洞爺湖は、内浦湾(噴火湾)に面した西胆振地方の虻田(あぶた)町、壮瞥(そうべつ)町、洞爺(とうや)村にまたがるほぼ円形のカルデラ湖です。周囲は約40キロメートル、面積は70平方キロメートル、水面の海抜は84メートル、最も深いところは180メートルもあります。湖の中央には原生林が生い茂る4つの島が浮かんでいます。湖畔には丘陵が間近に迫り、活火山の有珠山の活動によって南岸には虻田町の洞爺湖温泉、壮瞥町の壮瞥温泉が湧出しています。とくに、1943~5年にかけて起こった有珠山の噴火によって畑地が隆起し、昭和新山(標高408メートル)が形成されたことで有名になりました。1949年、支笏洞爺国立公園に指定されて、年間400万人の観光客が訪れる北海道有数の温泉リゾート地として発展してきました。
ところが、1977年8月7日の朝に有珠山中腹で大噴火が起こり、噴煙は上空12000メートルに達し、火山灰は遠く知床半島まで降ったといわれます。その後も小噴火をつづけて火山礫(れき)が洞爺湖温泉街を直撃し、さらに雨を含んだ火山灰は生コンクリートのような泥流となって対岸の洞爺村まで押し寄せました。この災害で3人の住民が犠牲となり、被害総額は数百億円にのぼって、一時は再起不能かといわれるほどの大打撃を受けました。そのとき、地域住民の生命を守るために陣頭指揮をとったひとりが虻田町長の岡村正吉(まさよし)さん(74)です。
岡村さんがこの大噴火に遭遇したのは、北海道教育長を退任したあと生まれ故郷に帰り、町長に就任して3年目の時でした。その3年間、北海道を代表する観光リゾート地のひとつとして、年間400万人も訪れる観光客の心に何が提供できるかを常に考えていたと、岡村さんは語りはじめます。
「湖畔全体に暮らす約17000人の住民にとって、洞爺湖は四季を通じ、人生を通じて、よろこびや悲しみなどの生活実感を持つ、母なる湖ですよ。だから、洞爺湖の風景の美しさは日本一だと思っている。しかし、観光に訪れる旅人にとっては、洞爺湖はまるで絵はがきのようにきれいすぎて心に迫る感動が足りない。ここには、詩やドラマの世界がないと言うんだな。襟裳岬は“何もない春です”といって歌になった。オホーツクの流氷、道東の広漠たる自然は、それだけで詩になると言うんだよ。ところが、洞爺湖は恋愛が成立してしまう場所なんだ」と岡村さんは笑います。
「いろいろ考えたら、ひとの心を打つものは、やはり芸術だ。それも、この風景に調和する野外彫刻がいい。それにはたいへんな金がかかる。しかし、何とかこの夢を実現しようとチャンスを狙っていた。その矢先ですよ、あの大噴火に襲われたのは。そして、その後は復興対策に追われる年月がつづいたんですよ」。
その噴火によってこの地域は多くのものを失いましたが、そのひとつに、北海道立教員保養所があります。
洞爺湖畔地域は美しい景観とともに、北海道の湘南といわれるほど気候が温暖なために、会社などの保養所がいくつもありました。この教員保養所は1943年に伊達日赤病院からこの地に移転し、200床のベッドをもつサナトリウム(結核療養施設)が完成して、結核と闘う教員の患者を受け入れました。ところが、移転早々に昭和新山を生成した大噴火に見舞われたり、戦中・戦後の食料難などとも闘いながら、患者たちはひたすら生き抜くことに希望をもって闘病生活をつづけていました。とくに、この保養所に学童病棟を設けて医療と教育の提携によるユニークな実践活動をおこなっていたのが高く評価されていました。しかし、1977年の大噴火と翌年発生した泥流によって施設は壊滅し、ついに再建不能となって、創設いらい40年の歴史を閉じたのです。この保養所で闘病した教員は約9000人といわれています。
「当時、結核は不治の病といわれていたんですよ。とくに若い教師の患者が多く、その人たちはつらく苦しい闘病生活を送りながらも、子どもの教育のことに情熱をもちつづけ、時には恋愛もする青春の日をそこで送っていた。その生きることの尊さとよろこびを体験した思い出の場所がなくなってしまったんです。その人たちにとって、それはどんなに悲しいことだったか。わたしは、北海道教育長も務めていたんで、その人たちの心境はよく理解できるし、特別な思いもありましたよ」と岡村さんは言います。そして、10年の歳月は瞬く間に過ぎていきました。
