国道36号線を千歳空港から苫小牧へむかって十数キロ。苫小牧工業地帯の煙突が遠くに見えはじめるあたり、ふとあおぐと、大型の鳥が4羽、5羽、ゆるやかに空を舞っています。
アオサギです。大きくひろげた翼、長く伸ばした脚、首をS字型にしてくちばしは黄色。ツルとよく見間違えられるといいますが、ツルに次ぐ国内第2の大型鳥です。まだ雪が残る3月上旬にやってきて、秋風が吹きはじめる10月まで棲みついて子育てをしていく渡り鳥です。
「天然記念物なんかにはなっていないけれど、アオサギは、苫小牧にとって、大切な鳥なんですよ」
大空に舞うアオサギの姿を目で追いながらつぶやくのは、紀藤義一さん(苫小牧市立図書館長)です。
工業用地開発が急ピッチですすめられた苫小牧市で、その影響を最も受けているのがアオサギ――つまり、自然環境の変化を、自らの行動で敏感に人間たちに伝えてくれている“指標鳥”だというのです。
紀藤さんは苫小牧郷土文化研究会(郷文研・門脇松次郎会長)の動物部会・部会長です。アオサギの生態調査と、それにうらづけられた保護運動を、この二十数年間、苫小牧市で続けてきたのでした。
苫小牧市明野地区。苫小牧市の中心部から8キロ。建築資材の倉庫やクレーン車の置場などが、空地のままの工業用地の間に点在しています。
その中央を通る道々苫小牧環状線の道路わきに「楼蘭の森」という大きな看板。そこから荒れ地を横切って数100メートルのところにヤチハンノキの森がひろがっています。ここがアオサギたちの集団営巣地(コロニー)なのです。
アオサギが生息するためには、集団で営巣できる森と、旺盛な食欲を小魚、カエルなどで満たす沼と川が必要です。
紀藤さんたちのアオサギ生態調査は、まず、この森からはじまりました。
1959年(昭和34)6月。当時、明野の森は、一番近い道路からでも数キロ奥の、深い湿原の中にありました。
背丈を埋めるヨシ。入り組んだ沼地、水路。
時折、風にのって流れてくるアオサギの鳴き声を頼りに、そのなかを、あえぎながら歩む1人の男。紀藤さんです。ヤチボウズの頭を踏み外して深みにはまると、泥水に頭までつかり、髪の毛までずぶぬれ。
ジャージーにぬいつけた特製のポケットのなかには、油紙でしっかり包んだメモ帳、ナイフ、食料、タバコ…。カメラは、自動車のチューブを切ってつくった袋に納め、水枕用の止め金で口を閉じ、首の後ろにくくりつけ、両手でヨシをかきわけて進むのです。
そして、ようやくたどりついたヤチハンノキ林。頭上8~10メートルには、数十個の巣がかけられていました。枯枝を組みあわせた巣は、直径60センチから大きいのは90センチのものも。どの巣からも若鳥が首をのばし、親鳥を呼んでいました。
はるか大空から餌を運んできた親鳥は、巣の近くまで来ると風にむかって滑空態勢に入り、大きな翼をいっばいにふくらませて、滑るようにそれぞれの巣の端に舞いおりてきます。
アオサギたちの鳴き声は喧噪にみちていました。人間社会から一歩離れた森のなかでの自然のドラマ。そこは、アオサギたちの楽園でした。
このコロニーだけで巣の数70、アオサギ約200羽…。
営巣状況の変化を調べ、スケッチし、写真を撮影する紀藤さんでした。
しかし、紀藤さんの心は複雑でした。なぜなら、ここにいまいるアオサギたちは、かつて湿原の西、緑が丘にあったコロニーを追われ、さらにその後移り住んだ美園地区の青沼周辺も埋め立てられたため、ここ明野の森にきているアオサギと思われたからでした。
紀藤さんが野鳥とかかわるようになったのは、1951年(昭和26)から。ある朝、夜明け前の勇払原野で、シギの大群がいっせいに飛び立つ激しい羽音を聞いた時の感動からでした。
「はじめのうちは、野鳥は、私にとってどちらかというと趣味でした。しかし、開発がすすみ、コロニーを追われていくアオサギの姿をみていると、この鳥たちを守ろう、という使命感のようなものが心の底からわいてきましてねえ…」
苫小牧郷土文化研究会は、1960年(昭和35)5月に結成されました。文化遺産を大切にし、郷土の自然を守ろうと、郷土の歴史の研究、遺跡の発掘、動物・植物の生態調査など、広い分野の活動がはじまりました。そして、動物の分野では、ハクチョウとともにアオサギの調査と保護の運動に取リ組みはじめたのでした。
1963年(昭和38)からは、毎年、多いときには数十人が参加してアオサギ調査をつづけました。
1963年の調査は、ゴムボートを用意し、27人が森の奥深く入って、コロニー3ヶ所、巣の数98個を確認しました。しかし、アオサギの数は、「おびただしい数」と記録されただけ。やっと、1965年の調査で240羽を数えるとができました。調査の体制は強まり、アオサギの森の全容も次第に明らかになってきました。苫小牧市民のアオサギヘの関心も強まってきました。
