5月23日土曜日の午後、札幌市北区の北海道クリスチャンセンターの一室で「札幌映画サークル」(事務局=〒060-0806札幌市北区北6条西6丁目 第一山崎ビル TEL:011‐747‐7314=平日の夜間のみ)の定期総会が開かれました。
議事のはじめは、各専門部の活動を含めた97年度の活動報告です。それによると、自主上映会は5月例会として中村錦之助追悼『浪花の恋の物語』『沓掛時次郎・遊侠一匹』を、9月例会は韓国映画祭として『トゥーカップス』ほか、12月例会は日本映画祭として『西鶴一代女』『東京物語』『秋刀魚の味』『雨月物語』『浮雲』『乱れ雲』を、いずれも札幌市教育文化会館講堂で開催しました。98年の3月例会は中国映画『變臉(へんめん)―この櫂に手をそえて』を共済ホールで開催し、入場者数、評価ともに好評だったことが報告されました。
また、会員が劇場公開の中から好きな映画を選んで割安で見ることができる「1,000円劇場」は、7月の『もののけ姫』をはじめ、アメリカ・イギリス・ドイツ・オーストラリアなどの作品を毎月取り上げてきました。
一方、財務報告では、現在の会員数約170人。1人半年3千円の会費で事務所の家賃をはじめ運営諸経費を賄っていくのはたいへんなこと。自主上映会も現実には年2、3回しか開けないなど、きびしい状況下にあることが浮き彫りされていました。そんな席上で、これまで2回開催して動員数を大きく伸ばした「日本映画名作祭」の第3回開催が決まったと報告され、明るい拍手がわきました。
この1年間の入会した新会員が32人おり、その中の2人がこの総会に出席して歓迎を受けていました。一般の映画ファンも少しずつ劇場に戻りつつあるなかで、道内・全国の映画サークルも健闘しているので、新年度もさらに手を取り合って頑張ろうという意欲をみなぎらせ、ほぼ2時間に及ぶ議案審議を終了しました。
この札幌映画サークルが発足したのは35年前の1963年です。それより5年前の58年の映画館入場者数は、全国で11億2,700万人を超えて史上最高を記録しました。映画館数は60年に7,457館を数えました。しかし、60年代に入ると一気に下降線をたどり、65年には入場者数は3億7,200万人と、ピーク時の3分の1にまで減少したのです。その一方で、新しい映像メディアのテレビ保有台数は、58年に155万7千台、64年には一気に1,671万台を超えました。そうした激変の中で、61年に新東宝が倒産し、松竹・東宝・大映・東映・日活は5社体制の強化をはかりながら縮小再生産への道を走りはじめたのです。その製作本数をみると61年は535本でしたが、翌62年には375本に減少しています。そのなかで、時代劇王国の東映はやくざ路線に、石原裕次郎や小林旭、赤木圭一郎らを擁する日活はアクション路線に切り替えていきました。また、小独立プロによって低予算で製作するピンク映画がつくられはじめ、日本映画産業の一部分を占めるようになっていきます。
こうした日本映画の動向を、量的減少ばかりでなく、質的低下による衰退と感じていた人たちがいました。
日中事変いらい15年戦争といわれた時代に不当な検閲と弾圧の危機と背中合わせにいた日本映画は、敗戦とともに軍部は解体し、GHQ(連合軍総司令部)のさまざまな民主化措置によって自由主義的な映画を製作できる道が開かれました。戦後製作の第1号は、終戦の年1945年(昭和20)10月に封切られた松竹作品『そよかぜ』でした。大船調路線を継承する軽快な音楽映画で、主題歌「リンゴの唄」の明るいメロディーは、平和な時代の到来を告げるように一世を風靡する大ヒットとなりました。しかし、ほんとうの意味で平和日本の夜明けを感じさせ、人びとの心を大きくとらえたのは、翌46年2月に封切られた木下恵介監督の『大曽根家の朝』でした。
自由主義的な教授だった夫の弟が、戦時中、陸軍大佐の強権をかさに軍国熱を煽って兄の息子たちを次々に出征させ、戦死に追いやります。そして敗戦後は、わがもの顔に居候をして卑劣な豹変ぶりをみせる義弟の態度に怒りを爆発させた妻房子(杉村春子)は、毅然として言います。「あなた方は日本という国をめちゃめちゃにし、何十万何百万という人の命を奪ったのです。あなたが、その人たちと同じ苦しみをなめるくらい当然です。一片の良心をお持ちなら、即刻この家から立ち退いてください」と。これは、公然と軍国主義批判をした最初の作品でした。
