北海道最北端最終の開拓屯田兵移住地として兵舎100戸が入地してから、あと2年で100年を迎える私のまち士別市は、いま、時代の大きな節目として、開拓の鍬を下ろした時代の「耕す」から「興す」運動に、まちぐるみで真剣に取り組み始めた。行政と住民との歩み寄りはそう簡単に接点は求められないが、今までの関係では、まちは衰退すると孝えたからだ。
このまちは、とりたてて後世に伝える文化や、屯田兵舎一戸以外に歴史的建造物もなく、「耕」を中心にささやかに栄えた田園の小都市である。しかし、激動の今世紀末には離農者が増え、若者が徐々に姿を消し、高齢者と農地が置き去られるのだろう。これに類した問題は、日本列島各地で見られる現象である。歴史や規模に多少の違いはあるにせよ、町村を存続させるために行政は住民不在の裏工作に振り回されているように見える。
最近、得体の知れない狂気ざたの大事件が続発しているが、これらも戦後の官僚国家体制と中央集権・組織社会と大都市集中の体質の裏側で引き起こされた事件だ。日本という国から膿汁が流れ出し、国民もただごとならぬ事態に気づき始めた。
そんな一方で、全道のローカル地域に近年変化が現れてきた。写真や漫画、音楽、陶芸等々の広義的な意味での文化の香りを漂わす、まちづくりである。また、本州各地から脱サラと称する人や自由人と名のる移住人の定着も見逃せない。彼らとまちづくりとが直接関係あるか否かは定かではないが、まったく無縁とも思われない。
8年前だが、士別市の隣町、剣淵町で「絵本のまち興し」をしたのは、2人の自由人、ヨーロッパ帰りのUターンの私と東京からIターンした他町の松居友氏の出会い、そして、まちの若者たちの熱意から生まれたものだ。いま、想い返せば、小規模の町だから可能であったと自負している。
つまり、量から質に転換すれば良いのだ。当地方は冬が長く、厳しい自然環境だから、ここから生まれてくるものには一段と暖かさや優しさが秘められている。
大らかで、ゆったりと、シンプルな環境の中で、もっとも素直に自然と向かい合う、そこに、高質で密度性のある文化のまち興しができる土壌があると思っている。