しかし、アオサギとその巣の数は、調査をすすめるたびに、年々、急速にへりはじめてきます。
その原因は、湿原の埋め立てが明野のコロニーのまぢかにせまり、そこに大きな建物がつくられ、さらに森に流れこむ水路が埋められ、切りかえられていったことにあることは明らかでした。「このままでは、苫小牧のアオサギコロニーは絶滅するのでは…」という状況にあったのでした。
その頃、苫小牧市は臨海工業都市建設のブームにわいていました。
苫小牧工業港の試験工事がはじまったのが1951年(昭和26)。やがて巨大な港をつくるための陸地掘りこみがはじまり、そこからでる大量の土砂をつかって苫小牧市郊外の広大な湿原を埋め立てて住宅地、工業用地を造成する工事がはじまります。
1961年(昭和36)には美園地区、翌年からは明野地区へと埋め立てはすすみます。そして、工事はアオサギコロニーへとちかづき、1966年(昭和41)には、ついに3ヶ所あったコロニーのうちの1つを埋没、翌年にはもう1ヶ所のコロニーをアオサギが放棄してしまいます。紀藤さんは、ちょうどそのころは業務が多忙で、アオサギ調査からはなれていたときでした。
ある日、ダンプカーの運転手さんが駆けこんできました。
「紀藤さん、たいへんだ。おれたちは仕事でやっているけれど、このままじゃアオサギの巣は全部なくなってしまう」
大急ぎで森に駆けつけてみると、ブルドーザーが森を押しつぶし、ダンプカーが湿原を埋め立てていました。
「開発が進んでいることは知っていましたが、まさか、あそこまで埋め立てられるとは考えてもいなかったのですよ」
最後に1つ残ったコロニーもすぐ下まで埋め立てられ、かつてのアオサギの楽園はまるで裸になったようでした。
「怒りよりも哀しさでしたよ。それに、巣のすぐ下まで下駄ばきでいけるようになったことに、怖れを感じましたね」
アオサギの森に豊かな水と餌を供給していた勇振川は工業用水取水のための切り替え工事が行なわれ、大学演習林から流れ出ていた川や幹線排水路も埋められて、森の水は流れを失い、腐り、餌場は死滅していったのでした。ヤチハンノキにも枯れがみえはじめました。
森は湿原埋め立てと河川切り替えというダブルパンチをうけていたのでした。
郷文研は苫小牧市と苫小牧港開発株式会社にむけて、埋め立て中止を求める運動をはじめました。
門脇松次郎会長が、当時、港開発株式会社の社長であった故篠田弘作氏にかけあったところ、篠田氏は趣旨を理解し「アオサギが1羽でもいるうちは、森を必ず残す」と約束。埋め立てを中止して、35ヘクタール余のその土地を無償で郷文研に貸与してくれました。ここはのちに「桜蘭の森」と名づけられます。
「いやあ、うれしかった。皆で港開発株式会社から郷文研へ来た文書を青焼きコピーして、それぞれが今でも大切に保存していますよ」これまでの地道な調査と運動が実を結びはじめたのでした。
港開発株式会社は、周辺に柵を設け、夜間に近くの道路を通る自動車のライトを防ぐため道路に沿って土手を築いてもくれました。でも、アオサギの巣の数は20数個に減り、かつては1,000羽をはるかにこえていたというアオサギの飛来数も、わずか2~30羽となってしまいます。
しかし、活動は衰えませんでした。1972年(昭和47)に結成された自然保護協会は、アオサギコロニーの本格的な保護にのりだします。
堤防を1ヶ所開いて水を森の中にひきいれ、ヤチハンノキの保護と餌場の復活を目指しました。苫小牧市もドジョウを10万匹放流したほか、保護対策に力を入れました。失なわれた自然の復元を、人間がどれほどなしうるかの実験がはじまったのです。
そして、アオサギは1975年(昭和51)からふえはじめました。前年の飛来数が28羽だったのが、この年には一挙に40羽がやってきました。その翌年には54羽になり、昨年(1984)は43羽が飛来しました。
アオサギコロニーの絶滅は、からくも、ひとまず歯どめがかかったのです。しかし、ヤチハンノキの老化は進んでいます。強い風がふくと倒れる木が多くなり、アオサギが営巣するのに程よい高さの木も少なくなりました。自然がうけた傷は思いのほか深かったのです。
森にアオサギたちが安心してコロニーをつくれるようになるには、湿原そのものの復活と湿原樹林の再生が求められているのです。
門脇さんはいいます。
「鳥は空から環境を見ている。人間は地上から見ている。彼等のほうが敏感に環境の変化を感じとれるのだ」
紀藤さんもいいます。
「アオサギばかりでなく、鳥は、大自然の生命を深く内包している」
「アオサギは、この30年間、私に郷土の自然の変化を教えてくれた。鳥が棲めない郷土は、やがて人間も住めなくなる。私たちはアオサギの森から学んで、郷土の自然を守りつづけていきたい。そうするならば、アオサギが苫小牧から消えさることは決してないと考えたい」