同年10月には、京都大学の「滝川事件」をモデルにした黒澤明監督作品『わが青春に悔いなし』、今井正監督『民衆の敵』が封切られました。さらに47年に封切られた記録映画畑の亀井文夫と社会派山本薩夫の共同監督『戦争と平和』は、日本国憲法制定記念としてGHQの指示で企画された作品で、戦争の罪業と平和への希求を描く社会的リアリズム映画でした。
そのころ、独立プロの活躍も活発です。山本薩夫『真空地帯』『太陽のない街』、今井正『どっこい生きてる』『山びこ学校』『ここに泉あり』『真昼の暗黒』、新藤兼人『原爆の子』、五所平之助『煙突の見える場所』、吉村公三郎『夜明け前』などの名作を次々と製作していきました。
大手映画会社も負けじと名作、ヒット作を次々に発表しました。松竹では木下恵介『二十四の瞳』、大庭秀雄『君の名は』、『東京物語』など一連の小津安二郎作品。大映は黒澤明『羅生門』、衣笠貞之助『地獄門』。東宝は黒澤明『七人の侍』、他に本多猪四郎『ゴジラ』をはじめとする円谷英二特技監督による特撮映画を続発。東映は、2本立て興業によって時代劇王国を築きました。日活は石原慎太郎原作・古川卓巳監督『太陽の季節』が大ヒットし、やがて裕次郎を頂点にしたアクション路線をばく進することになります。
この時代を、日本映画にとって「栄光の50年代」と多くの人が呼びます。しかし、それはわずか13年足らずの短い輝きを放ったに過ぎず、58年をピークに斜陽への道を転げ落ちるといわれた時代を迎えます。そして、60年安保反対闘争の結末がその後の社会潮流に、当然ながら映画製作のうえにも、ある変化を及ぼしていくことになるのです。
こうした戦後の映画史の中で、北海道の映画愛好活動はどうだったでしょうか。戦後、最初に結成されたのは現小樽商大の映画研究会だといわれます。ガリ版刷りの会報を発行し、映画館と組んで自主上映らしいこともしていたといいます。北海道大学に映研が生まれたのは1947年。同じころ札幌工業高校にも映研が生まれ、ほかの高校にも波及しました。
現映画評論家の淀川長治さんが編集長だった雑誌『映画の友』の友の会が札幌でも49年に結成され、ときには淀川さんも例会に出席して合評会などをしていたとのことです。このころから、各映画会社や映画館の友の会活動が盛んになりはじめました。そんななかで「民族の心に根ざした文化である映画芸術の灯を燃やしつづけたい」という明快な意志をもって発足したのが『札幌勤労者映画協議会(札幌労映)』だったのです。73年に発行された創立10周年記念誌に、会長の石岡雅視さんは発足当時の状況を次のように回想しています。
「映画産業は急速に衰退しているなか、映画資本は映画は儲からないものと決め、これまで蓄積した資本を映画以外の部門に回して、映画自体は優れた、より芸術性の高いものを追求するのではなく、費用のかからない通俗的な作品を中心に製作するようになってしまいました。それが今日の日本映画の主流を占めるポルノや、やくざ映画なのです。また、映画資本は製作部門の縮小、切り離しをおこない、配給面では下番線(映画館のランク付け)の切り捨て、配給会社の統廃合、縮小などの合理化をすすめて映画産業に従事する労働者の職場を奪いつつあります。私たち働く仲間は、力を合わせてそうした状況に反対するとともに、過去の優れた映画の自主上映と、時折上映される良心的な映画の鑑賞活動、さらには独立プロや社会主義国などの映画の普及、上映、製作協力、映画の学習活動の中心的な役割を果たさねばならないと思っています」ということでした。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)映画『千里馬(ちょんりま)』やハンガリー映画『裸で狼の群れの中に』の全国的な 上映支援活動が直接の発端で発足したということです。1965年の羽仁進監督『不良少年』、山本薩夫『箱根風雲録』をはじめ10年間に56本を自主上映しています。実行委員たちの自負は「映画の主人公、それは私たちです。私たちの選択、批判が映画をつくる人たちを励まし、良い映画をつくる原動力になるのです」というものでした。65年は初めて公開されたベトナム民主共和国映画『キム・ドン』が、小さな劇場に1万5千人も入場して大評判になり、会員はこの年に450人に達しました。そのため、会員の交流会や勉強会が毎月おこなわれるようになりました。
