北海道立近代美術館(〒060札幌市中央区北1条西17丁目 TEL:011‐644‐6881)が、緑に囲まれた知事公館の西隣にオープンしたのは1977年(昭和52)7月のことでした。地上3階地下1階、外壁は還元白磁タイル張りで、一見、合掌造りを思わせる建物は、太田実北海道大学名誉教授の設計。19,450平方メートルと広い敷地には、樹木と芝生の緑とのコントラストが楽しい大小のモビール(動く彫刻)が配置され、待ち望んでいた本格的な美術館の開館をよろこんだものでした。
さらに、感動を呼んだのは、岩橋英遠、片岡球子、山口蓬春、中村善策、上野山清貢、木田金次郎、神田日勝、その他多彩な北海道ゆかりの作家の層の厚さと作品の力強さ。エミール・ガレをはじめとした近代ガラス工芸品の神秘で幻想的な美しさでした。そして、初めて聞くジュル・パスキンの名と、20世紀初頭のさまざまな絵画傾向の萌芽を読み取ることができるようなエコール・ド・パリの作品群に接し、そこにはピカソやシャガール、モジリアーニ、ローランサンなどがかわっていたことを知った人も多かったものでした。
それから20年。今年7月5日に同館講堂で開催された記念式典のあいさつでは、南原一晴館長(北海道教育長兼務)が20年の歩みを感慨深く述べていました。
式典のあとは、開館20周年記念特別展のマヌーギアン・コレクション「わが心のアメリカ絵画展」のオープニング・セレモニーがおこなわれ、アメリカ・デトロイト市からマヌーギアン氏も駆けつけて、あいさつ。つづいて特別観覧、祝賀パーティが盛大に開かれていました。
この特別展は、西部開拓を背景に大きな発展期を迎えていた19世紀のアメリカの自然と人びとの生活をあたたかく描いたハドソン・リヴァー派の画家たちと、20世紀初頭の印象派が出現するまでの秀作を8月17日まで展示し、多くの観覧者を集めていました。
開館20周年記念特別展は、8月23日から「日本の美・雅(みやび)の世界」に展示替えされました。これは国立の博物館の所蔵品から国宝、重要文化財を含む140点が出展されているものです。この特別展の一環として、9月6日午後1時からは記念シンポジウム「日本の服飾の美を考える」も開催されます。そのあと、10月1日からは「ガラスの新世紀-世界20作家の挑戦」、11月22日からは「北海道立近代美術館コレクションの精華」を12月14日まで開催して、一連の記念特別展の幕を閉じることになっています。
北海道立近代美術館の20年の成果について、「第一には、当時、北海道教育庁の文化振興室長だった工藤欣彌(きんや)さんが、美術館づくりのエキスパートだった倉田公裕(きみひろ)さんを準備室のキャップに招き、新美術館の理念をきちっと定めたことです」と奥岡茂雄副館長は語ります。
「新美術館建設準備室が73年1月に設置され、武田厚さん(現横浜美術館学芸部長)が学芸員として2月から勤務。倉田さん、笹野尚明(たかあき)さん(札幌芸術の森美術館館長)、鈴木正實さん(北海道立近代美術館学芸部長)が私とともに学芸員として4月1日に発令されました。つまり、私たちは倉田学校に入学したようなものでした。倉田さんは、北海道らしい美術館、そして地域性と国際性を重視した本格的な美術館をつくるという考えを強調していました。いまなら必ずしも珍しいとはいえない理念ですが、“ひらかれた美術館、行動する美術館、知的レジャーセンターとしての美術館”を柱にして、積極的に地域に出向いていこう、世界にひらかれたダイナミックな美術館活動をしようと、フロンティア・スピリットのようなロマン派的な感じで私たち学芸員を指導してくれたものです」。
倉田さんは当時、山種美術館の学芸部長でしたが、当時、本州の人に辺境の地のように思われていた北海道に出稼ぎ感覚でやって来たのではなく、腰を据えて美術館づくりに打ち込んでいたのです。
「準備室が発足した半年後オイルショックに遭遇し、建設計画が1年延期されることになりました。私たちは残念がっていたのですが、その分、十分に勉強ができるのだから幸せだと思わなければだめだよ、と倉田さんに諭(さと)されたものです」と奥岡さん。
倉田さんは明治大学教授となった78年に館長に就任。86年に退任するまで、13年間も北海道立近代美術館の経営に情熱を注いだ人でした。
