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1996年05月号/第74号  [特集]    奥尻

きびしい風土に生きた島の人たちの強さと全国の善意のサポートが災害の島をよみがえらせた
奥尻の復興3年目のいま

  
 1993年(平成5)7月12日夜、突如として北海道日本海沿岸一帯を襲って死者・不明者230人、建物の全半壊など被害総額1323億円におよんだ北海道南西沖地震――。とくに地震、大津波、大火災によって壊滅的な被害をうけたのが奥尻島でした。悲嘆に打ちひしがれた島の人びとを救ったのは、全国から寄せられた大きく温かい支援の力でした。あの夜から、まもなく満3年。いま、奥尻の人びとはたくましく復興を遂げ、新たなまちづくりへと前進をつづけています。

神戸の被災地から、復興中の奥尻にやって来たお医者さん

1995年6月1日、奥尻町国保病院に新しい外科医長が赴任して来ました。阪神大震災のなかで救護医療に活躍していた、秀毛(しゅうけ)寛己さん(38)です。

「私は、ずっと大阪、神戸で仕事をしていましたが、北海道はいちど住んでみたい、一種のあこがれの地でした。震災が起きる前年の冬ごろから、来年こそ北海道に行こうという気持ちになって職場を探そうとしていたとき、あの阪神大震災に見舞われたのです。私は尼崎の病院に勤務していましたから、早速、運び込まれてくる患者の治療に追われる毎日でした。水が使えない、オペ室(手術室)がかなり損傷している、点滴器具や薬剤も割れていたが、清潔区域だけは使えたので緊急手術をする。当初は、ものを考えられる状況ではなく、ひたすら損壊のあと処理と患者の治療に追われ、野戦病院とはこのことかと思う毎日でした」。そんな秀毛さんは尼崎の病院や周囲の状況がだんだん落ち着いてきたころ、ふたたび北海道へ行こうという気持ちが高まっていました。そこへ紹介されたのが奥尻だったのです。

「奥尻島へ来る気になったのは、私が神戸市民だったからでしょうね。決意する前、神戸に残って頑張るか、神戸の復興を見届けたいという気持ちもありましたが、紹介されたのが同じ災害に遭ったところと聞いて、これを避けることは神戸市民のプライドが許さないと思いましたね」とのこと。秀毛さん一家が大都市から北の離島に転居して、まもなく1年になります。

「大都市の神戸でさえこんなに大変なのだから、物資もフェリーで運ばなければならないような不便な離島はもっと大変だろう。復旧も遅れているにちがいないと、同僚や友人たちは心配してくれました。しかし、初めてこの島にやって来たとき、どこか都市近郊で造成中のニュータウンにやって来たという印象で、震災の爪痕はあまり感じられませんでした。私は精神科の専門医ではないが、災害のあとのメンタル・ケアが気遣われます。しかし、この島の人たちはきびしい環境・風土のなかで生きているためか、意外にドライで、薄手なセンチメンタリズムは持っていないかもしれません」と秀毛さん。しかし、ここまでよみがえるためには、全国から寄せられた善意の支援と住民自身の努力があったのです。

マリンブルーが美しい“グルメの島”を襲った大災害

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イメージ(漁船も新しくなって漁港は賑わいを取り戻す)
漁船も新しくなって漁港は賑わいを取り戻す

奥尻島は、江差町から北西へ61キロメートル、大成町からは西へ28キロメートル離れた海上に浮かぶ島です。周囲84キロメートルと比較的大きな島で、マリンブルーの美しい対馬暖流の中に浮かぶため、四季を通じて気候は温暖。いつのころからか、観光客はこの島を“北の沖縄”と呼ぶようになりました。また、春の日本海マス、初夏からのヤリイカ、ウニ、アワビ、秋から冬へのマイカ、ホッケと魚介類が豊かなため、漁業を基幹産業に暮らす1,645世帯、4500人余の島の人たちは、みずから“グルメの島”と自信を持って呼んでいました。

