正門を入ると、もうそこから濃い緑陰につつまれ、一瞬、北国の森深くに足を踏みいれたような雰囲気に誘いこまれます。
樹齢100年をこえる針葉樹の林。チョウセンゴヨウ、キタゴヨウ、グイマツ、シロマツ、オウシュウクロマツ、オウシュウエゾマツ、それにアカエゾマツ、トドマツ…。それらの木々は針葉樹独特の香りをただよわせて、訪れる人たちの心を和ませてくれます。
よくみると、なんと樹種の多いことか。その中には、1886年(明治19)に開園した当時、初代園長の宮部金吾博士がみずから種をまき、移植し、育てたと伝えられるマツもあるといいます。当時は、まだ若木であったろうそれらの木々も、いまは枝を大きく張りだして陽光をさえぎる巨木に成長し、100年の樹齢を刻んだたたずまいをみせています。
「ほう、大きくなったなあ」大きなイチイの奥に、高さ4、5メートルに成長した十数本のアカエゾマツを見上げて思わずつぶやくのは、華園康次さんです。
華園さんは1932年(昭和7)に植物園に入り、二十数年間にわたって造園主任を務めた人。4年前に退職しましたが、いまでも週に一度は植物園にやってきます。
このアカエゾマツは、29年前に、まだ華園さんの背丈ほどだった苗木から育てたものです。
「これは千島の湿地から採取してきたもの。育ちが遅いから小さく見えるが、これでも樹齢は250年から300年。そばのエドマツ、トドマツが枯れはじめたので植えたんだ」。
華園さんが植え、いまなお思い出ふかい樹木はほかにも…。
園内の北、広々としたローンのすぐ西側にそびえる直径30センチほどの木が「バチェラーのカシグルミ」。アイヌの言語風俗研究者として名高いバチェラー博士が、イギリス国王ジョージ五世の戴冠式に参列したあと、記念に持ち帰って育てたペルシャグルミもその1本です。
「初代の木は枯れてしまった。その木の最後の年に実ったクルミを取って鉢に植え、苗に育てて植え替えたのが、いまの木なんだよ」。
開園して50年、100年もたつと、古い木は枯れていきます。その樹種を絶さないためには、後継樹を育てなければなりません。だから、その前に種子を取り、苗木に育てて移植していく―。訪れる人には目に見えないところで、注意深く、緑を守る仕事がつづけられているのです。
その華園さんに直接指導を受け、後を引き継いだのが現造園主任の山形剛三さん。植物園で仕事をするようになったのが1957年(昭和32)ですから、28年間、植物園の造園一筋に勤めてきた人です。
「華園さんは、ほんとうに厳しい人でした」と、先輩の教えを思いだします。その先輩にもっとも厳しく注意されたのが“水かけ”の仕事。
「花はしゃべれないけれども、天気のいい日なんか、水をやらないでいるとグシャッとしおれてしまう。だから、ちゃんと花の顔を見て、水をやりなさい」それが華園さんの教えだったと、山形さんはいいます。
鉢物なども、上っ面だけに水をやっても根の方まで水はいかない。そういう水かけが積み重なると、だんだん花をだめにしてしまうのです。鉢を見て、花を見て水をやる―1つひとつの花にどのように水をやればよいかを覚えるまでに3年はかかる。そう教えられたことが、山形さんにとっていちばん印象に残っていることだといいます。「木や花の名前を競争して覚えた」という華園さんは、後輩の山形さんに、「暇があったら、本をよく読んで覚えろ」と植え方や手入れの仕方を伝えるのでした。
かぐわしい木の香とやわらかな緑陰を落とす木々のたたずまいと、かれんな笑顔を見せる草花とのふれあいのほかに、訪れる人に安らぎを与えてくれるのが北側と南側に広がる2つのローン(芝生)。その面積は、3万平方メートルをこえています。
本州以南で使われている高麗芝は北海道では育ちにくいため、西洋芝のケンタッキー・ブルーグラスやバード・グラスが主体ですが、その管理もまた大変。山形さんの最初の仕事が、このローンを含めた園内の草刈りの仕事でした。それもたった1人で。
