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1996年09月号/第76号  [特集]    

農莱を“生き方の表現”ととらえ、自然の摂理とゆとりを大切にした酪農経営をめざす
マイペース酪農交流会

  
 国民の食料供給の一翼を担う北海道の酪農家は、乳価の低迷、農産物の輸入規制緩和などきびしい環境の中で懸命の経営努力をつづけています。昨年12月、農水省は西暦2005年を目標にした『酪農・畜産の近代化基本方針』を発表しました。そこでは、食生活の変化を背景に、牛乳、乳製品、牛肉などの需要は大幅に増加するものと見込み、個別農家にも積極的な生産拡大の方針を打ち出しています。しかし「それがトータルとしての食料増産につながるのだろうか。農業者をほんとうに豊かにするのだろうか」と疑問を持ち、牛の飼育数を減らし「無理な搾乳をしないことこそが、ほんとうの豊かさを酪農家にもたらす」と、自分の能力と条件に合わせた経営をめざしているグループがあります。実践のスタートは根釧(こんせん)地方からでしたが、研究者など多くの人の知恵を借りながら、いまでは全道各地に広がりをみせています。

月例会を中上してもだれとなく集まって討論

イメージ(マイペース酪農の月例交流会。近況を報告し、技術のこと、社会のこと、人生のことなど、多彩な話題を語り、学びあう。)
マイペース酪農の月例交流会。近況を報告し、技術のこと、社会のこと、人生のことなど、多彩な話題を語り、学びあう。

7月18日、「今年は天候不順で牧草の収穫が遅れているので、きょうの月例会は中止の連絡をしたんですよ。それでも、手の空いている何人かは集まって来るかもしれません」と、別海町西春別地区を拠点にした『マイペース酪農交流会』の事務局を担当している獣医師の高橋昭夫さん(52=別海町西春別駅前 電話01537-7-2509)は平然としています。毎月第3水曜日は交流会の例会が開かれる日ですが、この日は会場の手配もしていないので、高橋さんの自宅が集会場。いつもの集合時間は夜8時からと申し合わせていますが、まず7時を過ぎたころに北海道教育大学釧路校の社会学研究室の助教授が「ユニークな酪農グループの熱心な学習会に参加させてほしい」と、釧路から車を走らせて来ました。集まり具合をうかがっていた地元の酪農家も早々に訪れ、夫婦での出席が通例なので、厚岸町などからやって来た夫婦連れ、ご主人が何かの都合で出席できなくても、当然のこととして奥さんが単身で参加した人も2人おりました。それに、常連である標津サーモン科学館の主任学芸員も加わり、いつのまにか定刻の8時には通常の半数を超える集まりになっていました。

「私たちの会は、会員制ではないのです。いっしょに何かを考えてみたい、私たちと語り合ってみたいという人なら、だれもが自由に参加できる会ですよ」と高橋さん。しかし、毎月の交流会や年に1回開催する学習会の参加者は各地の学術研究者や試験研究機関の職員のほか地元商店主などにもおよびます。

この夜も、それぞれに1ヵ月間の近況や体験報告から語りだされます。今年は日照不足の影響が心配され「今は、ひたすら牧草の乾燥待ち」という発言が最初に飛びだしました。先月の例会では「今年は草が足りなくなって、ロールを60個買った。それで放牧時期までつなごうと思う」と不安を語る人もいました。

このグループは牛の“昼夜放牧”を主体にした酪農経営なので、牧草のことが最大の関心事。高橋さんが1枚の写真を取りだし「これが三友農場(後出)の牧草地。草の色がこんなに違うのですよ」とみんなに示すと「あそこの牧場では、境界の柵はほとんど不要。牛がよその草を食べようとしないんだよ」と1人が補足し、みんなもその言葉に納得して、牛が喜んで食べる粗飼料の技術的な話題へと深めていきます。

この会は、いま、夫婦そろっての本格的なチーズ作りにみんなが取り組んでいます。持ち寄った手作りのチーズやパンがテーブルに山積みにされ、その出来具合を賞味しながら、これも今日の食生活のあり方へと論議がすすんでいきます。例会はとくにテーマを決めて集まるわけではありませんが、いつも酪農経営の技術的な近況や将来展望、牛の健康管理などから、教育のこと、余暇活動のことなど生活全般におよび、男性も女性も話題を共有しあって、いきいきと論議しあうのです。夫婦同伴の参加が原則であり、子育て中の奥さんが多かった時期には昼間に開いていたほどですし、自己紹介も奥さんから先にするほどでした。その姿勢の根底にあるのは、酪農は家族経営が基本であるため夫婦が対等に経営参加していることと、物事を既成観念にとらわれずに自分たちで考え、新たな価値観を求めて判断し、実践していこうとする意欲にあふれています。