「コレクション収集方針のひとつ、北海道ゆかりの作家の作品は、前北海道立美術館時代に物故作家の遺族からの寄贈をかなり受けており、その蓄積から北海道の美術史を知ることのできる作品は予期以上に集めることができました。ガラス工芸については、半年間雪と氷に閉ざされる北海道の風土にガラスの透明感と神秘的・幻想的な雰囲気がぴったりとマッチすることに着目したのです。ガラス工芸は世界的にも先行する美術館がなかったので、比較的少ない予算で優れたコレクションを収集することができました。また、私たちは開館5周年記念の時から3年ごとのトリエンナーレ方式で国際ガラスコンクール(指名コンペ)を5回にわたって開催してきた実績もあり、いま、当美術館が海外で知られているのは、このガラス工芸のコレクションによってです」。
ガラス工芸は、北海道立近代美術館がコレクションをはじめてからその価値が評価され、現在はかなり値段が高くなっているとのこと。また、東京など全国でガラス工芸に打ち込んでいる作家は、自分の作品が北海道立近代美術館のコレクションに加わることを目標にしているともいわれます。
「パスキンとエコール・ド・パリのコレクションは偶然の出会いが出発点ですが、この画家たちが活躍していた1920~30年ごろは、ちょうど北海道の美術がひとり立ちした時代でもありました。そのころに北海道からパリまで行って勉強した作家が何人かいて、なんらかの刺激を受けて帰ってきたということがありました。つまり、エコール・ド・パリは北海道の美術の青春期につながる位置づけなのです。そこに着目して収集したことで、パスキンのコレクションは世界一です」と奥岡さんは誇ります。
「学芸員の重要な仕事のひとつに収集活動があります。初期のころ、北海道の美術を収集しているときは、よく刑事のようだといわれました。古い時代のものを探すのですから、聞き込みというか、いろんな手づるを頼って紹介していただく。その時代のことはあの人がくわしいと聞けば、そこへ訪ねて行く。時には推理の勘もはたらかせます。ガラス工芸やエコール・ド・パリの作品は北海道にはないので、アンテナを張りめぐらせて情報を得るわけです。私たちが求めようとしたものは、いずれもあまり資料がなかったので、自分たちで調査研究しながら作品を収集する。やはり、みずから汗をかかなければ出会いもないというのを実感しました」と、当時をふり返ります。
そのようにして収集したコレクションは現在、約3,200点に達しています。そのうち、パスキンとエコール・ド・パリの作品271点、ガラス美術品853点、北海道の美術1,362点、そのほか日本の美術、版画など704点です。準備室時代から数えて25年間に投じた購入費は26億円を超えました。ほぼ、年間1億円の予算です。この予算額はけっして多いとはいえません。しかも、この予算枠は25年前から変わらず維持されているところが公費予算らしいところといわれています。
それでも、93年にシャガールの大作「パリの空に花」(148×140センチ)を約3億5千万円で購入しました。そのため、しばらくは節約しながらのコレクションがつづきそうです。
現在、北海道立近代美術館には奥岡副館長を含めて14人の学芸員がいます。北海道には旭川、函館、帯広に道立美術館があり、それぞれに3人の学芸員が配属されています。本庁の文化課にも1人いますので、美術館学芸員の総定員は26人。このうち女性は9人です。これからは女性学芸員の比率が増しそうです。学芸員は、専門職員あるいは研究職員に位置づけられています。仕事の基本は調査・研究であり、それに沿って美術館活動がすすめられます。しかし、さまざまな資料収集から展覧会の企画・準備、さらに講座や講演会の開催もあり、その講師を務めるための原稿書きもしなければなりません。1人しかいない美術館では、入場券のモギリもします。ですから、以前は“雑芸員”と、からかわれたこともありました。
しかし、専門職としての高い知識や情報は絶えず取得しなければなりません。そこで、北海道立近代美術館が世話役になって道立の美術館をはじめ道内の美術館の学芸員を対象にした研修を毎年開き、それぞれの館の交流のネットワークづくりに役立てています。
美術館の活動が活発になるほど、学芸員は多忙になります。近年、それをサポートするボランティア活動が大きな成果をあげています。
社団@人・北海道美術館協力会(武井正直会長=札幌市中央区北2条西17丁目、事務局長・納谷信二さん)は、北海道立近代美術館の開館と同時に結成し、79年8月に社団法人の許可を得ました。美術館の支援団体で法人組織として事業を進めているのは、国内でこの会だけだといわれます。
