日本で最も早く桜の開花宣言をするのは沖縄の名護測候所で、名護城跡のヒカンザクラ(緋寒桜、別名=カンヒザクラ・寒緋桜)を標準木として例年1月中旬に開花が観測されます。しかし、石垣島の荒川や沖縄本島の八重岳では、早い花は12月下旬から咲き始めています。
そこを始発駅とするサクラ前線は、ほぼ1日20キロずつ北上し、本州を越えて津軽海峡を渡るのは、例年4月30日ごろと予想されています。北海道で最も早く咲くのは松前と函館で、標準木とされているソメイヨシノ(染井吉野)の開花宣言は例年5月1~4日ごろ。今年は4月23日と1週間ほど早い開花です。
有名な松前の花どころは、松前城と隣接する龍雲院、光善寺、法源寺などの名刹と桜見本園、新桜見本園、第二公園などを含めた松前公園です。そこには、約250種1万本の桜がさまざまにあでやかさを誇って咲きそろいます。
松前の桜の特色のひとつは、八重咲きが多いことです。しかし、松前の桜の起源はよくわかっていません。藩政時代には野生のオオヤマザクラや寺の境内に植えられた“寺桜”が中心だったと考えられています。1575年(天正3)に建立された光善寺の19世紀中葉に造園された庭園に、北海道の代表的な桜の名木「血脈(けちみゃく)桜」が約280年の樹齢を刻んでいまも美しい花を咲かせています。この名木には次のような伝説が残されています。
1750年代(宝暦年間)、信心深い鍛冶職人が18歳になる娘とともに上方見物の出かけ、京都、奈良を経て、春爛漫の吉野山を訪ね、見事な桜に魅せられてしばらく滞在することにしました。帰郷するとき、娘は親しくなった尼僧から贈られた桜の小枝を大切に持ち帰り、光善寺の本堂前に植えたのです。年月が経ち、その桜は見事に成長して、毎年すばらしい花を咲かせるようになりました。ある年、娘は美しく咲き乱れる桜を見ながら世を去りました。
そのころ、本堂を改修することになり、大きく成長した桜を切ることにしました。ところが、その前夜、桜模様の着物を着た女性が住職の枕元に立ち「死があすに迫る身、仏のご加護が得られますよう血脈(極楽浄土に行く証文)を与えてください」と懇願するのです。そこで住職は本堂に導いて読経ののち、血脈を授けてやりました。翌日、その桜の前に行ってみると、昨夜女性に与えた血脈が枝に下がっていたのです。住職は檀家と相談してこの桜を切るのをやめ、盛大に供養したということです。
この桜は俗に「松前早咲き」といわれる「南殿(なでん)」で、花弁が12~15枚の淡い紅紫色の花をつけるサトザクラ(園芸種)です。光善寺の血脈桜は幹が2つに分かれ、幹回りは2.9メートルと3.5メートル、樹高は約8メートルの大木です。松前の桜は南殿の名所とされますが、それらはほとんどこの木を親として接ぎ木によって増やしてきたもののようです。
松前は品種の多さで日本有数の桜の名所ですが、松前公園内に桜見本園を育て、全品種の4割に及ぶ104品種の桜を新しく作出したのがサクラ研究家で北海道教育大学函館校非常勤講師の浅利政俊さん(67)=亀田郡七飯町在住=です。
浅利さんは、桜とのかかわりの原点を次のように話します。
「私の生家には大きな庭があって、北海道には珍しい木がたくさんありました。とくに桜は関山(かんざん)とか泰山府君(たいざんふくん)、紅色の濃い大山桜などの八重桜ばかりが植えてあり、花の色の白い一重咲きの染井吉野があることは函館に出て初めて知ったというほどでした。そんな子どもの時に生家は火事を出して全財産を失うと、母は私たち子どもに、おもちゃ代わりにと一坪ほどの庭を与えて花を育てさせ、ウサギや鳥を飼うことを教えてくれたのです」。
