先ごろ亡くなられた現代詩人田村隆一の詩で「銭湯すたれば人情もすたる」という一節を見つけた時、私の風呂屋としての大きな目標をはっきり見つけた思いがした。
時代が進み変わって良くなるものと、変わらないままでいなければならないものとがあると考えている。
銭湯に関して、変わって良くなるものは、施設である。先日『江戸時代の風呂』という本を読んだ。江戸時代の風呂はたっぷりとしたお湯もなく、ただ熱く満足に水でうめることもできない。浴室の中は薄暗く、湯舟に死体が浮いていてもわからなかったという。現在は、ボイラー、ろ過器等々、お湯はたっぷり使い放題、きれいなお湯がいつも湯舟いっぱい。江戸時代から比べると月とスッポンの施設である。
では、時代が進んでも変わらないままでいなければならないもの、銭湯にとって何か。それは、裸の付き合いである。
私は生まれつき風呂屋で、いつも母と一緒に番台にいた。友達が風呂に入りに来ると、私は番台からポーンと下り、一緒に入った。ある日、クラス担任が番台にいる私に「一緒に入るよ。背中流してあげる」。私はいつもどおり番台からポーンと下り、風呂に入った。友達も入りに来た。先生は友と私の背中を流し、私たちは先生の背中を流した。石鹸のついた手で触られると、くすぐったかった。「背中がキュッキュッいってるね」「気持ちいいねぇ」などと3人で話していた。風呂の中はみんな裸、平等なのである。
自家風呂普及率97%、他人と一緒に入らなくなってしまった現在、他人への気遣い、裸のつきあい、背中の流し合い、世間話、漬物の話、入浴作法の教え合い…、銭湯の存在価値が薄れたと同時に、これらのことも色あせてしまった。
上野動物園の中川園長先生が「生活習慣を申し送れない野生生物は滅びる」と言った。未来を担う子どもたちの「心の衛生」と、生活習慣の「躾(しつけ)」の場として、銭湯の出番を与えてほしい。全国浴場組合のガンコおやじや番台のおばちゃんは、銭湯を通じて世直しに貢献できるものと確信しているのである。