そんなのどかな島を、一夜にして恐怖と悲嘆の淵に陥れたのが、あの北海道南西沖地震だったのです。

1993年(平成5)7月12日夜10時17分、北海道各地は激しい地震に襲われました。札幌管区気象台は、午後10時22分に北海道日本海沿岸に大津波警報を発表。NHK札幌放送局が「小樽、江差は震度5。倶知安、室蘭、苫小牧は震度4……。大津波警報発令」と報道しはじめたのは午後10時24分。同時刻に奥尻町役場内で必死に避難命令を呼びかけていたのは、奥尻町災害復興対策室調整課長の織戸清さん(当時は企画振興課防災担当)でした。

イメージ(島は住宅の建築ラッシュ)
島は住宅の建築ラッシュ

イメージ(炎につつまれた恐怖の夜)
炎につつまれた恐怖の夜

「自宅で、そろそろ寝ようかと思っていた時に、いきなりグラッとタテ揺れの衝撃を受けたのです。すぐに思い浮かんだのは、ちょうど10年前の日本海中部地震(マグニチュード7.7、最大震度5、津波による死者100人、奥尻でも2人死亡)の経験でした。これはデカイぞ! 家族には避難所へ行くように指示したあと、まだ大揺れのつづくなかをやっと役場の防災無線室にたどり着き、すでに駆けつけていた成田敏雄課長と協議のうえ、はたして通じるかどうかわからない防災無線マイクに向かって“津波発生の恐れあり、避難せよ。と、必死で呼びかけたのです。それが午後10時20分、地震発生から3分後でした。だが、この時、すでに育苗など南地区の一部は津波の第1波に襲われていたのです」。

この北海道南西沖地震は、奥尻島のほぼ真北60キロ程度の至近距離を震源地とし、マグニチュード7.8、震度6の烈震。その時点では死者の多さで、わが国3番目の大規模災害となったのです。

午後10時50分ごろ、第2波の津波が全島をなめ尽くす一方、育苗地区で火災が発生。大地震、大津波、大火災と三重の災害におののく長い長い一夜―。海に流された人びとの救助、遺体の収容が進むにつれて、被害の大きさに呆然とするばかりでした。

最終的な被害状況は、奥尻島民の死者172人(全道総数202人)行方不明者26人(同28人)重軽傷者143人(同323人)。住宅の全半壊1,410棟で1,714世帯、3,960人におよんだのです。

人的被害のほか、基幹産業である水産業は漁船や関連施設を含めて約69億円、農林業、商業、その他を含めた被害総額は664億円を超えたのです。これは同町の年間歳費38億円の17年分以上に相当する、膨大な被害額となったのです。

全国から寄せられた190億円の義援金が復興の原動力に

翌13日午前7時、気象庁は津波警報、注意報を解除しました。厚生省は奥尻町と対岸の大成町に「災害救助法」を適用。政府も「非常災害対策本部」を設置しました。

この間、島内では、警視庁、消防庁、海上保安庁に加えて、漁船が無事だった漁業者が生存者の捜索と救出、犠牲者の遺体収容作業に追われていました。陸上では、主婦らが余震のつづくなかで被災者への炊き出し、避難所生活の介助などに懸命でした。

「家族を亡くし、家や財産を失って呆然自失している島の人びとの惨状を目のあたりにして、“奥尻は、あの地震と大津波で壊滅した。再起は不可能だろう”という声も聞かれました。そんななかで、奥尻再生・復興への原動力になったのは、日赤奉仕団をはじめ全国から駆けつけたボランティアの人たちの活動と、続々寄せられる見舞金、義援金、そして救援物資の数々でした」と語る織戸課長の言葉は、島の人全員の思いでもあります。

その全国から寄せられた義援金とは、1995年(平成7)9月末現在、次のような金額に達しています。
 募集委員会(日赤)からの配分額 132億8400万円
 北海道庁に寄託された分からの配分 21億7800万円
 奥尻町の受付額 35億8500万円
 合計約190億4800万円

一方、全国の個人から送られた救援物資は、衣類、寝具、食料品、日用雑貨など段ボールに約30万個、企業や団体からの物資も約4000トンに達したといいます。

ちなみに、近年の災害支援のために寄せられた義援金をみると、雲仙・普賢岳大噴火に対しては約230億円(95年6月現在)、阪神・淡路大震災に対しては総額1710億4000千万円(96年1月現在)となっています。