やがて、浅利さんは旧制函館師範学校に進むと、そこには芥川賞作家・寒川光太郎の父で、樺太博物館長を退職した菅原繁蔵さんが講師として植物分類学を教えていました。菅原さんは松前や函館の桜の研究もしており、浅利さんが卒業して松前の小学校に赴任が決まったとき「桜の研究を一生懸命やりなさい」と貴重な桜研究の文献2冊と標本を寄贈してくれたのです。それは、桜研究の第一人者、三好学東京大学教授の論文集と分類法をまとめたものでした。
「これを私に託されたからには、いい加減なことはできないと思い、まず松前の桜を徹底的に調べることから始めました。すると、50種類以上あるといわれていた松前の桜は、実際には20種くらいしかないことがわかってきました。そのころNHKテレビが“松前の花咲爺さん”ということで、とうに80歳を越えていた鎌倉兼助さんのことを報道しました。その放送を見ていた国立遺伝学研究所の竹中要博士から私のもとに問い合わせがあり、私の調査研究をお話したところ、接ぎ木の枝をやるから来いとおっしゃるのです。そして、松前にはない珍しい種類の木をたくさんくれました。その時に、竹中博士は『これからは育種の時代だ。八重桜の育種はむずかしいが、まだだれもやっていないから一生懸命やるといい』とすすめられたのです」。浅利さんの育種研究はその時から始まりました。1955年ごろのことです。
浅利さんは松前町立松城小学校で高学年の児童と「松前町桜保存児童会」をつくって桜の種集め、実生から育種、そして交配させるという作業を繰り返し実験をつづけました。現在の桜見本園は当初“教育植物園”として、浅利さんと子どもたちの活動によって育てられました。
教員は転勤することで管理職への道が開かれていますが、浅利さんはむずかしいといわれる八重桜の育種に適した地域は松前しかないという信念を持って松城小学校に16年間とどまり、恩師から託された桜の研究をつづけたのです。
松前の桜のこんにちを築いたもう1人の功労者は、故鎌倉兼助さんです。
福山城(松前城)は1875年に取り壊されて空き地になっていたため、裕福な商人や場所請負人(漁場持ち)たちが資金を出し合って近代的な公園を造成することになりました。折から大正天皇のご成婚を祝し、1千本のソメイヨシノを植えたのが現在の桜公園造成の発端になっています。
やがて松前の浜からニシン漁業が急速に衰退し、海上輸送の拠点も函館、小樽にと移っていくと、暮らしは貧しさに襲われ、人びとの心も荒(すさ)んでいきました。そんなとき、町役場の職員だった鎌倉さんが函館公園では盛大な花見が行われているのを見て、松前でももっと桜を増やし、花見ができるようになれば町の人の心も和むのではないかと思い立ち、光善寺の血脈桜から枝をもらって接ぎ木の増植を始めたのです。鎌倉さんはやがて町の助役、収入役の要職を歴任しましますが、桜の増植は大正末期から昭和10年代ごろまで絶えることなくつづけられたのです。しかし、そのころから戦時色が強まり、長い間中断されてしまいました。
戦後、復興に向けて人びとの心もようやく活力を取り戻した1950年ごろ、鎌倉さんは高齢にもめげずに桜の植栽を再開したのでした。鎌倉さんは1968年に90歳で世を去りましたが、1976年に「松前花の会」(初代会長=故石山善太郎さん)が結成されました。会員は24人です。現会長の岡本清治さんは語ります。
「古木も多くなってきたので、後継木を絶やさないように接ぎ木による増植や後継木の育成に取り組んでいます。鎌倉さんの意志を継いで松前に合った桜をたくさん増やしたいのですが、もうここも土地がなくなってきたのが残念です」と。
現在、松前町では町の仕事として公園の桜を管理し、育成した苗木の植栽、病害虫の駆除、肥料を施すなどして桜の管理、維持発展に努めています。「松前花の会」は発足以来町の仕事を応援し、品種の接ぎ育成や天狗巣(てんぐす)病にかかった枝の切り取り作業、町内の植樹、松前公園の向上などに協力しています。こうした人びとの熱意と努力によって、北海道を代表する花どころが育てられているのです。
