柞の森に、春が近いことを真っ先に知らせてくれるのは、森の梟(ふくろう)である。立春を過ぎてまもなく、2月の夜の森から、梟のくぐもった、鈍い声がきこえてくると、もう、それは春の兆しなのである。それは、真っ暗闇だった柞の森に届けられる、一条の声のひかりのようでさえある。
梟の声を合図に、森の樹々たちは、春の準備をはじめる。樹々たちは、決して眠っていたのではなく、絶え間なく流れる樹液が、ほんの少し細くなった中で、冬芽と呼ばれる核を、大切に護っていたのである。
芽吹きの刻(とき)を逸早く知らせてくれるのは、桂の樹である。樹齢推定800年の桂は、樹幹が何本も集まった大木であるゆえ、その芽吹きのさまは、それぞれの枝が紅(くれない)の花を纏っているかのようである。
野や山の一郭一郭が、春の女神に選ばれて、少しずつ新緑に変わってゆくころ、樹々たちは、生を謳歌し始める。緑を滴らせて、緑陰をつくるのである。その緑陰は、さまざまな陰翳(いんえい)をもつ。青葉を纏った樹々が、いっせいに戦ぐさまは、壮観であるが、凪の刻に、その戦ぎを止めてしまった緑陰は不気味でさえある。
静と動。戦ぎを止めてしまった樹々の向こうに、死者の声をきいたような気がしたのは、空耳だったのだろうか。
やがて、秋。柞の森の黄葉は、全身全霊を傾けて染めあげたかと思うほどの出来映えである。極まりの美しさに気づかずに、ああ、あの日がそうであったのか、と思わせられる日も少なくない。
やがて、冬。華やかさの後に迎える無彩色の裸林。衣裳をぬいだ樹々たちに、ようやく安堵の刻が流れている。
近来、にわかに森が見直されはじめている。里山は、美しくあるべきだ、とか、あの銘木は伐採しないでほしい、とか。
世相がどうあろうと、樹々たちは、微動だにしない。はしゃいだりもしない。樹々たちは、森の中にある、特別の森の時間帯の中に組み込まれながら、今日も冬空に、凛と佇(た)ちつくしている。
*柞=コナラ、クヌギ、オオナラなどの総称