農民の幸せを求める実践活動は20年前から

じつは、この地域の酪農家には20年以上も前から「農民のほんとうの幸せが求められる豊かな農村生活を実現するためにどうすればよいか」を自分たちで主体的に考え、実践しようとした活動があったのです。

1970年代初頭から社会教育の研究でこの地域の人たちと出会い、以来、交流を絶やさない室蘭工業大学の山田定市教授は、そのへんの事情を次のように話します。

「別海町の泉川集落は戦後開拓の集団入植地で、ここに入植していたのは戦前に満蒙開拓義勇軍に参加していた人たちです。敗戦後、行き場を探してこの地に入植し、酪農を中心に農業をすすめておりました。集落全体が裸一貫で来た人ばかり。いろいろご苦労はあったようですが、あまり貧富の差もなく、何をするにも互いに助け合っていくしかないという気風が、そのころからあったようです」。

イメージ(マイペース酪農の人たちは、毎月の交流会のほかに年1回学習会を開く。他の地域からの酪農家や研究者なども多数参加する内容の深い学習会だ。)
マイペース酪農の人たちは、毎月の交流会のほかに年1回学習会を開く。他の地域からの酪農家や研究者なども多数参加する内容の深い学習会だ。

一方、別海町全体の酪農は一貫して、時の政府の最先端の政策を具体的に試してみる実験場のような位置づけにあり、常にその時々の特徴的な政策を推し進めてきた地域です。1956年ごろからパイロットファームヘの入植が始まり、泉川の人たちは搾乳牛を5頭、子牛を含めても7~8頭ほどで生活できるだろうと、その規模に見合った牛舎とサイロを建てて牛を飼っていましたが、たちどころに経営は立ち行かなくなり、継ぎ足し継ぎ足しで規模拡大をはかっていきました。統計的にも、5年間で倍々ゲームで多頭化がはかられてきたのです。そして、その行き着く先は、1970年代半ばの「新酪農村建設計画事業」。そこでは、搾乳牛だけで少なくとも50頭、100頭をめざすため、100ヘクタールレベルの建売牧場方式の一大酪農集落が、国の大々的な開発投資によって形成されていきました。

その様子を見ていた泉川の人たちは、どうも、あの方式では規模拡大に追いまくられて、やっていけなくなるのではないかと危惧の念を抱きました。そこで、労働組合や農民組合運動家、教員など地域の心ある人びと、当時は共済組合の獣医師だった高橋さんなどが連携して「労農学習会」をおこない、時の酪農政策の問題点や乳価闘争、税金を低める闘争などに取り組んでいたのです。

やがて、労農学習会は小休止の状態になり、1970年代末から80年代にかけて、高橋さんを中心に牛の飼料の与え方、子牛の育て方など酪農技術を中心に学習する「酪農技術研究会」開かれるようになり、年に1回くらいは政策研究会などもおこなっていました。そして80年代半ばには、労農学習会のメンバーや戦後入植者の2代目世代に当たる若い人たちが加わり、『別海と酪農の未来を考える』という集会が持たれるなど、折りあるごとに酪農の将来を模索する学習がおこなわれました。“マイペース酪農”という表現は、それ以前から少しずつ用いられていました。

イメージ(高橋昭夫さん)
高橋昭夫さん

「マイペース酪農の意味は、ひとつは政府の政策に振り回されない、自分たちのペースで酪農経営をしようということです。また、牛を多頭化していくと、農民自身がダウンしてしまいます。多頭化には“かっぱ・えびせん酪農”という言い方があります。スナック菓子のCMで『やめられない、止まらない』と訴えるのに似て、とどまるところを知らない大規模化を追いつづける経営のあり方です。酪農の大変さは、多くの場合、家族ぎりぎりで経営していて、だれか病人が出ると、たちまち離農せざるを得ない状態におちいります。

