わが国のビール生産は、1953年(昭和28)に施行された酒税法によって最低製造量が2000キロリットル以上と規制されていたため、大手ビール会社4社によって寡占化されていました。しかし、ドイツやイギリスなどを旅行して飲むビールは、ほとんどがマイクロブルワリー、ハウスビール、クラフトビールなどと呼ばれ、小規模な醸造所で生産される地域性と豊かな個性にあふれたビールです。
酒とは、本来、地域に根ざして製造されるものであり、1980年代後半から起こったまちおこしの一村一品運動などでも地場産物を原料にした焼酎などがつくられるようになり、ビールも小規模生産ができるようにと酒税法の改正を望む機運が高まっていました。また、国の内外から各種規制緩和への要求が強まっていた時でもあり、1993年から具体案が討議され、1994年4月1日に施行されたのです。
この大きな改正点は、2000キロリットルとされていたビールの最低生産量が60キロリットルと大幅に緩和されたことです。この酒税法改正を待って全国各地から醸造免許の取得申請が出され、北見市のオホーツクビール(株)(郵便090-0037 北見市山下町2丁目 電話0157-23-6300)が新潟県のエチゴビール・ブルーパブなどとともに第1号免許を受けることができたのです。
「酒類の醸造免許の取得は、地元の税務署に申請することになっています。私が地元北見でハウスビールをつくりたいという気持ちを固めて税務署に相談に行ったところ、初めのころは非常にきびしい答えで、2000キロリットルなんて生産できるはずがないでしょう、と剣もほろろの感じてした」と、オホーツクビール(株)の水元尚也(たかや)社長(49)はふり返ります。しかし、日本のビール業界はもっとも寡占化のすすんだ業界です。地ビールがいくら誕生してもほとんど影響しないどころか、総体的なビール需要の喚起につながると、大手ビールメーカーは歓迎するほどだったのです。そこで、法改正はすんなりと議会を通り、全国の地ビールメーカーをめざす人びとのあいだに第1号免許の取得合戦が始まったのです。
1994年、ともに第1号免許を取得した北海道のオホーツクビールと新潟県蒲原郡巻町のエチゴビールは、どちらが先に日本初の地ビールを誕生させるかと、たがいにほほ笑ましい競争を展開していました。
エチゴビールのオーナー、上原誠一郎さん(48)は、酒どころ新潟の造り酒屋(清酒・越後鶴亀)、上原酒造(株)の5代目社長。しかも13年間ヨーロッパに滞在し、夫人はハウスビールの生産で名高いドイツ・バイエルン地方の人という、いわば酒づくりのサラブレッドです。
一方、オホーツクビールの水元さんは、北海学園大学工学部を卒業して、一時、北見市役所に勤務したあと、地元の水元建設(株)に入社。1991年に社長に就任したという、酒造りとはまったく畑違いの人です。
その水元さんが、ハウスビールに関心を持ったのは1987年のことだといいます。
「建築会社の公共事業は、30パーセントが農業土木です。私は農村計画学会の会員でもあるので、その年にドイツ・バイエルン州の食糧農林省などを視察したのです。バイエルン地方は北海道とよく似た風土です。ドイツの研究者らとともに、その州の農村をあちこち回りました。そのとき非常に感激したのは、どんな小さな町や村にもビール会社があることでした。そして、町長主催などのレセプションでは、必ず地元のビールと地元のワイン、それにシュナップスという蒸留酒を供して歓待し、それぞれの製造にまつわる歴史や自慢をふくめた講釈がじつに楽しそうに語られるのです。北ドイツ・ニーダザクセン州の学園都市ゲッティンゲン市に住む知人の教授を訪れると、その街の市役所の地下レストランで市民が飲んでいるのも、この街のビールなのです」。
水元さんの知人の教授が勤める大学は1734年に設立されたゲオルク・アウグスト大学(通称ゲッティンゲン大学)で、1837年に、時の領主が憲法制定の約ゥを破ったことに抗議したグリム兄弟を含む7人の教授が免職された“ゲッティンゲンの7賢人事件”によって歴史に残る大学です。この大学を中退したドイツの詩人ハインリッヒ・ハイネ(1797~1856)は、この町のことを次のように書き残しています。『腸詰めと大学で名高いゲッティンゲン市は999の炉辺に種々の教会をとりそろえ、かつては一つの産院、天文台、大学付属の獄舎、図書館、ビールのうまい市庁舎地下の酒場をそなえている』と。水元さんが飲んだ市役所地下レストランのビールは、まさに170年前にハイネが称えた地元のビールだったのです。