園内の草刈りを一巡するのに1週間はかかります。もちろん、雨の降る日もカッパを着ての草刈りです。
特に念入りな手入れをしなければならないローンは、1年間に二十数回は草刈閧 オていることになります。必ず肥料をやり、芝の切れたところは新しく張ってやります。それほど大事に手入れをしていても、イチョウの下などは脂が強くて枯れやすいといいます。
刈り終えたあとのローンは特に美しい。「やあ、この芝生はきれいだなあ、と客が喜んでくれるのが、とてもうれしい」と山形さん。しかし、怖いのはハイヒール姿の女性。ぶつぶつと穴をあけて、ローンを傷めるのです。昔は下駄ばきで植物園には入れなかった。子どもにも、親が靴に履きかえさせるマナーがあったと、年配の人はいいます。
およそ360メートル四方、総面積約13万5千平方メートルに及ぶ園内の散策ルートは、正門から三方に分かれています。右の道は白い事務所の前を通って北口ーンヘ。真ん中の道は針葉樹林の中を抜けて博物館からバラ園へ。そして左の道は温室とロックガーデン(高山植物園)へと向かいます。
どのルートも自然なカーブと緩かな起状を利用して、とても歩きやすくつくられていますが、このルートを最初に決めるとき、宮部博士は十数人になんども自由に歩かせてみて、その踏み跡、つまりいちばん歩きやすいところを道にしたということです。だから、その後はこの道以外の踏み跡は皆無に近いし“新道”をつけてもだれも通りはしない―これは植物園に伝わるいくつかの伝説の1つです。
その道は、いま“さっと派”にはレッドの道標で。“ゆっくり派”はブルーの道標でルート・ガイドしてあります。
東洋一といわれているロックガーデンは、植物園の“目玉”の1つ。1936年(昭和11)に小樽市張碓(はりうす)から運んだ3千余の岩石を組み上げた中に植えた高山植物は、いまでは国外産も含めて約660種にふえています。
霧がわき、涼やかな風がわたる、そんな高山の気象条件を大都市の真ん中でつくってやらなければ彼女たちは育たない。それを、灌水(かんすい)だけで再現してやるのです。土も“ふるさと”と同じ土にし、自生していた地質年代に応じて植え分けています。
高山植物は、山では雪どけを待ちわびるようにして花を咲かせ、急いで実を結び、下界よりもはるかに早くやってくる秋にそなえます。とりわけ、ロックガーデンの春の手入れは多忙をきわめます。担当はベテランの山形さん。春一番の仕事は、1万8千近くある鉢の植え替えで始まり、そして草取り。小さな高山植物と雑草とを間違えては大変なので、ガーデンの中はほかの人には任せないといいます。
ここにはハイマツが約50本、アカエゾマツが30数本あり、昔と同じ姿にととのえるために、新芽をきれいに摘み取ってやります。木を傷めないようにハサミは使わず、爪の先で3枚だけを残して摘み取る作業は1本の木に2日もかかることがあります。とても1人では手不足。6月中は3週間、造園職員総掛かりの作業になるとか。
植物園の見どころはたくさんあります。その中でも人気のあるライラック並木は、事務所前にある日本一大きいといわれる古木をスタートします。世界各国から原生種の種子を集めて育てた40数種のライラックのコレクションの中から、株に育った十数種が150メートルにわたって立ちならび、5月末から7月半ばまで花を楽しめます。
近年、好評な北方民族植物標本園は西の奥に。アイヌやニブヒ、ウィルタなどの北方民族が衣食住、医薬、まじないにと、いろいろな分野に利用した植物184種を植えており、人間と植物の深いかかわりを伝えています。
将来はカムチャッカ、アリューシャン、シベリア、アラスカまでも北上して、規模の大きいコレクションにしたいねらいもあるようです。