「北海道の公園には野生の桜がひじょうに多く植えられ、それが観賞の対象になっているのが、本州との違いです」と浅利さんは語ります。
日本は南北に長い国土で、南は亜熱帯の沖縄から、本州の温帯、北海道の亜寒帯にまでつづき、それぞれに特徴ある桜が育てられています。そして、
「桜は美を求めて移動し、美は文化とかかわり、文化は政治権力と結びついて発展する」と浅利さんは言います。
古代、奈良に都があったころは、吉野のヤマザクラを中心とした良い桜が育てられ、野生種を改良したサトザクラが多種栽培されるようになりました。
京都に都が遷(うつ)されると文化はいっそう発展し、典雅に桜を観賞する風趣も完成し、花の宴が盛んに催されるようになりました。そして室町時代になると、遅咲きで多数の花びらを持ち、葉化した2枚の雌しべが普賢菩薩の乗った象の牙に見立てて名づけられた「普賢象(ふげんぞう)」まで、いろいろネ品種がうみだされました。
江戸時代になると、江戸・染井村の植木屋によって売り出され、全国の園芸種の8割までを席巻したといわれるソメイヨシノが出てきます。ソメイヨシノは、若い樹齢で花が咲き、成木になると枝が大きく笠状に広がり、比較的早い時期に大量の花数を咲かせて、パッと短期間に散ります。その性質が武士道精神の象徴とされたように、桜は時の権力者が好むような品種が選りすぐられていくというのです。
米を生産しない松前藩は、幕府の手前、華美ぜいたくはご法度で、桜に関する記述は極めて少ないのです。
では、松前の人は花見はしなかったかというと、そうでもないらしく、江戸時代後期の庶民風俗資料『松前歳時記草稿』には釈迦生誕を祝う潅仏会(かんぶつえ)にことよせて老若男女が遊行し、にぎわう様子が述べられています。ニシン漁で栄えた松前は、活気はあるが過酷だった漁場労働も一段落して家族のもとに帰る。農家は、桜の花の終わりを待って作付けを始める。そんな暮らしの区切りの時に桜花の下で春漁の豊漁を祝い、秋の豊作を願って宴を張る。それは、健康な庶民文化だったはずです。
しかし、第二次大戦時代、ソメイヨシノの散り際の良さが戦争目的に利用され、特攻隊など若い生命の散華を美化する代名詞にまでされる痛恨の時代でした。
では、現代はどうでしょうか。「ようやく権力者の手から解放され、その地域の風土に合った桜を選択で育成し、市民自身の手で新たな桜文化を育てていくことができる時代になった」と浅利さんは言います。
では、北海道の桜の特色はどこにあるのでしょうか。浅利さんは、まず日本全土を大きく4つにわけ、その圏内にある桜の原種をあげて特色を概観します。
それによると、沖縄と九州南部はヒカンザクラ。京都・奈良を中心にした関西、一部北九州にも影響を与えているヤマザクラ。東京を中心とした関東のきれいに改良された八重桜は、オオシマザクラ(大島桜=伊豆諸島に自生する白色系の五弁の花)がベースになっています。北海道の桜は野生種のオオヤマザクラ、カスミザクラ(霞桜)、チシマザクラ(千島桜)が主流になって育種されたものが多いとのことです。
オオヤマザクラ 北海道を代表する桜で、エゾヤマザクラ(蝦夷山桜)ともいわれます。また、日本の代表的な野生種のヤマザクラより花の紅色が濃いため、ベニヤマザクラ(紅山桜)の名もあります。
ヤマザクラとの決定的な違いは、オオヤマザクラの花苞(かほう)と葉苞(ようほう)に強い粘りがあることです。これは寒さを防御する糖質です。また、オオヤマザクラの花は90度の角度に開きます。これは、より多くの日光を吸収しようとするためと考えられています。これに対して、ヤマザクラの花は抱き包むような感じで開きます。