それを十分承知している人たちは、何よりも健康を大切にしよう。健康を損ねない範囲で、ぎりぎり何頭の牛が飼えるかを考え、それを基準にして生活そのものを大切にしよう。人間の健康と暮らしを大切にするのであれば、牛にも無理をかけない飼い方をしなければならない。牛乳の生産は1頭あたりの搾乳量を増やせばよいのではなく、ある一定の量に抑えることも必要だろう、牧草地の土にも負担をかけず、牧草の反収も一定のところで抑えて地力の減耗を防ぐ。そんな酪農経営のしかたを模索しつづけていたのです」と山田教授は、交流会の人たちが次の飛躍にすすむ前に、そんな下地のあったことを評価しています。

次への飛躍の契機を与えた「三友農法」の実践

交流会のみなさんは、毎年5月に年1回の学習会を開催し、酪農の現状と将来を勉強しています。1991年の学習会の講師には、中標津町で酪農を営む三友盛行(みとももりゆき)さん(50=中標津町俵橋)を招きました。そのときの講演が、参加していた人に大きな衝撃をもたらしたのです。

三友さんが東京から北海道の根釧地方にやって来たのは1965年。それまでは今でいうフリーターで働きながら無銭旅行をする生活でしたが、この年に中標津町で酪農研修生を募集しているのを知って応募し、3年間の実習を積んで独立しました。研修に入って1年後に奥さんの由美子さんを東京へ迎えに行って結婚。しばらくは研修先に同居しての新婚生活でした。

「私たちは無一文の開拓者ですから、当然、負債を抱えての出発です。その借金を返済するためには、生産拡大、規模拡大で収入を増やし、大きな農家になろうとする、それはだれもが考えたことです。ぼくもその方向性で酪農をやり、自分の持っている牧場の面積と条件にふさわしい農業形態をつくりあげるまでに10年くらいかかったでしょうか。多くの人はそこからまた、もう一段の規模拡大に走るのですが、ぼくはそれをやめ、自分の持つ牛舎施設などの条件や草地面積にふさわしい経営をすることにしたのです。そのころはまだ借金はかなり残っていたのですが、45ヘクタールの草地でほぼ40頭の・高狽、のがもっとも適正な規模と考え、その以上の規模拡大はしないことに決めたのです。」と三友さんは語ります。そこに立ち止まって考えたことは、自分は何のために北海道に来たのか。北海道でどんな農業をしようと思ったのかを振り返り、自分のこれまでやってきた農業のあり方を再点検したのだと言います。

農業を工業の論理で考え、コストの低減と量の拡大へ

では、三友さんは、農業をどのように認識し、どのように健全経営を確立したのでしょうか。

イメージ(夜の放牧に送り出した後、夕食までのひとときをくつろぐ三友夫妻)
夜の放牧に送り出した後、夕食までのひとときをくつろぐ三友夫妻

「日本の戦後の農業は食糧難から始まり、国民への食糧供給を第一にすすめてきました。やがて食糧難は解消され、高度経済成長の時代になると国民経済にも多少の余裕が生まれ、米以外の果樹や畜産などに選択的拡大生産を求めるようになってきました。さらに経済力がつくと、経済第一主義の風潮が強まり、農業も経済産業の一員とみなし、農業を工業の論理で考えるようになったのです。したがって、労働者やサラリーマンなどの都市生活者に安い農産物を供給するためには量の拡大によってコストの低減をはかる一方、円高もあって、安ければ国内自給率を無視した外国からの輸入をすすめてきました。農業の工業化は、とくに酪農が可能な分野であり、多くの酪農家はその論理にこたえようと借金を重ねて規模を拡大し、高い輸入穀物飼料を大量に与えて無理やり搾乳量を増大させ続けてきたのです。これまでの経済主義は量の拡大によって成り立っているといえるから、その量は無限に必要とされて際限がない」と、三友さんはきびしく指摘します。そして、

「農業は品種の改良や土壌の改良などいろいろな形で進歩はしてるが、それらは化石エネルギーなどの地下資源と森林を略奪して進めてきたものです。しかも、それは私たちの子や孫の代に消費すべきものを先取りしていることなのです。農業とは循環です。酪農を例にとれば、土があって草が生え、その草を牛に食べさせると牛乳ができる。その一方で牛は糞尿を排せつし、それをきちっと堆肥にして草地に返してやると、土が肥え、良い草ができる。その循環を繰り返しているのです。農業のもっとも大切なことは、持続することです。農業が適地・適産・適量を守れば、持続が保障されます。もし農業が持続できなくなるとすれば、それは農民の不幸であるばかりか都市生活者の苦しみにもなるのです」。