「私が最初に訪れたころ、ドイツはまだ東西に分断されており、6200万人ほどの国民が14の州に暮らし、それぞれの州は地方自治という言葉もないほど、ほぼ完全に主権が確立されていました。州の上に連邦政府がありますが、連邦政府の仕事は外交と軍隊、アウトバーンと国際空港の建設くらいのもの。教育や食糧の生産などは、ぜんぶ州が責任をもってやっています」。
ドイツは、1814年のウィーン会議で連邦が成立した比較的若い国家ですが、戦争やそれに伴う国境線の変更など苦しい時代を経験した国です。そのためドイツ人は、とくに食べ物については頑固なほど保守的な面があって、食糧難の時代をけっして忘れておらず、基本的な食糧は自分たちで作ろうという姿勢を強く守っているといわれます。だから北見と同じ人口規模の10万都市で、オリジナルなビールを何百年にもわたって営々とつくりつづけることができるのです。ドイツのビール工房は、現在、大小合わせて1,200社程度だといわれます。それぞれの工房の生産量は、日本のメーカーの1パーセント程度という小規模なメーカーが多いのですが、いずれも優れたビールを生産しつづけています。
水元さんは、いま、世界でもっともビール生産の活発なアメリカの事情についても語ります。
「アメリカのビール事情は、日本と似ているところがあります。アメリカは1919年に禁酒法が議会を通過して施行されました。この禁酒法は1932年に廃止されましたが、禁酒法施行以前は1300以上という数のクラフトビールがほとんど倒産し、禁酒法廃止後は大会社10杜程度に占有されてしまったのです。いま、バドワイザーをつくっている世界最大のビールメーカーは日本4社の総生産量の1.7倍も生産しているほどです。それでも、1979年の規制緩和によって年間50社ほどが参入するようになり、現在は500社を超えています。今回のビール事業への進出に際しては、やはり伸長著しいアメリカの例が非常に参考になりました」と語ります。
「いよいよ地元のビールづくりに取り組む構想を本格化させるにあたって、まず私の知っている範囲のビール好きな人たちに呼びかけて、ビール研究会をつくりました。会長は北見信用金庫の小森芳晴理事長にお願いしました。小森さんは農協勤務時代に麦の生産にかかわったこともあり、旅行好きで各国のビールを飲み知っている人です。ドイツに留学経験を持つ北見工業大学の教授たちにも参加していただきました。とにかく、どうすればおいしいビールがつくれるか。製造方法、酒税法とのからみ、マーケッティングのことなどを分担して研究してくれました。資金面では、地元の方々が快く出資してくださいました。通産省と開発庁、北海道の3者で出資している“はまなす財団”からの助成も仰ぐことができました。新しく赴任してきた北見税務署の若い署長さんもいろいろ相談にのってくれ“一緒にやりましょう。どうせやるなら全国第1号で”と積極的に協力してくれました」。
そんな人たちの知恵と熱意の結晶として、1991年に報告書がまとめられ、地元支援者47人の出資を得て会社設立にこぎつけました。水元さんはこの新会社の社長に就任、建設会社の社長との二足のわらじを履くことになったのです。
待望の醸造免許は1994年(平成6)12月9日に下りました。もちろん、エチゴビールとともに全国第1号です。早速、仕込みにとりかかりました。醸造師のチーフは北見工業大学大学院で化学環境工学を研究したあと、技術協力を申し出てくれたサッポロビール埼玉工場で研修を積んだ阪内順逸(26)さんです。第1回の仕込みは12月22日。醸造スタッフは正月休みも返上して、醸造釜の中の熟成状態を見守りつづけました。吟味に吟味を重ねて、ようやく北見市民を招いて初めての試飲会を開いたのは95年1月25日でした。銘柄はピルスナー、エール、黒ビールの3種類。この日、招待を受けたのは約1000人。新築したファクトリー兼レストランには収容しきれず、急きょプレハブ3棟を増設。工事用のヒーターで暖をとっての試飲会でした。しかし、この人たちこそが日本で製造された初めての地ビールを試飲するという歴史的栄誉に浴した、幸運な人たちだったのです。
オホーツクビールの営業開始は1995年3月17日でした。地ビール第1号を競い合ったエチゴビールは、そ黷謔阮 ヵ月早い2月16日にブルーパブの営業を開始していました。つまり、日本初の地ビールの味を公開したのはオホーツクビール。地ビールを日本で最初に市販したのはエチゴビールということになります。
オホーツクビールは第1年の昨年、当初計画の100キロリットルでは不足となり、急きょ134キロリットルに増産しましたが、規模からいってそれが限度でした。生産量を増やせば、質を保ちきれるかが製造スタッフの課題となります。