「そうだ、この人たちのために、かつてここに教員保養所が存在したというメモリアルを残そう、と思い立ちました。何人かに打診してみると、みんな賛同してくれたんで、早速、北海道立教員保養所ゆかりの会をつくってもらい、募金活動をはじめたんですよ。もちろん、わたしの胸には、野外彫刻をつくろうというプランは秘めていました。しかし、わたしからは何も言いださずにいたんです」。
ゆかりの会の役員たちが集まって侃々諤々(かんかんがくがく)。論議はさらに二転三転した結果、ようやく彫刻を設置しようということになり、作家をだれにしようかというところまで具体化しました。そこから浮かび上がったのが、若き彫刻家の安田侃(かん)さんでした。安田さんは1945年に美唄市に生まれ、教員を志して現北海道教育大学岩見沢校を卒業した後、東京芸術大学大学院彫刻科を修了。さらにイタリア政府の国費留学生としてローマ・アカデミー美術学校に入学していた新進作家でした。
「当時、1千万円ほどの予算を立てて依頼したところ、“彫刻は予算で創るものではない”と言い“イタリア・ピエトラサンタの石切り職人の好意で大きな大理石が手に入った。洞爺湖では、小さな彫刻では風景に負けてしまう”と言って、8トンもの大抽象彫刻を送ってきた。それが、『回生』という作品だったのです。そのために、ゆかりの会では何回かの追加募金をしましたよ」。と、その作品が完成して来た1984年当時を、岡村さんは、懐かしそうに思い起こします。
当時、作品の構想を練るためなどになんどか町を訪れていた安田さんが、ある日「教員保養所跡を散歩していたら、草むらから自分を呼び止める声が聞こえた。振り返ったが、だれもいない。霊がおれを呼んだのだ。あそこにも彫刻を彫ると言いだしたんですよ。町にはそんな金ないよと止めたが、金は要らないと言う。そして、ほんとうにイタリアの大理石でモニュメントを創ってきた。彼は、そういう人なんですよ」と岡村さんは感慨深げです。
そうこうしているあいだに、こんどは有珠山噴火災害復興10周年が迫ってきました。
「あの火山灰の泥流の中で“負けてはならぬ、頑張り抜こう”と、自らに、そして地域住民に懸命に呼びかけて復興へのたたかいをつづけた歳月。よくぞ、ここまで力を合わせてよみがえることができたものだ。この証しを湖畔のモニュメントに託そう」と考えたとき、岡村さんの胸の中の夢は、すでに明確な構想としてイメージできるまでに育っていました。
そのモニュメントの制作費をねん出するための募金を、こんどは町民に呼びかけました。このとき、ある地元企業の社長さんからは、創業記念にと大口寄付の申し出もありました。
岡村さんは、その社長さんにこんどのメモリアル作品の制作も安田侃さんに依頼してはどうかと考えていることを話しました。すると、その社長はこんな言い方をしたとのことです。
「安田さんの腕(彫刻作品の価値)がどうか、わしにはわからん。しかし、あの人は、いい人だ」と言うのです。なぜかと聞き返すと、『回生』を設置するとき、「作品をウインチで引き下ろし、台座に取り付け終わるまでに3日くらいかかっていたが、見ていると彼はその作業に付きっきりで、泣き泣き陣頭指揮をしていた。祝賀会の挨拶のときも、感動の涙で声を詰まらせていた」というのです。安田さんの人柄の良さは、まちの人のだれにでも浸透していることでした。
有珠山大噴火10周年記念作品は『意心帰(いしんき)』(意は心に帰る)という表題の、長さ3.1メートル、重さ11トンにおよぶイタリア産大理石の大作です。『回生』と同じく、災害後の復興事業で新設整備された虻田町の洞爺湖遊歩道に設置されました。
1988年9月、その除幕式が盛大におこなわれました。洞爺湖を囲む壮瞥町の菅原俊一町長、洞爺村の三橋健次村長(当時)と3町村の議会議長、教育長、観光協会会長など多数が列席しました。それは、岡村さんの“戦略”でもあったのです。
北海道立近代美術館や札幌芸術の森の関係者に協力を仰いでまとめていた野外彫刻公園設置構想を列席者に諮り、有珠山噴火からの立ち直りの証とした3町村共同による広域プロジェクトとして推進することが決まったのです。自治省の地域づくり・ふるさとづくり事業債や北海道庁の市町村振興補助金による資金援助のメドも立ち、早速、3町村が手を携えて「洞爺湖彫刻公園設置準備会」を発足させました。まもなく、北海道庁胆振支庁の地方課長から「ぐるっと」という言葉をプレゼントされ、1989年に『とうや湖ぐるっと彫刻公園』という現在の名称に変更して初年度を迎えることになりました。制作者の選定は、北海道立近代美術館や札幌芸術の森美術館などの協力を得て、日本を代表する彫刻家と若干の外国人作家が選ばれました。