68年には専従職員を置くことになり、1千枚単位の券売活動を進めることになりましたBそのことは委員たちの大きな負担となり、日常活動がおろそかになるという状況も生まれてきました。
当時、会員は職場での労働組合活動に参加している人が多く、例会の映画しか見ないという会員も少なくありませんでした。また、入会して7、8年も経つと転勤になったり、女性会員の場合などは結婚や出産で思うような活動ができなくなったり、友達とも離れ離れになるなどで会を離れていく人が多くなっていきます。そんなこともあって、70年代に入ったころから、会員構成も変わっていきました。
「映画に親しみ、映画に学び、映画を通じて友達になろう」というスローガンがほんとうに実行される映画愛好者の会になり、さらに広範な会員の拡大をめざそうと、会の名称を誰にも親しみやすく、会の性格がわかりやすい「札幌映画サークル」に変えて新たな一歩を踏み出すことを決めたのは、74年6月の定期総会の席上でした。
現在の代表委員7人のうち、この新発足以前から参加しているのは、札幌労映発足当初からの会員で後輩から「おとう」と呼ばれて親しまれる伊藤功さん、笹川泰栄さん、首席代表の岡村雄二さん、中村元(はじめ)さんの4人です。笹川さんは、71年11月例会のイタリア映画『鉄道員』を観たくて入会したとのことです。岡村さんはその半年後に東京から転勤して来て、72年5月例会でイタリア・ネオリアリズムの傑作『自転車泥棒』を観て、そのまま入会したのでした。岡村さんは東京時代に淀川長治さんが主宰する「横浜映画友の会」に参加して直接淀川さんと出会い、彼の映画を愛する熱意がビンビン伝わってくる話術に魅せられてしまったそうです。また、それまで映画は1人で観ていましたが、その会に行くと熱烈な映画ファンがたくさんいて、その人たちといっしよに映画を観て、その面白さを話すことの楽しさを教わったと言います。
「その楽しさは、札幌労映でも同じでした。まったく見ず知らずの地・札幌への転勤でしたが、入会してすぐ映画の仲間ができ、ついには職場を退職して札幌永住を決めてしまったほどです」と笑います。
そのころの様子を笹川さんは語ります。
「まだ専門部などもはっきりしていなかったので、事務所に出入りする人たちが手分けして会報作りや例会のポスター作りなどをしていました。いったんは減った会員を増やそうと、集いの係の人たちがレコードコンサートや語る会を開いて仲間づくりをしていました。ひと癖もふた癖もある“事務所荒し”と呼ばれる人もいて、いつも笑い声がするあたたかい雰囲気でした。お酒を飲み交わすこともあり、みんな話し上手でしたが、同時に聞き上手でもありました。しかし、だれもが自分の映画の見方だけは大切にしていましたね」。
70年代、80年代は、レンタルビデオの出現などで映画をとり巻く状況はむずかしくなっていきます。栄光の50年代の名作はもとより、衰退時代といわれるなかでも生まれた内外の秀作が毎月の例会に取り上げられ、会員はそのつど感動を楽しみました。
77年に自主上映80回記念としてアメリカ映画『ペーパームーン』と『ジーザス・クライスト・スーパースター』を。翌77年には創立15周年記念シネフェスティバルとして『アリスの恋』など邦画5本を上映しました。80年には「噫(ああ) 懐かしの活動大写真」と銘打って戦前の日活黄金篇『赤西蠣太(かきた)』『風の又三郎』など12本を上映しました。
「このとき、札幌市東区に在住していて健在だった活弁士の東条秀声さんに登場願い、伊藤大輔監督・大河内伝次郎主演の無声映画『御誂(おあつらえ)次郎吉格子』を上演しました。そうした“生きた文化財”とも言うべき人に舞台に立ってもらうことができたのは貴重な成果だと思います」と岡村さんは語ります。東条秀声さんには82年に開催された「さっぽろ映画祭」にも出演しています。
