ウェブマガジン カムイミンタラ

1985年07月号/第9号  [ずいそう]    

少年と山
大久保 尚孝 (おおくぼ なおたか ・ 北海道中小企業家同友会・専務理事)

私の故郷は、神奈川県の農村である。少年期の思い出は、相模川の河原から堤防にかけて繰り広げた“いたずら”の中にある。その背景には、手前に大山(おおやま)、その後ろに富士山があった。季節の移り変わりは、山の色の変化からはじまった。

大山が黒みをおびた灰色にかすみ、富士山が真っ白くなると2月。子どもたちは堤防の土手に火を放って枯れ草を焼いた。それは、春を待ちこがれる子どもたちが、若草の芽に合図をおくる行事だった。富士山にもその煙にこめた思いが届くかのように、真っ白な衣が少し汚れはじめる。すると、土手の日当たりがいちばんよいところに土筆(つくし)がそっと顔を出す。子どもたちは目ざとくそれを見つけて「ワーイ、ツクシだ。ツクシが出たぞ!」と、部落中にふれまわる。冬の間、霜柱がたって日中はべたべたに融け、転んでは泥んこになってカーチャンに叱られる。腕白坊主にとって、土筆は救世主の使者であった。

土筆、タンポポ、ヨモギと摘み草が変わって、大山にも緑がかった青がよみがえり、富士山も少し赤みをおびた青に衣をかえる。そのころになると、おとなたちは野良仕事に追われて、子どもが摘んでくる草花にいちいちかまってくれなくなる。子どもたちは、山が夕焼けに燃え、黒い影となるまで河原や土手や林の中を駆けずリまわった。空腹を抱え、息もたえだえにわが家にたどりつくと「今ごろまでなにをしているの!」と、カーチャンにどやされる。ちょっぴりこわいけれど、その声が元気ならうれしくもあった。

私は青い山が好きだったけれど、Iさんが「久しぶりで旭川に帰ってきたとき、あの真っ白な大雪の姿を見たら、涙がこみあげてきた。もう、この山と別れるのはいやだと思った」と話していた。Iさんは、横浜国大を出て、さる大企業に就職し、将来を嘱望された人だったが、あっさり職場を捨てて、家業の材木店を手伝った。「母親が細腕1本で兄弟3人を育ててくれた。子どものころ、母は『大雪のようなたくましい男になれ』と励ましてくれた。大雪は僕にとって、おやじみたいなものでしてね…」とのことだった。

大雪に出会うたびに、30代の働き盛りに事故でこの世を去ったIさんのことが思い出される。人それぞれに、身にしみるような懐かしい山を持っているのだと思う。

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