江戸時代前期後半の1684年(貞享元年)に設けられた小石川療養所の薬草園を引き継いだ東京大学の小石川植物園に次いで、わが国では2番目に古い歴史を持つこの植物園は、石狩平野の自然林をいまに残し、150歳をこえるハルニレ3姉妹がそびえるなど、古木はたくさんあります。しかし、50年生前後の“壮年樹”はほとんどなく30年生以降の若い木がまた多くなっています。
それはなぜか――戦争中と戦後しばらくの間は、木を植えていなかったからなのです。
北ローンがイモ畑になっていた。防空ごうの用材に切って使った。薪が不足していたために、枯れかけた木をずいぶん切って燃やした―などの話は、当時を知る人の口からよく聞かされます。
そして、その後に襲った都市化の波。周辺のビル化は地下水を下げ、ハルニレの巨木の老化をすすめました。かつてはおびただしいサケの群れがのぼって、アイヌの住居跡がほとりにある幽庭湖の清流もかれました。5月から8月まで吹く南東の風は葉が出たころの木の大敵ですが、それにビル風が加わって乱流を起こし、木を傷めています。
「大木が1本倒れると、そこに隙間ができます。するとそこを風が吹き抜けて、その先の木が傷めつけられます。だから、そんなポケットをあけないように後継樹を育てておかなければならないのに、それをカバーできる“壮年樹”がない。植物園はいまちょっと大変な状態にある」というのは辻井達一北大助教授(農学博士)です。
それを懸命に守るのが、目立たないところで働く職員たち。山形さんはいいます。
「古い木はやがて弱って倒れる時がくる。だからいまから若い木を育てておく。時間はかかるけど、それが僕たちの仕事です」。
「北海道は、植物学的にみると非常に面白いところ」と、辻井助教授はつづけて語ります。北海道は日本の北の端で寒いといわれるが、夏はかなり気温が上がります。植物分布で見ても、北欧、中国東北部、ソ連、カナダなどの国々からは南への接点に位置しています。だから、ブナ、ミズナラ、イタヤカエデ、シナノキ、カツラなど温帯性の木とエゾマツ、トドマツ、シラカンバといった亜寒帯性の木が混ざっていて、欧米人も驚くほど、世界の中でも木の種類の多い。つまり、北海道は北方植物の宝庫なのです。それを北海道を中心に集めて系統保存しているのが北大植物園です。大学の研究・実習に活用しているほか、社会教育的サービスを果たしています。
「以前は庭園的景観が喜ばれましたが、このごろは湿原や高山植物、野草に関心を寄せる人が多くなりました。このような時代の流れにもこたえていきたい」。そして「単に博物館的な機能を満たすのではなく美術館的に、より美しく魅力的な科学の場につくりあげたい」。
よい緑を見て目を養い、北海道にこんな樹木があったのか、こんな草花があったのかと植物への理解をもっと深め、暮らしに役立て、心の糧にしてもらえたら―それが辻井助教授のねがいなのです。
灌 木
カマツカ、エゾユズリハ、ナニワズ、フッキソウなど百数十種が見られます。とくにライラックはヨーロッパ東部、アジアのものに栽培種を含めて40数種類が集められています。
草本分科園
ハッカ、トウヒ、キキョウ、ラベンダーなど、北海道によく育つ代表的な多年生草本・48科180種が植えられています。
幽庭湖
約1万平方メートルある植物園の池は幽庭湖とよばれていますが、水はいまかれています。ミズバショウ、ザゼンソウ、エゾノリュウキンカ、グリンソウ、ガマ、アキタブキ、ポロナイブキ、キショウブ、バイケイソウといった湿地の植物がみられます。
バラ園
水蓮の池を中心に、南側にはクライミング・口ーズ、緑のローンのなかにはブッシュ・ローズが咲き、園芸種ばかりでなく野生種も集められています。6月末から秋の終わりまで、色とりどりの品種を楽しむことができます。
北方民族植物標本園
アイヌ・ニブヒ・ウィルタなど、北方アジアの諸民族が衣食住薬医の分野で利用した植物184種類を科別に配植。民族の知恵とくらしがしのばれます。