三友さんは、日本は農産物に対する正しい評価のできない国だと言います。食料は生命を支えるものなのに、その食料に支払う対価が少なすぎると言うのです。

「生命を支える農産物に応分の費用負担をしてくれれば、農家は無理な生産をしない。取り過ぎなければ環境を壊さないし、農薬を使わない。すると、安全でおいしい食料が供給できることになり、回りまわって国土を守り、地球を守り、自分の命を守ることになるのです」。

イメージ(酪農の基本は家族経営、三友さんの牛舎では夫婦のコミュニケーションがとりやすい工夫もされている)
酪農の基本は家族経営、三友さんの牛舎では夫婦のコミュニケーションがとりやすい工夫もされている

「いま、親牛は30頭。牛乳の生産量は1頭あたり普通の酪農家の4分の3程度。たとえば、ふつうは8千キログラム搾るのに、ぼくのところは6千キログラム。だからといって、ぼくのところの効率が悪いということにはならない。たとえば8千キログラムのうちの4千キログラムを外国の飼料を頼りにして搾る。それよりも、6千キログラムのうちの4千キログラムを自前の牧草で牛乳にかえるほうが効率は高く、量は少ないけれども、その農家の農業生産力が高いということになるのです。工業的な発想の拡大酪農は、牧草から搾る実質生産よりも加工生産(穀物を与えて搾った牛乳)のほうがはるかに多い。しかし、日本の酪農は実質と加工のバランスに関係なく、名目上の生産量を拡大することが農業の進歩だと思っているところに、ぼくとの認識の違いがあるのです。しかも、加工生産の拡大は何をもたらすか。それは生産者の過剰負担、環境の悪化、外国からのエネルギーの投入、それらによるさまざまな社会環境の悪化など。一方、実質生産は環境にやさしく、人間にも牛にもやさしく、はるかに優れた、持続する農業なのです」。

「根釧地方は1農家あたり100ヘクタールの土地を所有することができるから100頭の牛を飼ってよいかとなれば、他の要素があってそれを許さないだろうね。というのは、根釧地方は低温多湿の気候風土であり、本来は乾燥地帯の生物である牛を1ヵ所で飼養すれば何が起きるか。必ず病気が増えます。すると抗生物質を使う。牛舎設備を建て替えなければならないし、糞尿の処理にも困るだろう。農民は、100頭の牛を飼いたいと心底思っている人は少ないはず。ただ、大半は経営が成り立たないと思うから飼うのです」。そばの由美子さんも話を引き継ぎます。

「50ヘクタールに50頭の牛を飼うと生産量は減るのです。しかし、農業は50年、100年、もっともっと持続していかなければなりません。たしかに生産量は減るけれども、それをどのようにみんなで分けあって食べていくかに知恵をしぼらなければなりません」。

「生産量が減るのですから、当然収入は減ります。しかし、実質の取り分はサれほど減らない。ぼくたちは得た収入の範囲で生活するのを前提にしています。適正な生産量を得るために適正な労働をし、適正な生活をしたほうが、人生をトータルで見た場合は非常に豊かだと言えるのではないだろうか。生産量を腹八分にすると、時間的な余裕が生まれて家族との対応の機会が増し、奥さんの地位や役割がしっかりと、対等に認識されます。ぼくは、農民が農業をしているのではなく、人間が農業をしているのだと思っています。つまり“農業を通じて、生き方をどのように表現するか”です。」と三友さんが言えば、由美子さんも「一般的な酪農に従事しているときは、目標は一つでした。ある目標の生産をあげて、ある目標の経済力を確保して、それによってどういう生活、どういう目標を達成しようかと考えていました。しかし現在は、酪農をするのは人生の中の一部の、仕事という表現です。それに並列して子どもを育てながら、家庭経営や家族関係、地域や友人関係を深めながら酪農をしている、そんな位置づけなのです」。

頭数も乳量も減らして牛の管理は牛任せに

このような三友さんの農業観とその実践を初めて聴き、衝撃を受けた人のひとりが岩崎和雄(46=別海町泉川)さんです。

イメージ(ペットの子馬と、ゆとりを楽しむ岩崎夫婦)
ペットの子馬と、ゆとりを楽しむ岩崎夫婦

「2代目酪農家になって16年になるが、最初は借金もいっぱいあったから、乳を搾らなければと、どんどん飼料を改良して搾乳をしていました。多いときには120頭の牛を飼い、乳量も380トンくらいを搾って、それなりの収入もあったのです。最先端の技術を駆使するのが正しい、限られた土地の中で乳量いっぱいを搾るのが正しい、そんな気持ちだったのです。しかし、三友さんの経営を見せてもらい、話を聞いてみると、うちの半分を少し超える200トンくらいの乳量なのに、所得があまり違わないんですよ。そればかりか、資材はうちのほうが三友さんより3倍も多く使っているんです。ちょっとショックだったね、3倍の資材を使っても同じ程度の所得しかえられないということが。それ以来、2~3年かけてまず牛の頭数を7割くらいまで減らし、並行して乳量を300トン弱にまでダウンさせました。それまでは平均の農家よりも多く搾っていたが、搾乳量は平均を下回ってしまった。それでも、とにかく資材費を減らすことに専念したんですよ」。