1981年(昭和56)、明野から東北5キロのところにあるウトナイ湖に、日本最初の野鳥の聖域「バード・サンクチュアリー」が誕生しました。
これまで、冬は北海道にいないとされていたアオサギが、苫小牧で一部が越冬していることもわかりました。
アオサギの森を守る運動からはじまった流れは、苫小牧の鳥と自然と人間のかかわりを、いっそう深く結びつけようとしています。
アオサギの営巣地として知られているのは、女満別、釧路の原野、広島町の北の里、野幌自然保養林、それに苫小牧明野と厚真、新冠。
体はサギの中ではもっとも大きく、翼長は42~47センチ。両翼を広げると、1メートルをこえます。
姿は頭から胸までが純白で、目の後方から黒い線がのびて後ろで合流し、サギの特徴である羽冠が雌雄の両方にあって、識別しにくいようです。くちばしが黄色、背中は灰色、羽の風切などが青黒い色をしており、ここからアオサギと呼ばれるようになったようです。
アオサギの特徴は、首をS字に曲げたまま飛ぶことと、樹上に枯れ枝などで巣をつくってコロニー(集団営巣地)を形成すること。巣はカツラやセン、ナラなどの広葉樹やトドマツなどの樹上につくりますが、明野ではヤチハンノキが選ばれ、古いものを補修して使うことが多いようです。エサはドジョウやカエル、虫など。
3月上旬ごろにマレー半島や中国南部あたりから帰って来て、4月上旬にはその年に飛来する全羽がそろいます。つがいが決まり、巣の補修が終わると、間もなく抱卵が始まります。卵の数は平均4個、25日間くらい雌雄交互に抱いてふ化させ、5月上旬にはヒナが顔を見せるようになります。それから約2ヵ月間、引き続き夫婦でエサを運び、幼鳥が巣立ちするのは7月上旬です。南への渡りは8月末ころから群れをつくって始まり、10月にはほとんど姿を消してしまいます。
中国・敦煌からさらに西、タクラマカン砂漠の東端に“さまよえる湖”と呼ばれるロプ・ノール湖があります。そのほとりに、古代、楼蘭という王国が栄えていました。紀元前77年には、匈奴と漢の2大強国に滅ぼされて歴史から姿を消してしまいますが、シルクロードの要地に城郭を築き、1万4千余の人口を有する、この時代としてはかなりの大国だったようです。
1980年、幻の王国を訪ねあてたNHKシルクロード取材班は、その遺跡の中から1体の女性のミイラを発掘します。目鼻だちもさほど乱れておらず、心なしか憂いをおびた寝姿に気品のあふれたその女性を、彼らは“湖畔の麗人”と名づけました。よく見ると、その麗人の髪には2本のアオサギの羽根がさしてありました。
そして、彼らはロシアの探検家プルジェルバルスキーが報告した「結婚式の前夜、新郎は新婦にキツネの皮2枚、パンまたは小麦粉若干、それに灰色のアオサギの羽根1束を夫婦のちぎりの印として贈ることになっている」という文書を見つけるのです。この発見の記録は、まもなくNHK総合テレビで全国に放映され、それに感動したのが苫小牧市でアオサギを守り続けてきた門脇松次郎さん(苫小牧郷土文化研究会会長)でした。さっそく苫小牧・明野にただ1つ残されたアオサギコロニーの森に、その名がつけられたのでした。
サンクチュアリとは、「野生生物が安全に生息できるように確保され保護されている地域」という意味です。
ウトナイ湖バード・サンクチュアリでこれまでに確認された野鳥は240種以上(これは、1地域としては日本一です)。日本にいる野鳥・500種の半数近くを観察できるという野鳥の宝庫です。
このように野鳥の種類が多いのは、1つは、日本でも指折りの渡り鳥の中継地になっているからです。冬鳥が北上する春(3月~4月)と、夏鳥にかわって冬鳥が帰ってくる秋(10月~11月)には、数千羽のマガン、ヒシクイなどが湖面で翼を休め、群れとなって大空の彼方に消えていきます。
水面、草地、疎林と多様な環境に恵まれていることも多種類の鳥が住みつく大きな要因になっています。オオワシ、オジロワシ、マガン、ヒシクイという天然記念物に指定されている鳥を4種類も見ることができるのも魅力です。
湖面をみわたせるネイチャー・センターには双眼鏡や望遠鏡が備えつけてあるほかウトナイ湖の自然にかんする展示や図書、資料、映画、スライドも利用できます。
常駐しているレンジャーとボランティアの人たちが親切に質問に応えてくれます。
林のなかをたどる自然観察道路や湿原のすぐそばにたつ観察小屋で、身近に草原の鳥や草花とふれあえます。
オープンして4年、すでに10万人が訪れるなど、多くの人々に親しまれています。
開館時間 午前9時~午後5時
閉館日 毎週火・水曜日(祝日を除く)N末年始は12月26日~1月1日
〒 059-1365 北海道苫小牧市植苗150の3
電話 (0144)58-2505