イメージ((左)島の周囲の張り巡らされる防波堤)
(左)島の周囲の張り巡らされる防波堤

イメージ(全国から寄せられた救援物資の山)
全国から寄せられた救援物資の山

「災害発生から1時間半後の13日午前0時に災害救助法が適用されたので、いち早く応急仮設住宅の設置に取り組みました。5日後には青苗、稲穂など5地区で第1次分100戸の建設が始まり、2週間後には約300人が入居しました。最終的には9地区で320戸を設置し、ほぼ900人が応急の居住先に落ち着くことができました」と、織戸課長。崩壊家屋など瓦礫の整理も一段落した10月1日、奥尻町は「災害復興対策室」を新たに設置して、本格的に復興計画に乗り出したのでした。ここでは、島の人たちの「生活再建」と「防災まちづくり」、産業・経済を立て直す「地域振興」を3つの柱にして基本計画を立てたのです。

「災害前に504世帯が住んでいた青苗地区は、今回の地震、大津波、大火災によって住家の全半壊342戸という壊滅的な被害をうけました。この地区の海岸沿いは、10年前の日本海中部地震の際も津波に襲われて大きな被害を出しているため、もともと低い青苗岬周辺を災害危険区域に指定し、ふたたび人が住まないようにしました。そのため、全国で初めてのケースといわれていますが、水産庁の漁業集落環境整備事業、国土庁の労災集団移転促進事業を軸に一部を町の単独事業として、まちづくりをすすめることにしました。具体的には、地権者の住民から町が土地を買い上げ、造成した土地を同じ面積、同じ単価で分譲することで協力を求めたのです」。

ユニークなのは、この事業が土地区画整理法や都市計画法に基づく事業ではないため、道路の拡幅や公共施設用地の確保分に何割かを減歩されることがないことです。

「町の買い上げ価格も、坪あたり23000円。津波にえぐられ、荒れ果てて価値の低下した土地としては売り主にとってかなり有利な価格だったと思います。しかも、造成が終わったあと、まったくの同価格で分譲したのですから、住民もよく納得してくれました。なぜそんなことができたかといえば、水産庁など国からの2分の1補助と、残りを町の起債で負担することができたからですよ。しかし、奥尻町にそんな多額な資金はあるはずがない。義援金があって、はじめてできたことなのです」と織戸課長は語り、姉妹提携した淡路島北淡町(ほくだんちょう)の場合の復興のむずかしさを気づかいます。

イメージ(震災の翌日も燃えさかる青苗地区)
震災の翌日も燃えさかる青苗地区

イメージ(倒壊した青苗岬灯台)
倒壊した青苗岬灯台

「北淡町は土地区画整理法で復興計画をすすめるということですが、やはり土地収用の問題で、まだ手をつけられずにいるようです。北淡町の場合は、まるで虫食いのように古い住宅が潰れていったという被害状況ですから、土地の問題を解決するのは大変なのです。その点、奥尻はほとんど全島が壊滅的な被害をうけたので、地権者も二束三文の土地になってしまったのだから、町に売って整備してもらおう、という機運が一致していたので、話しやすかったですね」と織戸課長。むしろ、たいへんだったのは先祖代々島に住んでいて、土地を売り買いする財産としての認識が薄い人が多くて相続登記も行われておらず、江戸時代まで遡らなければならないものがあったり、借地にしたまま地権者の所在がわからなくなっている。なかには、家族全員が津波にやられて死亡していたという土地もありました。それらは裁判によって決着をつけていきますが、その作業には復興対策室の用地課に道職員が派遣され、スムーズな事務処理がすすめられたとのことです。

住民の声を反映させてかち得た住宅再建助成金

では、190億円余の災害義援金はどのように復興に生かされたでしょうか。

まず、被災者への見舞金として総額で約40億円を支出しています。その配分内訳は次のとおりです。

 死亡者・行方不明者へ見舞金 300万円
 重傷者 50~10万円
 住宅全壊(持家入居者) 400万円
 同(借家入居者) 200万円
 同(借家所有者) 200万円
 住宅半壊(持家入居者) 150万円
 同(借家入居者) 50万円
 同(借家所持者) 50万円
 床上浸水 50万円
 一部損壊 30万円
 店舗・工場の全壊(自己所有)300~100万円
 同(借用、貸与) 100万円
 住宅再建助成金 700万円
 家財道具購入助成金 150万円
 土地購入助成費 50%の上限 100万円
 中小企業再開費 40~70%の上限 4500万円

