ウェブマガジン カムイミンタラ

1998年03月号/第85号  [ずいそう]    

学友・葉 盛吉
斎藤 元護 (さいとう げんご ・ (株)まるいち社長)

その学友は台湾名を葉(ヨウ)盛吉(セイキチ)、日本名を葉山達雄といった。私の生涯において、深く心に残る学友のひとりである。

1943年(昭和18)4月、当時16歳の私は希望に燃えて仙台に赴き、旧制第二高等学校に入学した。葉くんは理科6組、私は理科5組、生活の場も彼が明善寮の一寮、私は二寮と別々ではあったが、1日24時間、ふたりは二高生になりきるよう鍛えられる仲間となった。

葉くんは学業優秀な生徒だった。2年生になった翌年には、当時240人の自治寮だった明善寮の総務幹事に推され、堂々とその役割を果たしながらも、1945年4月、東京帝国大学医学部医学科に進学した。私も、同じ学部の薬学科に進学した。敗戦間近な東京であったから、彼とはともに空襲と食糧不足の数カ月を過ごしたことになる。しかし、入学以来、私は彼の姿を見ることがなかった。医学科の友人に聞いてもよく知らないようで、彼はなかなか登校できなかったようである。

出会いから7年半ののち、葉くんが27歳で銃殺刑に処せられたのを私が知ったのは、ずっとあとのことである。

1989年(平成元)ころ、やはり台湾出身で二高時代の同級生だった楊(イュー)威理(ウィリ)(日本名・中目威博)くんによって、私は葉盛吉くんの生きざまと死にざまを詳しく知ることができた。葉くんの日記と手記25冊は、彼の死から40年を経て、その息子・葉光毅氏のもとに大切に保管されていた。それらをもとに、葉くんのことが世に紹介されたのである。すなわち、『ある台湾知識人の悲劇―中国と日本のはざまで―葉盛吉伝』(楊威理著・岩波書店刊・同時代ライブラリー)と、『父から子への手紙』(NHK教育テレビ・1994年9月)、そして『街道をゆく(40)葉盛吉・伝』(司馬遼太郎著・朝日新聞社刊)その他である。

その後の葉くんは、1946年春に東京帝国大学を退学し、台湾大学医学部に入学して医師となっていた。戦中戦後の厳しい時代、2つの故郷をもった彼が民族問題、人生問題に悩んでいたことを思うと、心が痛む。二高時代に、ユダヤ陰謀論に神道論と極端な右翼思想を加えた“護国学”に心酔したのも、のちに大陸の中国共産党に入党したのも、一個の自分になりたかったのだろうと、司馬遼太郎は述べている。

当時、日本の6分の1の人口だった台湾は、日本の植民地支配から解放されたが、蒋介石が派遣した陳儀の私物化によって、相変わらず征服者と被征服者の構造がつづいていた。この征服者による3、4年にわたった赤狩りで殺された人は、5千人を超えたといわれる。葉くんも、医師として勤務をはじめて間もない1950年11月29日、学生時代の左翼的行動を理由に銃殺刑に処せられたのだった。

1994年6月、台湾を訪れた私は、光毅氏のご案内で葉くんの墓参をすることができた。葉くんの処刑2カ月前に生まれた光毅氏は日本の大学でも学び、いま国立台南大学の教授となっている。彼が1996年に札幌に来られたときも数回お目にかかり、亡き葉くんの面影を前に、語り尽くせない感激の時を過ごしたのである。

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