いま「ふるさと」という言葉がもてはやされていると思う。“ふるさとの味”“ふるさとの香り”などというキャッチフレーズのついた商品や記事を、よく目にするし、耳からも入ってくる。
ハイテクノロジーな時代の反動なのだろうが、それは人の心をくすぐるし、好感を持たれる言葉のひとつになっていると思う。ところで、「ふるさと」というキャッチフレーズから、人はどんなイメージを持つのだろうか。“手づくり”“ぬくもり”“なつかしさ”などだろうが、商品などの場合は機械化のカモフラージュに使われていることが少なくないようだ。
「ふるさと」という言葉から、人はある種の良い情景をイメージしているのだ。それは、その人にとって、まことに都合のよい情景というか、気持ちのよい情景で、だからみんな「昔は良かった」と口にすることができるのだろう。イメージというあいまいさで、いま“なんとなく、ふるさと”なのだ。
私は、イラストレーションとよばれている絵の中で、このあいまいな「ふるさと」を題材にしている者なのだが、ときどき「ふるさとは絵の中にしか生き続けていないのではないだろうか」という想いにかられることがある。
「ふるさと」の風景とは、木々が繁り、花が咲き、わらぶきの家がある。そこに登場人物として、頬かぶりをしたお年寄りが、のんびりマキ割りなどをしている。庭先ではニワトリがエサをつついている。そして、空はうっすらあかね雲――こういうことだろうが、そんな都合のよい情景など、いまどきあるはずがないのである。わらぶきの家はあっても、人は住んでいない。住んでいるなら、窓はアルミの2重サッシがはまっているし、テレビのアンテナが屋根にのっていたりするのだ。絵にしようとするなら、余計なものは取りはずせるし、好きな人物を登場させることもできる。私はそのように、あちこちで取材したものをもとに、演出することによって「絵としてのふるさと」をつくっているということになる。多くの人びとの郷愁につながる絵をつくりたいと思っているのだが、それは現実の日々の中で、ある種のいたみを伴う作業でもある。
「ふるさと」は、人のイメージの中で、あいまいに生き続けるのが、いちばん良いことなのかもしれないとも思っている。