阪内さんは「どんなに需要量が増えても、絶対に手抜きをした生産はしないことを、私たちスタッフの信条にしています。だから、製造がまにあわない時は、そのとおりを伝えて了承していただこうと思っています。すでに予約がたくさん入っていますので、今年は150キロリットルに増やす計画でいますが、設備を増設する計画はありません。その分を緻密な計画を立てて稼働率をアップし、仕込み回数を増やして対応しようと考えています。手抜きをしないということは、仕込んでから製品が出来上がるまでの期間を短縮しないということです。熟成期間を短くすると、どうしても“若い味”が表に出てしまいます。オホーツクビールは、どんな要求があっても熟成期間は絶対に崩さないという姿勢を守っていきます」と、阪内さんは言いきります。
製造スタッフにとって、初年度から予想を超えた好評のため、需要量をどのように確保するかが目前の課題にちがいありませんが、やはり、心血を注いで努力するのは味づくりです。
「私たちは自分の作りたい味をイメージして設計を立て、煮沸を何分間に、ホップはどこで投入するか、などを検討します。最近はキレの良い味を求められる傾向にあります。ビール味のキレとは、糖分がよくアルコールに変化して甘味が少ない味のことですが、私たちは辛口だけが強調されるのではなく、辛口のあと味に甘味を残したいなどと考えています」と阪内さん。そこで、主力銘柄の自己評価を尋ねてみました。
イギリス圏で愛飲されることの多い「エール」は、上面発酵一酵母が発酵槽の表面に浮かんでくる)で、比較的温かい温度で発酵させるため、香りが強く出てくるのが特徴的で、ややフルーティーな感じです。カラメル麦芽を高めの温度で煎ると茶色が濃くなると同時に麦芽の甘みが出てくるので、糖分の甘味のほかに芳しい甘味が加わります。しかし、ボディーはやや重めで、色も濃く、コクが楽しみです。エールは、ここの1年間のお客の趣向と反応から、オホーツクビールの最有力銘柄になりつつあるとのことです。
「ヴァイツェン」は、いわゆる白ビール。小麦を原料に使っているので、酸味が強くなっています。日本人は酸味の強い飲み物をあまり好みませんが、完全にろ過していないこともあって好き嫌いのはっきり出るタイプのビール。オホーツクビールによって熱烈なファンを増やしつつあります。
「ピルスナー」は下面発酵。日本のビールのほとんどはこのスタイルで、いわゆるラガースタイルのビールです。
オホーツクビールでは、これに「黒ビール」が加わりますが、最近は仕上げのビールとでもいうように“黒”を飲んで終わりにしよう、というお客が増えているとか。
「これまで清涼感で飲んでいたが、地ビールには銘柄ごとに味わい分けて飲む楽しさがある」という飲み方が育っています。
では、北見市民はオホーツクビールの誕生と、その味をどのように受け止めているでしょうか。支援者のひとり、下斗米ミチさん(福村書店代表取締役)は「私は北見の地酒会の会長を務めていたりして、ほんとうは日本酒党なんです。でも、オホーツクビールができたおかげで、ビールも飲むようになりました。飲んでみると、私にはエールがいちばんおいしく感じられました。それにヴァイツェンもコクがあってとてもおいしいと思っていたら、これらがもっとも人気のある銘柄とのこと。日本酒で培った私の舌は確かだったことが確認できて、満足しています。これまで、北海道人は原料は生産するが、加工は本州企業に任せ放しという傾向が強くて、地元の産物に付加価値をつけて加工することは得意でないが、水元社長は違いましたね。私は、これで観光の目玉商品が少ない北見市に有力な名物ができた。おおいに売り込めばいいと思っていましたら、水元社長の考えは違っていたのです。観光客に飲んでもらう以上に、北見市民にたくさん飲んでもらいたいのだというのです。私は、そんな狭い考えでどうするのだ。北見でつくったおいしいビールを、どんどん自慢して全国に売ればいいじゃないかと思っていました。しかし、いまでは、こんな良い商品を、よそへなど売ることはないという気持ちに変わってしまいましたよ」と、うれしそうです。
北見市内でリカーショップを営んでいる内田稀八庫(きはちろう)さんは「われわれ酒の専門家から見ても、水元社キがビールのことをあれほど勉強していることに感服しているのです。オープンして10日ごろに日本名門酒会北見支部のメンバーなど50人ほどで試飲に出かけてみましたが、これがわが街のビールか、なるほど北見の味だなーと言いながら、みんなすごく良い反応を見せていました。このビールを量産することには、疑問です。限定販売するほうが消費者にとっても良いのではないかと思っています」。
