ウェブマガジン カムイミンタラ

1997年11月号/第83号  [ずいそう]    

トキワ荘のひととき―手塚治虫先生にお会いした日―
鈴木 重安 (すずき しげやす ・ 札幌市中央図書館 司書)

1954年4月のある日、大学生の私は東京・豊島区椎名町の一隅に建つトキワ荘というアパートの玄関先にたたずんでいた。

階段を降りて来る足音、あっ、ベレー帽に太縁の眼鏡、本で見た似顔絵どおりの顔、憧れの手塚治虫先生が目の前にいる。
「やあやあ、鈴木ジュウアンさん、いつも手紙ありがとうー」

戦後の大阪で、これまで日本に存在しなかった画風とストーリー性を備えたマンガ単行本を数多く出し、文化に飢えた子供たちの心をいち早くとらえた彼が、東京の児童雑誌に進出した。その住まいがトキワ荘、のちに寺田ヒロオ、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らもここに住んだ。

高校時代に先生の作品と出会い、むさぼり読み、のめり込んでいった私。幾たびか差し上げたファンレターに、肉筆で『ジャングル大帝』などのキャラクターを添えてお返事を下さった先生。そのお方が、いま私に手を差し伸べて下さる。その手は大きく、厚ぼったく、そして温かだった。

案内されるまま、恐る恐る仕事部屋へ。6畳間に座り机が一脚、上には電気スタンド、筆、ペン、墨汁のビンなどなど、周りには参考書や描きかけの原稿を所狭しと散らかした中に座る先生。

執筆中の作は『ぼくの孫悟空』。せわしくペンを入れながらも、『アトム大使』制作の苦心談や、次に企画中の『火の鳥』の構想などを楽しそうに語って下さる。かねて敬愛する先生の傍らに座り、「時よ、止まれ!」と念じたい私だった。

その日は遠い過去となった。先生が終始多忙だった中で、私は折に触れてお訪ねし、お話しし、親しくお交わりいただいた。

敗戦の焼け跡に立ち、「さあ、これからマンガが描けるぞ!」と心に叫んだ若き日の先生を想う。日本は戦争により多くを失った。しかし、敗戦によって2つのものを得た。それは「平和憲法」と「手塚マンガ」である。私たちはこれから2つの宝を後世に伝える義務を、歴史から委託されたのだと強く信じたい。

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