「もう1つ、札幌映画サークルにとって重要な役割を果たしたのは宮崎駿(はやお)製作・高畑勲監督のドキュメンタリー『柳川掘割物語』の取り組みです。88年に札幌で初めて自主上映、翌89年は全道公開をしました。両監督の講演会に加えて、この映画のモデルになった水郷の街・福岡県柳川市の人も招いて講演会に参加してもらいました。あたかもバブルの絶頂期であり、自然との共生については知床伐採問題、都市の水路管理については小樽運河問題を経験している道民にとっては、とくに関心の深いテーマであり、大きな感動をもって観ていただけたと思います」と岡村さん。その言葉どおり、道民の多くの人の心に焼きついた作品となり、95年に7年ぶりの再映も果たしています。
91年に、自主上映200回を数え、その記念として6月に在日韓国人問題を取り上げた『潤(ゆん)の街』を劇場公開しました。8月には山田洋次監督の講演と『息子』の上映。93年にはポーランド・ドイツ合作映画『コルチャック先生』の上映とh花寛さんの講演が再上映・再講演となりました。その年の12月、札幌映画サークル創立30周年を迎えました。
「自主上映は、開催するたびに高い評価はうけるのですが、非常に上映できにくくなっています」と、笹川さんは厳しい現況を説明します。
「1回の例会にかかる経費が以前とは比べものにならないのです。まず、会場を確保するのが大変です。札幌はイベントや大きな会議が多いのでしょうか、会場が少なすぎるのです。したがって、貸室料も高いというわけです。1回の上映に要する経費は作品によって違いがありますが、フィルム代と会場費で50万円から100万円かかります。自主上映の鑑賞料は1,000円から1,200円が限度ですから、500人から1,000人に券を買ってもらわなければなりません。この人数分を達成するのが大変なのです。万一券が売れなくて大きな赤字を出したら、どこからも資金援助のないこのサークルは、たちまち破綻してしまいます。ですから、配券して歩くスタッフたちは、上映日の1週間前ごろから、毎回、胃がキリキリ痛む思いをしているのですよ」と苦しい笑顔を見せます。それは岡村さんも同じ思いです。
「若い人が券を買ってくれなくなっていますね。したがって、券を一生懸命売ってくれる若い会員も少なくなってきています。なかには、好きな映画を観たいと思って入会したのに、なんで苦労して券を売り歩かなければならないのかと言う人もいます。ぼくらは突っ走るタイプですから、つい抱え込んでしまう。しかし、そのように腹をくくって売り回ってくれる少数の努力に支えられている面もあるのです。もっと納得してくれるまで話し合いをして任せるようにすると、きっと動いてくれるのではないかという希望も持っていますが…」とも。
多彩な自主上映作品の選択はどのようにして決めるのかを岡村さんに聞いてみると「まず会員が見たいという作品を選びます。次は、この時期に選んで上映したほうがよいと思う作品。上映会のあとに観客からアンケートをとりますが、なかなか希望にこたえられないことが多いのです。しかし、会員がどうしても観たいという熱い思いをこちらに伝えてくれたら、必ず上映できるというのが会員最大のメリットですよと言いつづけています」とのこと。岡村さんは、「私個人としては、日本映画を支えていくという理念は通しつづけたいし、映画は劇場で観たいと思っています。しかし、会員の中にもテレビ放映、ビデオやレーザーディスクで手軽に楽しむ人も多くなっています。それぞれの見方で自由に映画を楽しみ、そこから出会い、語り合いの輪を広げていけばいいと思っています」と話します。
「次の大黒柱は、出会いの広がり」だと、ふたりは言葉をそろえます。交流部の語る集いは定期的には3つの活動があります。
その1つは、毎月中旬の木曜日の午後にレストランに集まって、昼食をとりながら映画を語り合う「レクラン」。この名はフランス語で映写幕(スクリーン)のことを意味し、現在の代表は郡山博子さんです。女性を中心に15年ほどつづいている集まりです。それだけに、かなり深めた映画論が展開されることが多いようです。次は、加藤和香子さんを代表にして毎月第1土曜日の午後、ススキノ街近くの喫茶店でまったくランダムに映画と人生について語り合う「ファーストテイク(撮影所用語で“ぶっつけ本番”の意味)」があります。少人数の語らいなのに4時間~6時間に及ぶことも少なくないのだそうです。
