研究の仕事が調子に乗ってくると、不謹慎な話だが講義の時間が面倒くさくなって、学生がわずらわしく感ずるものだ。おまけに、講義中に私語が多かったり、代返やカンニングなどやられると頭にきて、女子学生といえども憎ったらしく思う。
しかし、やがて卒業の季節となり、一張羅のスーツ姿で「たいへんお世話になりました!」と挨拶されたり、和服・はかまスタイルで「先生! 好き!好き!」などと黄色い声をかけられたりすると、しらが教授への冗談お世辞とわかっていても、「普段から、もっと優しくしとけばよかった…」と悔いられたりするのである。
卒業生の結婚披露宴に招かれることもある。全国どこへ行っても、披露宴での指定席は、たいてい「松」のテーブルだ。松のテーブルには市長さんや社長さんが並び、時には国会議員の先生が見えることもある。教師というものは、財力や権力がなくても恩師と位置付けされて松の席に座る。このことは悪い気持ちがしない。松の席に座れる清々しい気持ち、まさに教師みょうりに尽きるというものだ。
教師族のささやかな誇りと喜び、これを空しくせせら笑う者もあろうけれども、私は、素直に誇り喜ぶ心根こそ、教師の素晴らしさだと思う。組織された教員族も、ドライに自らを「労働者」呼ばわりするのは、如何なものかと思うのである。
やがて、二世が誕生したと報せがくる。妻は何をお祝いしようかと探索に出かけ、あれこれ思案しているらしいが、私は、何はともあれ「松」クラスの物であってほしいのである。そのうち、赤ん坊の写真入りハガキが届くはずだから、お年玉にも「松」の配慮が必要であろう。
こんなに長く親しい付き合いは、卒業生全員ではないけれど、中央より地方に多く、町より村に多い。年一度の賀状交換だけでも数百通は下らない。一人ひとりの顔を思い出しながら、何日もかかって一言ずつ通信文をかいて、門松の季節に備えるのである。