揚に協力している論評が次々と掲載されていたのです。

「戦時中の音楽雑誌は、ほとんど意図的に焼き捨てられて入手困難です。折しも戦後50年を前にして、偶然にも私の手に入ったのです。私は、日本近代音楽史の隠された部分を、少しでも多くの人に知ってほしいと思いました」

それが、このコンサートのねらいでした。しかし、戦争に協力した音楽家を糾弾するのが目的ではありません。軍歌が主流を占めるなかで、時流とは一定の距離をおいたり、批判的な思いをしのばせた芸術歌曲も雑誌の中に掲載されており、それらを対比しながら当時の音楽状況を振り返り、時代と音楽について考えてもらうものでした。札幌大谷短期大学の木村雅信教授の講演をはさんで、在札の声楽家、合唱団による軍歌・国民合唱と芸術歌曲の演奏は、多くの反響を呼びました。

「軍歌『海ゆかば』が演奏されたときは直立不動で聴かなければ、という気持ちを抑えるのに必死だった、軍歌が主流を占めていたあの時代にも芸術歌曲があったのを知ったことがせめてもの救いだった、という戦中派の人。冷静な気持ちで聴き、第一級の作曲家の軍歌には力があった。しかし、戦争に批判的な作曲家の芸術歌曲は洗練されてはいるが、ダイナミックさ、力強さに欠けていた、といった感想などさまざまでした。たしかに、名曲を書く力量のある人は素材の如何によらず名曲を書くのです。政治的意図を持った曲の影響力の怖さを感じさせられる、きびしいコンサートでした」とふり返ります。

ピアノ文化の発展のため情熱を持って気軽に集う

『若い芽の会』はこのほか、使われなくなって寄贈された中古のピアノ3台を修理して、知的障害のある子を預かる福祉施設に贈ったこともあります。会員は、こんな活動をさらに伸ばしていきたいと考えており、家庭などで不要となったピアノの寄贈を呼びかけています。

「しかし、この会は常時集まって定期的な活動をしているわけではありません。調律師という職能を生かして、地域社会に音楽を広める機会があれば呼びかけ、その趣旨に賛同して集まった人が会員。そんな気楽なグループですが、20数人のメンバー全員は、音楽を通じて何か社会に役立つことをしようという情熱だけは持ち合っています」と、井筒さんは明るく語ります。

そんな井筒さんは先ごろ、札幌の古い映画館で無声活動写真時代に使用していた145年前のピアノを入手しました。1850年にドイツ・ドレスデンのローゼンクランツ社が製作したアップライトピアノです。修復に1年はかかりそうですが、『第6回エレガント・コンサート』は、このピアノの復活記念演奏会になりそうです。

音楽的高まりを共に感じあう存在

イメージ(東京芸術大学音楽部器楽科 助教授 ピアニスト 植田 克己さん)
東京芸術大学音楽部器楽科 助教授 ピアニスト 植田 克己さん

東京芸術大学音楽学部器楽科 助教授 ピアニスト 植田 克己さん

私たちピアニストにとって、調律師の方々は必要不可欠な、たいへん大切な役割を担ってくれています。

私たちピアニストは、ほとんどの場合その会場へ行って、会場に備え付けられているピアノを弾きます。ですから、そのピアノを調律師の方があらかじめ音の高さを合わせたり音の質を確かめたり、いろんなことを考えて調整してくださったところへ、私たちが行くわけです。そして、調律師の方々が用意してくださったピアノにまず触って、練習をし、いろいろな注文をお願いしたりします。ですから、調律師の方は単に楽器のことだけでなく、ホールの響きに熟知してくれています。たとえば、ピアノをどこに置いたらよく響くか。また、同じピアノを同じ位置においても演奏家によって響き方が違いますから、そんな微妙な違いも判断していただくことになります。私たち演奏家は、ひとえに調律師の方の技量、あるいは感性に大きな期待を寄せ、コンサートに寄せる音楽的な高まりを、演奏家といっしょに感じてくださることを求めています。

ピアノが家庭にも普及し、ピアノをお持ちのご家庭でも調律師の方によって、よく調整されたピアノの音を楽しんでいらっしゃることと思います。しかし、ピアノは88もの鍵盤があって、十指で処理するには数が多くてたいへんです。そのため、せっかく調律師の方によってよく調整されたピアノも、敬遠がちになっていないでしょうか。鍵盤の数は多いだけに、オーケストラのほとんどの楽器をカバーできるほど広い音域を持っているのがピアノの特色です。弾いていてもし間違っても、「ごめんなさい」とピアノにウィンクしてやり「自分はこんな音を出したかったのだ」と楽器に語りかけて弾き直すと、必ず楽器からも答えが返ってきます。ピアノを大きな家具だけにはせず、ぜひ、音を出すよろこび、鳴り響く音の美しさを楽しんでいただきたい。なによりも、折にふれて弾いて音を出してやることです。それが楽器にとっていちばんの潤滑油になります。どうぞ、いきいきしたピアノの音を楽しんでください。

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