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1997年01月号/第78号  [ずいそう]    

家族新聞のこと
白鳥 雅芳 (しらとり まさよし ・ 北海道留萌高等学校教諭)

息子が父親の勤める高校へ通いだして2度目の冬を迎えた。地元の高校へという本人の希望だったので、やむを得ない選択であった。そして教師である父の事情が急に複雑かつ深刻なものとなった。

教師根性のよくない見本の1つに、安易な“親への責任転嫁”がある。こちらの力がなかなか生徒に通じないとき、「家庭のしつけが」などと、すぐに逃げに入る。自分の子供がまだ職場からの視野に入らないうちは、これが結構“有効”であった。それが、今の自分にはほとんど効力を失っている。自ら切り離したはずの責任がすぐに逆流してくるのだから、たちが悪い。最近、いろいろな場面で、教師より父親の側に重心が傾いている自分を発見することがある。要するに、高校教師が高校生の父親としての自信をなかなかもてないでいるのである。

昨年4月、現在の職場で6回目の学級担任についた。スタートして間もなく、ある女生徒の家庭から家族新聞をいただいた。まだよく正体の知れない者に我が子を託すことになった親の「我が家では、こんなに大切に育てているんですよ」、そんなふうに聞こえる声が、その後、定期的に届くようになった。

家族新聞のことだが、先日、大学時代の友人より家族新聞の最終号が届いた。86年の第1号以来ちょうど10年、118号が最終となった。その間、親の眼差しと子供たちのいきいきとした成長の過程が我が家に届け続けられた。

父親の貧弱な背中ばかりしか子供の目に映らなくなったといわれて久しい昨今、家族の一人ひとりがしっかり向き合い、自分たちの“文化”を大切に育み合ってゆこうとする姿勢に、強い共感と敬意を覚える。少子化の現代、私たち団塊世代が育ったような地域や家庭での“教育環境”は望むべくもないが、家庭の教育力としての“我が家の文化”が大切なのだと思えてならない。私のもとにあるこれらの家族新聞には、まぎれもなく香り高いその“文化”があった。

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