カスミザクラ 九州、四国、北海道、さらに朝鮮、中国にまで分布し、淡い紅と白い花が緑褐色の若葉といっしょに咲きます。北海道では道南の山地に多く咲き、夕張にも見られます。オオヤマザクラより2週間くらい遅く咲き、5月中旬、新緑の白樺やブナ、カエデなどの広葉樹の中で咲くのが見ごろ。花の数は多くなく、その控えめな風情を愛する人は多いようです。
チシマザクラ 北海道、千島、サハリン、本州中部以北の山地に自生しています。樹高は2メートルくらいと低く、横に枝を広げますが、なかには幹の太い古木もあります。花は淡い紅色か白色で、小さく清楚な花をつけます。花柄、葉柄、葉の両面に毛があるのが特徴。開花は5月下旬から7月上旬まで地域差があります。道南では横津岳に数千本の群落があり、大千軒岳、オロフレ峠にも。道北では利尻島に群落があります。
北海道で最も早くサクラ前線が到着する松前公園には標準木のソメイヨシノが城前にあり、今年は4月23日と例年より5日ほど早い開花でした。桜見本園には本州では秋咲きのフユザクラ(冬桜)があり、松前では春早く咲き、今年は4月7日ごろに咲きはじめていました。例年4月30~5月7日に咲く「ソメイヨシノ」、5月2~9日の「南殿」のほか、江戸時代から知られた優秀な園芸種の「糸括(いとくく)り」は5月7~14日。「関山」は濃紅色の花弁が数10枚つく豪華な花で、世界各国にも広まっています。開花は5月11~18日。松前の花ごよみのトリをつとめるのが「普賢象」で、5月12~22日となっています。今年はいずれも5日前後早まる予想です。
その後、桜前線は北東に進み、平地での最後は根室地方です。その後も黒岳中腹など大雪山のあちこちにチシマザクラ、オオヤマザクラが散見され、6月下旬~7月初旬まで花が見られます。
厚岸町は、現在、町内の子野日(ねのひ)公園の桜育成に取り組み、浅利さんを管理指導員に任命してその指導のもとで造成をすすめる一方、町内の桜を調査診断を依頼して傷みのある木の徹齊。療を受けています。
子野日公園は大正期から昭和にかけて町長だった故子野日弘毅氏が私費で山林をひらいて桜を植樹したもので、翠湖園と名づけ、ひと目一千本といわれる桜の名所でした。1962年に町に移管され、桜まつりや牡蛎まつりの会場となるなど、町の人のイベントや憩いの場所でもあります。
「ここの桜は町の人の生活の中で守り育ててきたものです。厚岸は気候的には植物にとってきびしい場所ですが、それに耐えて育つ桜は必ずあるのです。いま、苗畑に南殿の改良種『紅豊』と『紅華』、『花笠』など色の濃い八重咲きの品種を育てています。それは、寒さなど過酷な条件に耐える力があるからです。よそから安易に移すのではなく、地元のものを生かし、改良してその地域に合ったものを作出する、それがほんとうの創造的な作業です。私は、松前を北海道の西の桜の里、厚岸を東の桜の里として、道東の桜の拠点にしたいと協力しています」と浅利さんは意欲的です。さらに語ります。
「信仰と農事に結びついて培われた桜文化を地域の景観づくりや精神形成に活用し、地域の活性化や生活力の再生産につなげたい」と。そのために、桜の情報を交換しあうネットワーク『北海道ふるさと桜元気快の会』を設立して、桜を中心とした景観づくりに取り組んでいるまちや団体に贈る「ふるさと景観賞」を創設し、第1回の函館・トラピスチヌ修道院と大野町営牧場など、毎年2~3団体ずつ表彰しています。
浅利さんは「北海道の桜の美をまだまだ発見していきたい」と言います。良い景観づくりは、よい精神づくり―を基本に据え、北海道に独自の、そして新たな“桜学”と桜文化を創造するためできるだけ多くシンポジウムを開催して、桜育種技術の講習、文明論、景観論などを広めていくと意欲を燃やしています。