ウェブマガジン カムイミンタラ

1997年07月号/第81号  [ずいそう]    

カイバラ セイタロウの涙
ゲプハルト ヒールシャー (げぷはると ひーるしゃー ・ 南ドイツ新聞極東特派員)

1997年5月8日、衆院本会議で「アイヌ文化振興法」が成立した時、私は個人的に出会ったあるアイヌの人を思わずにはいられなかった。1994年8月25日、日本外国特派員協会(通称プレスクラブ)のランチにゲストスピーカーとして出席した萱野(かやの)茂(しげる)さんである。萱野さんは、8月8日に社会党参議院議員として、比例リストにより繰り上げ当選が決まったばかりだった。日本の議会に初のアイヌ民族の議員が誕生したわけである。

私自身もちょうどプレスクラブ会長になったばかりで、1945年から続いているクラブにゲストブックが存在しないことを、驚きとともに確認したところだった。戦後50年、このクラブが世界中から迎えた数々の名士のサインが残っていないのは、取り返しのつかない残念なことである。そして、早速、買い求めたゲストブックに、いの一番に署名したのが萱野茂さんで、「アイヌモシリ=北海道から来たアイヌ民族である私 萱野茂」と書いてくれた。日本の先住民族でゲストブックが始まるのは象徴的だ、と思った私はおおいに満足した。

スピーチで萱野さんは、北海道旧土人保護法の下で過ごした幼年時代の屈辱的な思い出を語った。アイヌの狩猟法を認めない法律のため、お父さんは夜中に鮭(さけ)を捕っていたこと。萱野さんが6歳の時、巡査がお父さんを密漁の罪で連行したこと。「セイタロウ行こう」と言われて、お父さんの目に涙が盛り上がり、床に滴(したた)った。少年はそれから2年間、お父さんに会えなかった。

お父さんの姓はカイバラだったが、逮捕を恥じて息子には自分の姉の嫁ぎ先の姓を名乗らせた。新法が成立した日、「安心しました」とTVインタヴューで万感の思いをこめて言った萱野さんには、お父さんの涙がやっと乾くのが見えたかもしれない。

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