もう1つは「おしゃべりシネマパラダイス(略称=おしゃパラ)」。こちらは夜、職場から帰宅途中に事務所に集まり、おしゃべりが始まるのです。働き盛りの男性会員も多く、激論・奇論も時には飛び交うようです。ここ数カ月、お休みなのがさびしい。また、必要に応じてテーマを決めて語る会もあり、これは学習会に通じるようです。今年も鑑賞部などを中心に、三船敏郎を偲ぶ(4月)、ポール・ニューマン中心とした60年代の映画(5月)、香港映画を語る(6月)、怪談映画を語る(7月)などをテーマにした語る会などは実り多いものになっています。
3本目の大黒柱は、会報『Cineaste=シネアスト』を発行する編集部の活躍です。会員全員がいつもサークルのさまざまな活動に参加できるわけではないため、会報は会の動向や会員の映画評、感想などに触れる大切な情報源です。チーフの奥田聡さんはこの会報を単なるお知らせの場だけにとどめず、議論の発生源となるような社会性を含んだ誌面にできないものかと工夫しているようです。
7月号と8月号には、いま論議を呼んでいる日本映画『プライド』についての誌上討論会を掲載しました。出席者は4人。映画のできは良くなくその思想性は子ども騙しだという人、主人公・東条英機が南京大虐殺はなかったと信じているのは不自然、目くじらを立てるほどではない、映画の持つ使命は果たしているなど、意見はまちまち。「会としての見解は示しませんが、戦争について、人間のプライドについて、この映画が製作・公開されたことの意味についてなど、会員が自由に考え、論議するチャンスを提供してみました」と奥田さんは話しています。
会報は、6月に第300号を発行しました。最初はガリ版刷り、写植印刷に回したこともありましたが、現在は毎号16ページだてを基本に会員が寄稿し、ワープロ入力で手作りのぬくもりを生かして、プリント・製本して全員に配布しています。
一方、この会を一般会員はどのように感じているでしょうか。会員歴4年目という仁木由紀江さんは「とにかく映画が好きという一致したテーマで知り合えた人の輪の広がりが、大きなプラスになっています。一本の映画を観てもじつにさまざまな見方があることを教えられました。また、好きなものはより深めるためにできるだけ多くの情報を集め、系統立て考えてみることの必要性も感じたりしています」と話しています。
また、入会6カ月というニューフェイスの駒井智子さんは「なにか面白いことが好き、という友達と2人で入会しました。すごく不思議な会ですね。いろんなことにマニアックな人も多くて、話題がどんどん飛躍していきますし、私の知らないことをいっぱい聞かせてくれます。でも、どんな仕事をなさっている方か全然見当もつきませんね。この会に入らなかったら、なかなかお話できないような人ともお話できて、とっても楽しいです」とはつらつと語り、毎月、会報のお手伝いに参加しています。
「日本映画の良さを観て欲しいし、知って欲しい、というのも大切な柱であり、目的でもあります。今年も「日本映画名作祭」が札幌市教育文化会館と共催で開催できることになりました。上映日は12月11日(金)から13日(日)までの3日間。野村芳太郎『張り込み』『五辧の椿』、堀川弘通『黒い画集・あるサラリーマンの証言』、内田吐夢『飢餓海峡』、川島雄三『雁の寺』、黒澤明『天国と地獄』の6作品。会の希望作品がそろいました」と喜んでいます。
仁木由紀江さんも日本映画のファンです。
「日本映画の良さをできるだけ多くの人に知ってもらうためにも、ぜひ成功させたいです」と意欲的です。
「第1回の95年は1,000人の入場でした。96年は貸し出しの抽選にもれて開催できず、残念がる声がたくさん寄せられました。昨年、第2回を開催すると、入場者は1,500人に増えました。日本映画の優れた作品を守り、伝えていこうというこの会の先輩たちが築いた心を保ちつづけることができそうです」と語る笹川さんたち。忙しくなる年末は、もうすぐやって来ます。