水元さんとは高校の同級生で、オホーツクビール誕生をサポートしている北見市の隣町・端野町の水口馨(かおる)さんは、ビールの原料、大麦の生産農家でもあります。
「オホーツクビールが、みなさんが最初に考えていた以上に好評なのは、やはり地元の産品を原料にして新たなものを生みだすという、地域の人たち共通の夢とロマンの実現がそこに感じられたからですよ。原料を供給する私たち生産者もそんな夢の実現にほんの少しでもかかわることができたのはうれしいことだし、誇りとすべきだと思っています。北見市は北海道のローカル都市だから、周辺もふくめ一次産業がしっかりしなければならない。オホーツクビールは、経済的にはそれほど大きな力になるとは思わないが“1次産業よ元気をだしてくれ”というエールを送られていると受け止めています」と語っています。
「オホーツクビールは、大手メーカーの作らないものを作ろう。逆に言うと、大手メーカーの作れないものを作ろう。ビール酵母が生きている、ほんとうのビールを作ろう。生きたビールは少量生産をする小さなビールファクトリーでなければ作れないのです。それに、私はできるだけ国内産、それも端野町の麦を使っていこうと思っています」と水元さん。
水元さんがドイツの視察から帰って、日本のビール麦は網走管内が生産地で、道内の83パーセント前後を生産していることを知りました。農協や生産者に聞いてみると、ビール用として買われているのは約半分。あとは家畜の飼料用で、価格も6割くらいになってしまうとのこと。北見地方の農家の耕作面積は草地を含めて平均20ヘクタールで、麦は1ヘクタールあたり4トンの反収をあげています。すると、100キロリットルのビールに使う麦は20トンですから、農家1軒分で足りるのです。
「農家の人には、経済的にはほとんど貢献できないと話したのですが、いや、麦の買い付けはそれで充分。自分たちの作った麦が牛の餌になるよりは、ビールになってみんなに喜ばれながら飲んでもらえれば、こんなうれしいことはない。それに、ビールを製造するときに出る滓(かす)は牛の肥育に最適なので、それを提供してほしいというのです。私どもにとっては、願ってもないリサイクルです。この地域の畜産農家は、優秀な肉牛の野付牛(のっけぎゅう)を生産しているので、ステーキやソーセージとして提供できる。ほんとうに、地元の生産物でつくる食文化を地元の人びとと、ともに楽しんでいこう―それが創業のコンセプトでした」。
水元さんの、オホーツクビールは北見市民のものという考えは、ビアファクトリーの立地場所の選び方にもあらわれています。観光客を優先するなら、郊外に北見を一望できる見晴らしのよい丘陵地がありますが、あえてJR北見駅から徒歩約15分という中心街を選んだのは、市民が勤め帰り、買い物帰りにも気軽に立ち寄ることができるようにとの気づかいなのです。
だが、地ビールが育っていくための環境は、必ずしも整っているとはいえません。地ビールに対する国の課税率は、大手メーカーが生産するビールとまったく同率です。オホーツクビールが昨年納付した酒税は3000万円にもなり、地元税務署をうれしがらせました。地ビールの実質コストは、じつに大ビール会社のビールの1.5~2倍にもなっています。
「これでは、通常の流通にのせて売ることはできません。ですから、私どものレストランに来て飲んでいただく。すると、直接販売ですから、お客さまには少しでも安い価格で提供できますし、私どもにとってもコストの軽減になるのです」と、不整備な環境の中で頑張りぬくことの苦汁を控えめに語るのです。しかし、前途への希望はしっかりと持ちつづけています。
「この地方に、地ビールを核にしていろんな関連産業が生まれてくれることを希望しています。北見市には国立の工業大学があり、若い技術者を確保する環境は整っていますから、さまざまな工業技術、精密技術を地元に蓄積することはできます。また、網走市にはバイオなどを研究している農業大学があります。この大学と共同研究して、酵母の供給会社を設立してもいいですね。日本の大手ビールもタネ酵母はドイツから輸入し、独自の培養をして品種をつくっているのです。地ビールが全国に増えていくと、酵母の需要も増えますから、麦を麦芽にする加工設備があってもいいですね」。
生産農家の水口さんは「美しい穂が波打つ黄金色の麦畑の中にしゃれたブルーパブを建てて、のどかな農村景観を眺めながら“大地の恵みの、ほんとうのビール”を飲みたいですね」と夢を語っています。