こうした配分を決めるにあたって、織戸課長ら災害復興対策室と住民側のパイプ役になったのが「青苗町内会のまちづくり事務局」でした。その事務局長が石油店を経営する明上(あけがみ)雅孝さん(46)です。

「私たちは、善意の義援金を公平に配分してほしいということで、住民の声の細かい部分まで役場に伝えていこうとしていたのです。まず、504世帯のうち342戸が全半壊するという被害をうけ、263世帯が仮設住宅暮らしをしていたのです。その人たちのためにも、できるだけ早く生活再建資金の配分してもらい、あわせてまちづくり計画をまとめ、前途への安心感がほしかったのです」。

イメージ(役場職員に住民の立場を説明する制野さん)
役場職員に住民の立場を説明する制野さん

イメージ(復興の様子を語る明上さん)
復興の様子を語る明上さん

明上さんらは、被災者がどこに住みたいと思っているかを調査しました。町役場は育苗の低地部は将来も宅地化せず、全面移転を考えていたようです。

しかし、住民の中には海が目の前にある元の土地に住みたいという人が多いことがわかり、住民の希望がとり入れられ、いったんは町が買い上げて、70坪を一区画として分譲するという案に不満はなかったといいます。しかし、町役場の義援金の配分計画が明らかになるにつれて、住民の中に異議をもらす声が出てきたのです。その声を持って明上さんを訪れたのは、現在の「奥尻の復興を考える会」会長を務める制野征男(せいのゆくお)さんでした。制野さんは「町の義援金の支出計画に、本来は一般歳費ですすめるべき事業が組み込まれている。それに対して、町の案の住宅建設支援金と家財道具購入費の850万円では、借入金の負担が大きすぎるので、私たちは1200万円の住宅再建援助を要請したのです」

制野さんや明上さんらは、この時点で雲仙・普賢岳災害での義援金の使い方を調べ尽くしていたのです。ここでは、総額230億円を配分するにあたって、30項目におよぶ基準が決められ、長崎県と島原市などからそれぞれに見舞金が送られ、死亡者の場合はあわせて900万円の見舞金、避難世帯への見舞金、その他、児童生徒にいたるまで手厚い生活支援の配分がおこなわれています。

「私たち住民は雲仙・普賢岳並みの支援配分を参考に、住宅再建支援には1200万円を要求し、それを達成することができたのです」と制野さんは語ります。

奥尻から神戸、淡路島北淡町や雲仙・普賢岳などへ多くの人が視察に行っています。

イメージ((上)着々と復興が進む奥尻町青苗地区 (下)島の街づくりプランを語る織戸課長)
(上)着々と復興が進む奥尻町青苗地区 (下)島の街づくりプランを語る織戸課長

イメージ(大津波に押し流された寺院の大屋根)
大津波に押し流された寺院の大屋根

「そこで感じるのは、奥尻は恵まれているな、ということです。たしかに、雲仙・普賢岳の場合は550万円、奥尻は見舞金、住宅支援分など合わせると1人1250万円になっています。しかし、これは奥尻が特別に恵まれているのではなく、見舞金が30万円、住宅助成に20万円か25万円しか配分されないという阪神大震災の支援体制がひどすぎるのです。だから、阪神の被災者がせめて奥尻並みの支援を国に要求しているのは当然のことなのです。私たちも、阪神の被災者のために、住宅修理資金の供与、生業資金の供与をうたった災害救助法の適用を要求する支援をしていかなければなりません」と制野さんはいいます。

奥尻がここまでの復興を成し得たのは、島の人たちのたくましい努力と、全国から寄せられた潤沢な義援金があったからです。しかし、同じように苦難の道を歩んでいる阪神48万世帯の被災者には、わずか30万円の支援金しか配分されていないのです。

民間の義援金からの配分の範囲である阪神の被災者へのこの支援金額は、あまりにも少なすぎます。奥尻の10倍もの義援金が寄せられながら、被害者の数があまりにも多いため、このような結果なのです。こんな違いがあって、よいものなのでしょうか。

「雲仙、奥尻を上回るこれほど多くの民間の善意が結集されながら、なお目の前で苦しんでいる人を支援するのに足りないならば、国は国費をもって救済の手をさし延べるべきです。そのために血税を投入しても、ほとんどの国民に異存はないはずですよ」という声は数多く耳にしました。

