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1985年05月号/第8号  [ずいそう]    

黒岳をめぐって――ある老人の追想
佐々 保雄 (ささ やすお ・ 日本山岳会会長)

黒岳には思い出が少なくない。初めて登ったのは、1924年(大正13)の夏だった。当時17歳、61年も前のことである。

中字校(旧制札幌一中)の校歌に「ヌタクカムウシュペ峰高く」とあって、どんな山だろうと憧れていたし、旭川中学の小泉秀雄先生の登山記や前の年に『中央公論』に載った大町桂月の大雪山紀行の書き出し「富士山に登って山の高さを語れ。大雪山に登って山の大いさを語れ」の言葉に惹(ひ)かれてであった。中学同窓の北大生・鴨下克己、ともに仙台の二高に入った山田俊雄が同行であった。2人とも今は逝いて、いない。

そのころ、層雲峡には塩谷温泉しかなかった。翌年には荒井温泉となったが、まだ堀立小屋で、湯ぶねには熊や鹿がのぞくという話であった。流しには、青大将がとぐろを巻いていた。そこから大雪山を仰ぐと、黒岳が谷奥に聳(そび)えて見える。左は火山らしい斜面だが、右は切り立った断崖。岩壁が黒々としていて、なるほど「黒岳」だ。

以前は、右手に食い込んでいる黒岳沢沿いに登ったらしいが、その当時は黒岳に石室をつくるため、今の尾根にか細い踏み跡がつけられていた。そこをたどると、いつも頂は目の上にありながら、なかなか行きつけなかった。樹林帯をぬけると、草本帯は花盛りであった。以前に登ったマッカリヌプリ(蝦夷富士)とは比べものにならぬ美しさであった。

小半日かかって、ようやく頂上。今はロープウェーやリフトで七合目くらいまで、あと1時間で頂と、登るのには容易になった。どの山もそんなに便利になり過ぎるのは感心しないが、だれもが山の美しさを知り、同時にその清らかさをいつまでも、との心持ちを抱くのはよいことだ。黒岳の標高は、去年の年号と同じ1984メートル、それにちなんで多くの人が登ったが、ご来光の美しさはいつまでも忘れ得ぬことであろう。

初めての黒岳からの展望には、息をのんだ。中央高地の名にふさわしい山々の連なりもさることながら、眼下、大樹林におおわれて、その流れも定かでない石狩川の広大な水源地帯には、いたく惹きつけられた。いつかそこへ、との願いが実現したのは、その3年後、大学に入った年であった。芽室のアイヌ人・水本新吉がポーターであった。彼もすでに故人だ。

黒岳の小屋は、その前年にできたばかりであった。小屋番は大久保の親父。痛快な男で、百姓、木樵、砂金堀り、猟師、漁夫、鍛治屋といろいろやった挙げ句「こわくなった(疲れてしまった)ので」ここに収まったとのことであった。法華衆で、朝な夕な、太鼓を叩いてお経をながながと唱えるのには閉口した。

ここから南の、十勝と日高の国境には高い山が連なっていて―今の日高山脈のこと―その一番高い山には大きな沼のたくさんある広っ原があり、あたりは一面お花畠、まるで公園みたいだ。だが、沼の水を“かんます”(かき回す)と、突然嵐になるとか。そこを見て、帰った者はいないとアイヌは言っている。それは嘘(うそ)だ。いつもオヤジ(熊)がたくさんいて、じゃれ遊んでいる。

「天国とは、ああいう所だ。お前たちも、ぜひ行って見ろ」という。今の幌尻岳の七ツ沼カールのことだ。それから10年後にそこを訪れたが、ほら話の多い親父の話も、それは本当であった。北海道で私のもっとも好きな所の1つとなっている。

親父は「冬に里に下りて作ったから」と、山刀をひと振り送ってくれた。しばらくは山行の折、鉈(なた)代わりに使っていたが、やがて薪割り用になってしまった。

私たちを大雪山へと誘った桂月の一文、前節に引いたのはその冒頭の句で、のちに有名になったが、

「余は大雪山に登って、先づ頂上の偉大なるに驚き、次に高山植物の豊富なるに驚きぬ。大雪山は真に天上の神苑也」とも記している。それは、あながち誇張ではない。

一山で、5万分の1地形図の2枚にまたがる大きな山座である。新しい火山で、山上の大噴火口をとり巻いて、2千メートル内外の多くの側火山を聳えさせている。いわゆるアルプス的な神々しさはないが、その代わり火山特有の斜面は極めてスキー的だ。

冬の黒岳は、北大のスキー部をつくった加納一郎、板倉勝宜、板橋敬一の3人によって、1922年(大正11)に初めて登られた。加納はのちに健康を害して登山からは離れたが、探検啓蒙家として多くの学生を惹きつけた。日本の南極隊の初期の連中には、彼の息のかかった者が多い。板倉は、アイガーの東山稜を初登して著名な槙有恒氏とともに日本最初の海外遠征、カナダのアルバータに初登した三田幸夫らと3人でのちに冬の立山に入り、帰途、疲労の果て逝くなった。当時、唯一の登山スキー雑誌『山とスキー』は加納が編集し、板倉も冬山登山についていくつか寄稿している。のちに穂高で逝くなった慶応大学の大島亮吉はもっとも熱心な寄稿家で、雪崩の研究や登山者列伝は好評を博した記事であった。

スキーと言えば、昨年の5月、旭岳からスキーで縦走して黒岳を下った。新式のスキーや靴が足になじまず閉口したが、快晴に恵まれた愉しい山行であった。日本山岳会の老人たちに、13時間のアルバイトは身にこたえたが。

大町桂月は、今は知る人も少ないであろうが、明治から大正にかけては文豪ともいわれた人物で、日本各地の山河を訪れては名調子の紀行文を次々にものして、天下の人士を魅了した。大雪山には1921年(大正10)に、そのころ名案内として知られた成田嘉助を連れて登っている。その折の紀行が私たちの眼にふれたわけである。層雲峡やそこの滝や岩の名も彼が名付け親だという。晩年、十和田、奥入瀬をもっとも愛し、その墓は蔦温泉に在る。

大雪山の大きさとともに、特徴である高山植物となると、小泉秀雄の名は欠かせない。大雪山の研究に心血をそそぎ、日本山岳会の『山岳』に寄せた大雪山の記事は、その精細な記述でみんなを感嘆させた。大雪山中の山名も彼の名付けたものが多い。大雪山が高山植物の豊富なことを世に知らせたのも先生で、新種もかなり発見しているが、日本での常として、本流でないために学界では正当に受け入れられなかった。

先生とは一度、1932年(昭和7)、根室でお目にかかっている。北千島の採集旅行からの帰途で、私は国後島のチャチャヌプリから下りて来たところであった。小兵ではあったが、ガッチリした体躯、日焼けの顔に白い歯がのぞき、私などの若輩に対しても鄭重な話しぶりで恐縮したこと。「占守島は天国みたいでした」といわれて、同感。自分の庭をほめられたように、うれしい気がしたことを覚えている。

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