その会の発足当初から理事として事業の推進をリードしてきた1人が、札幌市中央区で法律事務所をひらいている和田壬三(じんぞう)さんです。
「最初は、自分たちはとても観ることのできないような海外の絵や国内の優れた絵をみんなで力を合わせて購入し、それを美術館に寄贈すれば、好きな絵をいつでも観ることができるではないか―、それが本音の目的で発足したのです。もちろん、それ以外にもボランティアとしてさまざまな美術館活動に協力ができる。それをきちんと法人格を持った組織の事業としてやっていこうではないか、そんなことで会員を募集したのです。当時、道民の人口は500万人でしたから、その5パーセントの人に入会してもらうと2万5千人。一口年間1万円の会費なら、半分は事業費に、残る半分でなんとかよい絵が買えるだろう、という皮算用でした。実際には、現在、会員は個人・法人合わせて約1,450人。まあ、当初の目標の16分の1というところでしょうか」と笑います。しかし、毎年1万円ずつ会費を納めて、美術館活動をさまざまに支援している1,500人は、少ないというよりもたいへん尊い人の数だと和田さんは評価しています。その証拠に、会員のみなさんの熱意が結集され、開館15周年の時に「北海道に名画を贈る道民の会」の名で、マリー・ローランサンの油彩「三人の娘」(61×49.8センチ)の寄贈を果たしたのです。
この協力会は、もうひとつ、ボランティアのみなさんによる美術館活動への協力活動があります。現在のボランティアは、170人を超えています。しかし、単に大勢のボランティアを募集してこの数になっているのではないのです。ボランティア活動員は、1年間の美術講座を受講したうえで事業活動に参加しています。
図録や美術図書、美術品のミニチュアなどを販売する売店部員。来館者に作品の解説をする解説部員。スライドやテープ、図書や新聞の切り抜きなど膨大な資料を整理する資料部員。会報などの広報誌や事業案内のチラシの作成などをする広報部員。そして、海外・国内美術研修旅行を企画していく事業部員の活動があります。
「これがたいへんな人気事業です。とくに毎年秋に実行する海外美術研修旅行は、9泊10日という大きなツアーですが、いつも参加希望が殺到します。公平を期すために電話だけで受け付けるのですが、1クルー30人の定員がすぐ満杯になってしまいます。企画している私自身、まだ1度も参加できないでいるくらいです」と和田さん。
最近、新しくできた部門に特別活動部があります。ボランティア活動員のひとり、亀廼井(かめのい)偉慧子(いえこ)さんは「長い療養生活で美術館に来ることのできない人が多い病院や、お年寄りの施設、公民館活動やPTAなど各種サークルの研修活動に希望があれは美術館の所蔵品のスライドやテープなどをそろえて出向いていく活動です。奥岡副館長がおっしゃる“ひらかれた美術館・行動する美術館”の活動にもマッチする活動です。全国でも初めてとのことで、今後の活動がたいへん期待されています」と話しています。
この協力会は先ごろ愛称を全国に募集して、372点の応募の中から『アルテピア』に決定しました。イタリア語で芸術・美術を意味する「アルテ」と、架け橋・友人を意味する「ピア」を組み合わせた造語ですが、新たなネーミングのもとに、さらなる活動を期しています。
「こちらも20周年を迎えた協力会の当面の目標は、やはり入会のお誘いです。私たちは会員1万人を目標にしています、と呼びかけていますが、とりあえずは2千人を達成しよう。そして、その2千人が1人ずつ勧誘すると4千人になります。そんなネズミ講方式でもよいから、みんなで頑張って、また自分たちがいつでも観たい大好きな絵を美術館に贈りたいと思っているのです」と、和田さんは、意気軒高です。
「美術館は社会教育機関なのです。いま、心の時代とか、文化・芸術による癒しの時代といわれています。ゆとりとくつろぎを合体させた“ゆとろぎ”という言葉をつかってみましたが、美術館を、リラクセーションの場、人間回復の場にしたいと思ってます。そのことも含めて、私は、美術館を地域性の発見と文化の創造・発信の場に。そして一輪文化を草の根文化に広げていく拠点にしたいと思っています」。