災害特需はまもなく終わる ほんとうの復興はこれから

今年の3月末まで一種の“災害特需”がつづき、海の資源が荒らされて漁ができなくても、漁業者は土木現場で働くことができました。しかし、やがて特需は去っていきます。

「家は新築されて住む場所も落ち着いた、町のあちこちに公共施設は増えて便利になったと、いまは多くの人が喜んでいると思いますよ。しかし、膨張した家計を引き締めることができるだろうか。家を建てるのに住宅金融公庫の資金を使ったが、支払い不能に陥ることはないだろうか。固定資産税だって払えないという家が出ないだろうか。商工業などの経営だって不安はいっぱいですよ。函館資本の量販店が進出してきましたし、札幌資本のパチンコ店が、地元店の休業中に大盛況でした。地元の購買力は限られているのに、競争だけが激しくなっていく。設備投資をしているだけに将来への不安材料はたくさんあるのです。町長は住民の自助努力を期待しているようですが、行政と住民が手を取り合って“ほんとうの復興元年”はこれからがスタートだと思っています」と明上さんは気を引き締めています。

制野さんも「被災者の台所の生活が復興しなければ、ほんとうの復興とはいえない」と語ります。

イメージ(災害体験の将来に生かすという紀伊国君)
災害体験の将来に生かすという紀伊国君

イメージ(神戸から奥尻に移住して来た秀毛さん)
神戸から奥尻に移住して来た秀毛さん

この3年、奥尻の人びとは力強くよみがえっています。一時は、島は消滅するかとまで心配されたが、人口もさほど減らず、多くの人が島に残ったのです。震災の時に高校生だった人のなかには役場で住民の暮らしの支え役になっていたり、消防士となって防災の守り手になっている若者がいます。あのとき中学校の生徒会長として全校生徒の作文集を編集した紀伊国裕(きいくにゆたか)君は、被災地で人命を救うために活躍していた救命士の姿に尊さを感じ、自分も救命士になる決意で函館に出て、勉学に励みました。いま、高校の最終学年を迎えて、裕君の心に変化が見えています。地域のこと、国のこと、世界のことに大きく目を向ける子を育てる社会科の教師にもなりたいという新たな芽が生まれているといいます。いずれを選択するにせよ、裕君の心にはあの大災害の体験はしっかりと焼き付き、彼の進路決定のバックボーンになりつづけそうです。

奥尻島は、これからが魅力あふれる季節を迎えます。

「海がきれいで、真夏でも暑すぎることがない。去年からウニ漁が解禁されたし、今年はアワビも捕れそうだと言っています。それに、島の人たちの復興に対するたくましさを、阪神の被災者に見せてあげたい。神戸の人たちは、この島に来たら、きっと喜んでくれるにちがいないですよ」と、秀毛さんは夏の奥尻について、このように語っています。

淡路島北淡町と姉妹提携

イメージ(奥尻町長 越森 幸夫さん)
奥尻町長 越森 幸夫さん

奥尻町長 越森 幸夫さん

私どもは、1994年(平成6)を“復興元年”と位置づけ、いま、平成9年度(97年)を目標にした「災害復興計画」を順調にすすめているところです。とくに今年は満3周年という節目の年でもあるので、計画期間中最後の合同慰霊祭を7月12日に執りおこなう予定でおります。また、札幌交響楽団のコンサート、道立近代美術館の移動ギャラリーも来てくれるようになっています。

全国から見舞金、義援金をはじめ力強い支援を寄せてくださった人びとと、国や北海道などの力添えが原動力になって、住宅をはじめとした島民の生活基盤の再建ができつつありますし、防災施設などインフラの整備も予期以上に早く完備され、青苗地区に終末処理場が完成して島で初めての水洗化が実現します。

私たちは、先ごろ、淡路・北淡町と姉妹提携をしました。あの町も復興に向けてご苦労されていますので、私たちがこの3年間に得た防災と復興のノウハウをお伝えしながら、ともに安全で暮らしよいまちづくりに努力しようと誓いあったところです。

ほんとうの復興は、これからが大変ですが、島民の自助努力を発揮して“夢の島・奥尻”をよみがえらせたいと思っています。

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