エンレイソウ園
エンレイソウはユリ科の多年草。染色体の数が少なく大きいことから、形態学、細胞学、遺伝学などの実験、研究材料としてよく用いられます。ヒマラヤ、中国、日本から北アメリカにかけて分存しますが、北海道にはとくに多く見られます。
高山植物園(ロックガーデン)
面積約5千平方メートル、大雪山の峰つづきにそびえるトムラウシ岳の八合目あたりの風景を模しています。国内産、外国産合わせ660種類もの高山植物が、蛇紋岩、石灰岩、火山層、湿地という成育地によって区分されています。
温室
ラン室3、観葉植物室5、草花室2、多肉植物室1、栽培室1に分かれ、バナナ、パイナップル、コーヒー、ハイビスカス、ブーゲンビリアなどの熱帯植物をはじめ、800種の花々が楽しめます。ランコレクションで知られています。
博物館
ヒグマや、1890年ころに絶滅したといわれるエゾオオカミの標本をはじめ、4万点にものぼる動植物や考古学資料を所蔵。明治初期の代表的な洋風建築物です。
バチェラー記念館
アイヌの文化的向上に生涯をささげたジョン・バチェラー博士の住居だったもので、アイヌ、ニブヒなどの北方民族の資料を展示していましたが、建物の老朽化で閉館されたのが惜しまれます。
〒060-0033 札幌市中央区北3条西8丁目
TEL(011)221-0066
休園日 月曜日、年末年始。ただし冬期間(11月4日~4月28日)は温室のみ
入園料 おとな250円 こども50円(冬期間温室のみ50円)
駐車場 外来者用の駐車場はありません。
北海道大学の前身、札幌農学校が創立されたのは1876年(明治9)。翌年の1877年発行の札幌農学校第1年報で教頭のクラーク博士は植物学や園芸学の教授のため植物園が必要と力説、構内の一部をその用地にすべきと主張しています。
そのころ、開拓史は園芸奨励の目的で、お雇い外人ボーマーに命じて北4条西1丁目に温室を作らせ、西洋の草花の栽培を始めていましたが、農学校が温室の新設を要求してきたので、この温室と付属地1,188平方メートルを農学校の所管に移しました。そこで、この温室と校舎敷地の一部を使って植物園を新設する計画がたてられます。北海道産の樹木や草花の苗、種子の収集も始まり、1880年ころには北海道産の樹木が70種集められます。
その後、現在の植物園の場所の土地約5万平方メートルが札幌農学校に移管されたので、ここに植物園を作ることになり、農学校の助教であった宮部金吾氏(後に初代植物園長)を中心に、1886年の雪解けとともに測量を始め、1885年10月には、旧植物園(北4条西1丁目)からの樹木や温室の移転が終わります。
園地も、周辺の土地の移管がすすみ、1891年ころには、現在の植物園の区画にほぼ相当する約11万5千平方メートルに拡帳されます。これらの土地がいかに植物園に適していたかを、宮部氏は次のように述べています。
「園内には泉源あり、清水は滾々として湧出し、かしこに清流となり、ここに池塘を作り、以て頗る風趣を添へた。加ふるに地に高燥なるあり、低湿なるあり、以て各種の植物を栽培するによく適してゐる。且この園内には札幌の処女林の一部が最も完全に保存せられて居ったので、市井の地区としては他に見るを得ざる幽邃清雅の境地もあり、植物園として絶好の地と称すべきであった。(『宮部金吾』岩波書店、1953年)
樹木、草本の収集も精力的にすすめられました。1884年の夏、宮部氏は北海道東部と南千島へ3ヵ月にわたる植物採集旅行に出かけています。東京大学付属植物園や、ハーバード大学付属アーノルド樹木園(アメリカ)、チョーセン樹木園(ドイツ)など内外の植物園との種子交換も行われ、開園当時は430種ほどであった園内の植物は、4年後の1890年ころには1千種をこえました。園内は自然分科園、樹木園、灌木園、温室付属園、試験園(苗圃)に区分されました。