そのようにして、3町村共同事業としての第1作が札幌在住の彫刻・版画家として知られる国松明日香さんの『輪舞』(コルテン鋼材)が、その年の12月、洞爺村の浮見公園に設置されました。翌年には、帯広市出身でニューヨーク在住の坂東優さんの『I Was…I Will(過去…未来)』(ブロンズ)が洞爺村浮見堂公園に。東京で活躍する札幌出身の作家・伊藤隆道さんの『風の水面』(ステンレス材)、釧路短期大学教授の彫刻家・米坂ヒデノリさんの『啓示』(ブロンズ)は壮瞥町の壮瞥温泉湖畔に完成しました。
その後、設置計画は修正を重ね、当初プランの周囲1キロ間隔で設置する案は、ある程度集中して鑑賞できるようにと、人びとが訪れやすい場所にある程度まとまって置かれることになりました。そして、昨年11月に設置された佐藤忠良さんの『ひまわり』が、湖畔に計画された57基の最後の作品です。『回生』から数えて12年、共同プロジェクトから10年間に虻田町に23基、壮瞥町に18基、洞爺村に16基の合計57基が設置されました。
この事業は、制作者にも湖畔に暮らす人びとにも多くのものをもたらしました。1991年に制作した『風待(かざま)ち』(白御影石)の作家・小樽在住の渡辺行夫(いくお)さん(46)は、この作品で本郷新賞を受賞しました。
「私の場合、感じたものを言葉で表現する前に感覚が先に来て、それが形で表現されます。もちろん、いま自分が興味をもっている形、技法といったものが作品の中に出てきますし、創ろうとしている場所の環境の取り入れ方で、作品がその場所でどのように生きていくか考えます。洞爺湖の中に浮かぶ中島は、あれ自体が立派な造形です。やはりあの曲線はあの彫刻に、なにほどかの影響はあったと思います。私があの場所で受けたものは、水と風と光です。その3つがしぜんに彫刻の中に反映し、その相乗効果で存在をしっかりしたものにしようと思いました。あの形は、ヨットの帆にも思えるかもしれません。一つひとつの石の断面は意識して徹底的に磨き上げました。立ちあがって見ると、そこに青空が反射しています。組み合わせた石のすき間は湖の景観を遮断しないように配慮したものです。あの彫刻の前に立てば、そこに湖とその背後の景観が見え、青空が見え、風が感じられる。そんな彫刻にしようと考えて、ある程度成功したと思っています」。
「最終的な仕上げは現地でおこないました。春先のみぞれ降るなかで一生懸命彫っていると、洞爺村役場の職員が、電気のない場所なので発電機を用意してくれたり、搾りたての牛乳を車の後ろで沸かしてくれました。村の産業祭りは必ず知らせてくれますので、毎年家族と連れ添って出かけます。ある年のこと、私の彫刻の設置場所近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいると、隣の座席で私の彫刻の話をしてくれている方に出会いました。そのようにして、あの彫刻群が地域の人たちや観光客に親しまれ、それぞれに思い入れを持っていただけたら、作家にとっても彫刻にとっても幸せなことだと思っています」とも語ります。
洞爺湖周辺地域の開拓には、明治期に四国から数多くの人が入植しました。『讃洞爺』(黒御影石)という作品を寄せた速水史朗さんは香川県在住の作家。作品はその歴史がモチーフになりました。教員の経験もある速水さんが制作の打ち合わせに虻田町を訪れたとき、湖畔の小さな小学校の児童と交流をしました。そのときの子どもたちの礼儀正しさ、家族のように温かい学校の雰囲気に「教育の原点を見た。湖水のように澄んだ子どもたちの30の瞳を見ているだけで、とても幸せでした」と感動し、映画『二十四の瞳』の小豆島でよい御影石が見つかったので、と彫刻が贈られてきました。作品の題は『大地の子』。子どもたちが自由に触れたり、上って遊べる作品です。
彫刻は、あと1基の制作を残しています。
「最後の作品は、やはり安田侃さんにと決まりました。それには最良の場所を提供したい。すると、もう中島しかない。しかし、そこは国立公園の特別地域ですから、人工物はいっさい設置することはできないと、みんなが大反対するんですよ。しかし、国民の財産である国立公園を、自然を守りながら有効活用することが求められている時代なのだ。この作品を中心にして全国の青少年の文化教育の場にしていくのだから、と関係機関をなんども説得し、許可を得るようにすすめていますB完成は2年後でしょう。最後に、彼がどんな作品を創ってくれるか、いまから楽しみにしてるんです」。岡村町長の瞳は、イタリアの明るい空の下で、制作に向かっているであろう安田さんのアトリエを思い浮かべているようでした。