「近年、地域のイメージを高め、地域のステータス・シンボルになって、国際化、活性化にひと役かっている美術館が北海道にも増えてきました。私たちは“地域にひらかれた美術館”であることを目標にして、今後も活動をつづけていきます。それは、地域とともにある美術館、地域の人びととともにある美術館でなければならないと思っているからです」と、一気に話す奥岡さんです。
美術館は、それをとり巻く社会の文化性に深くかかわって成長するといわれます。この美術館の21年目からの発展は、さらに内容を高め、活動の幅を広げていくことが期待されています。
前札幌芸術の森美術館長
工藤 欣彌さん
北海道に初めての美術館が設置されたのは1967年(昭和42)のことです。北海道出身の夭折(ようせつ)の画家・三岸好太郎の遺作220点が節子夫人から寄贈されたのを契機に、現在の北海道庁文書館別館に開館したもので、私は初代館長に任命されました。
その後、日本は高度経済成長の波に乗って文化行政の振興が潮流となり、北海道でもいっそう充実した新美術館建設の機運が高まりました
そうした時代の要請を受けて、北海道教育庁は71年に文化振興室を新設し、私は再び本庁に戻って文化振興室長、さらに文化課長に就任し、新美術館建設の計画をすすめることになったのです。早速、調査報告書を作成。翌年には建設場所が現在地に決定して、73年1月にいよいよ新美術館建設準備室を設置することになりました。その準備室長に東京から倉田公裕さんを招聘(しょうへい)しました。倉田さんはサントリー美術館設立に参画し、当時は山種美術館の学芸部長であり、美術館経営についてはわが国第1級の学芸員でした。
美術館は「ひと・もの・かね」に恵まれることで、よい活動ができるものです。「ひと」とは学芸委員のことで、いかに優秀な学芸員を確保するかが重要です。特に活動の中心になるトップに人材を得ることがポイントになりますが、倉田さんは優れた見識を持った人でした。次は、倉田さんの手足になって活動してくれる学芸員を確保しなければなりません。しかし、当時は学芸員に対する認識が低く、北海道には美術学芸員を養成する機関もありませんでした。したがって本州から経験者をスカウトするほかありません。しかし、当時の北海道は左遷先の代名詞のようにいわれており、とても応じてくれません。結局新規卒業者を募集し、倉田さんが教育しながら仕事をしてもらうことになりました。
「もの」とは、美術館では収蔵作品のことです。ヨーロッパの美術館がすごいのは、収蔵作品の質と量がケタ違いに優れているからです。それは長い歴史の中から自然に集積されたもので、急に集めようとしても集まるものではありません。そこで、倉田さんは収集にあたって、(1)北海道の流れを知ることのできる作品(2)北海道の美術は日本全体の美術とのかかわりにおいて成立するので、日本の美術も集める(3)日本の美術は世界の美術につながるので世界の優れた作品を集める、という3本の柱を立て、乏しい公費予算の中で収集に努めました。そんななかで、倉田さんが比較的少ない金額で収集できるガラス工芸品のコレクションをはじめたのは、非常に先見の明があったと思います。
もう一つの目玉コレクションとして、エコール・ド・パリをリードした画家であるジュル・パスキンがあります。作品の収集は、多分に偶然性に支配されます。パスキンも偶然の出会いでしたが、どの国でもそれほど注目していなかったパスキンを「おもしろい」と判断できたのはベテラン学芸員の力だと思います。
「かね」とは予算のことです。美術館は優れた美術品を数多く収蔵し、その一部を展示して観てもらうのが本来の姿です。しかし、日本の場合は展覧会の企画に力を入れないと良い美術館活動ができないと思います。その企画をすすめるには、お金が必要です。美術館の教育普及活動、学芸員の調査研究活動にもお金がかかります。そうした苦労を一つずつ乗り越えながら、北海道立近代美術館は2年の歴史を築いてきたのです。
ふり返ると、年月とはすごいものだと思います。集会のあいさつなどで「北海道には美術館が一つもない」と嘆いていた一時期がありました。現在は美術館と名のつくものが60館もあるということです。道立近代美術館は今以上にネットワークを広げ、全道美術館の中核としての機能をいっそう高めて北海道の美術文化の振興に務めてほしいと思います。
また道民のみなさんも、美術館は自分達の文化資源であるという考えに立ち、日常生活の一部として気軽に美術館活動に参加し、知的レジャーを楽しんでほしいものだと思っています。