その結果、岩崎さんの心のうちに思わぬ変化があられてきました。

「一生懸命搾っていたときは、自分でも気づくほど神経がピリピリ、イライラしていた。最先端の技術を使って牛の必要とするものを与え、最大生産量をあげてやろうとする思い上がった気持ちがあって、毎日の乳量がすごく気になる、つねに牛の動向が気になる。すると、牛自体もピリピリしていて、病気も多かったんです。ところが、いまのマイペース酪農に切り替えてからは、精神的にはすごく楽になった。次々に、何かをしなければならないというあせりがなくなったし、草を刈る面積も半分になったから、時間にもゆとりが出てきたんですよ」と岩崎さんは話します。

岩崎さんは、三友農法にならって、それまでは考えもしなかった「昼夜放牧」を始めました。草地に放牧すると、牛は牧草地で糞尿を排せつするから牧草の収穫には効率が悪いと思い、機械で刈り取って牛に与えていたのです。ところが、放牧地では牛がしぜんに排せつした糞尿を土が吸収して草を育てています。「人間が牛にしてやれるのは、乳がよく出る青草の時期に合わせて分娩をさせてやること。つまり、繁殖管理だけをきちっとやる。あとは、牛が放牧地に喜んで行っているかを見ているだけ。乳が出るかどうかは牛任せという感じで、肩の力がとれた」と岩崎さんは笑います。

説得力ある実践が21世紀の農業のあり方を示唆

ふたたび、山田教授は語ります。

「いまや、規模拡大路線の酪農経営は、それだけではうまくいかないことが全体的にはっきりしてきています。一義的に規模拡大をすすめるのではなく、もっと別な、北海道弁で言う“まかたする(採算がとれる)酪農”もあり得るということで、行政側もマイペース酪農の人たちの活動に注目している、というよりも無視できなくなっているのです」。

別海町には、西春別と中西別の2つのマイペース酪農グループがあり、これらの交流会や学習会には網走管内や釧路管内などからも参加しています。浜中町は西春別の分家のようなグループで、その活動はとても活発です。さらに、道北の豊富町、道央の恵庭市、道南の瀬棚町などでも交流活動や学習活動がおこなわれています。また、その経営実践を学びたいという講演依頼も全国から寄せられています。

イメージ(山田定市教授)
山田定市教授

「マイペース酪農は、生産と生活の問題を地域の人やさまざまな立場の人がいっしょにやっていく地域づくりにもつながっています。印象的だったのは、ある農家がしぜんな発言として『自然の摂理を利用させてもらって、気負わず、自分のできる範囲で生産と生活のバランスを保つ経営をめざしている』と話していることでした。そのように、個々の経営が努ヘをすれば地域全体の取り組みにもなり、ごくしぜんにグローバルな環境の問題に結びついていく、という感じがしました。マイペース酪農の、規模を拡大しなくても経済的に成立する酪農であることを身をもって証明している姿には説得力があり、21世紀に向けての農業のあり方に対して、きわめて示唆に富んだ実践です。私たちは、これを限られたグループの実践と見ることなく、それ自体の持つ社会的、教育的な意味を、みんなで考えてみることが必要だと思います」と、山田教授はきっぱり語っています。

この夜も熱心な話し合いで、時計は深夜1時を過ぎました。それぞれの帰って行く先は、田畑に適さず、平坦な土地に豊かな草地だけが広大につづく根釧地方です。いま、この地域に『酪農・畜産近代化基本方針』の推進や米軍の矢臼別演習場移転計画などの新たな問題が降りかかっています。地域に根ざすマイペース酪農のグループも、やがてそうした課題への対応を迫られることもあるでしょうが、自ら培ってきた主体的な判断力と、結びつきを強めてきた多くの人の知恵を借りながら、たくましく賢明に前進していくにちがいありません。

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