問い合わせ先・とうや湖ぐるっと彫刻公園設置委員会
(虻田町教育委員会社会教育課文化振興係〒049-5605 虻田町高砂町44 TEL:0142-76-2102)
洞爺村(16基)
3 輪舞 国松明日香
4 I was…I will(過去…未来) 坂東優
12 風待ち 渡辺幸夫
13 風の音'92 山本正道
14 胞 掛井五郎
21 星との交感 永野光一
22 風景の王国 小田襄
23 Summer 朝倉響子
31 1.1.√2 12の八角台形 田中薫
32 夢洞爺 空充秋
33 波遊 折原久左エ門
43 STONE BOY-KAZE-TOYA 広瀬光
49 月 澄川喜一
50 起源-湖上に向かって 湯村光
56 春遊台 加治晋
57 湖景夢想 眞板雅文
虻田町(23基)
1 回生 安田侃
2 意心帰 安田侃
7 太陽の讃歌 小寺真知子
8 女 笹戸千津子
9 残留応力 丸山隆
10 復活 二部黎
11 月の光 イゴール・ミトライ
17 旅ひとり 峯田義郎
18 湖畔にて 黒川晃彦
19 洞照 雨宮敬子
20 湖渡る風 坂坦道
27 円錐形にえぐられた立方体 堀内正和
28 Sun-Toya 讃洞爺 速水史朗
29 うつろい 宮脇愛子
30 オヨメサントコミチヘ 阿部典英
40 SHOWEN 松本憲宜
41 虹幻想 瀧川嘉子
42 風 山田吉泰
46 地殻・原始の海 岡本敦生
47 SKY~交差する気 常松大純
48 Muse 明地信之
53 ひまわり 佐藤忠良
54 みちしるべ 速水史朗
壮瞥町(18基)
5 風の水面 伊藤隆道
6 啓示 米坂ヒデノリ
15 記念撮影-五月のかたち 峯田敏郎
16 生彩 中江紀弘
24 環-SORA 松隈康夫
25 循環 後藤良二
26 漣舞-リップルス・ダンス 関正司
34 夏~渚へ 神田比呂子
35 冬~星降る夜に 小野寺紀子
36 春~風光る 熊谷紀子
37 秋~終日 秋山知子
38 風とあそぶ 鈴木吾郎
39 薫風 秋山沙走武
44 シグナル 中井延也
45 時空-87-船 石井厚生
51 EARTH VIBRETION とうや 近持イオリ
52 回峰 奥山喜生
55 肖像のある風景 湯川隆
北海道立近代美術館副館長
(とうや湖ぐるっと彫刻公園作家選定評価委員長)
奥岡 茂雄さん
私が、「洞爺湖彫刻公園設置準備委員会」から作家選定評価委員会の重責を委任されたのは、1989年4月の事でした。
選定基準は、全国的・国際的に活躍している作家、あるいは将来性を嘱望される作家50数人を選出しようということでしたから、それは大変なことでした。いま、こうしてほぼ全員の作品の設置を終えてみますと、本当にすばらしい作家がそろったことに感銘を受けます。とくに、その中から札幌彫刻美術館が隔年表彰する本郷新賞受賞作品も生まれるという成果があり、地域の人たちと作家の温かいふれあいのエピソードもたくさん生まれました。
現在、北海道には約1400基の野外彫刻作品が設置されているといわれます。野外彫刻が、雄大な北海道の自然と見事に調和しているのを鑑賞すると、理屈抜きにその美に親しむことができるパブリック・アートなのを実感します。そのため、安田侃さんの出身地である美唄市をはじめ、砂川市、滝川市、あるいは苫小牧市など、各地で野外彫刻でまちおこしをすすめようとする動きが活発です。そんななかで、洞爺湖の彫刻公園事業は模範となるものだといえます。
いまは、心の豊かさが求められる時代です。芸術鑑賞は“心の開発”であり、自分で美を発見する喜びを楽しむことに加えて、いま一つ大切なのは自然の美しさを知り、自然のやさしさに触れ、親しむことだろうと思います。自然の中の彫刻公園は、人間性の回復の場であり、リラクセーション(くつろぎ)の空間としての役割も担っています。洞爺湖畔の彫刻公園で心をひらき、自然が創った風景と、人間の創造物との真ん中に自分を置いてそれぞれに心の交歓をする、自分自身の美意識を溶け込ませてみる。そんな楽しみ方ができるのも、この彫刻公園の個性のひとつでもあります。