「北海道には民謡文化がないって言われてるんですよ。たしかに北海道発祥の民謡はないけど、200年も前や、明治になって人の往来や入植者がぐーんと増えてきたころになると、その人たちは、本州の民謡をそのまま持ってきて歌っていたんですね。それがいまは本州の方にはないけど、北海道には残っているんですよ。それだけでないのさ。北海道には本州の元唄がいろいろに変化した民謡(うた)がたくさんあるんですよ」と話すのは、1960年(昭和35)から函館市湯浜町で民謡道場「基声会」(TEL:0138-53-1098)を開設しているキングレコード専属歌手の佐々木さんです。
「函館の人は、いまでも長万部から東の方を奥地と言います。北海道が蝦夷地といわれていたころは、松前を中心に函館、恵山など渡島半島の東側を下海岸、上ノ国、江差など西側を上海岸と呼んでいた。人がたくさんいて、開けていたのはそこまで。だから、渡島地方にはたくさん民謡が残ってるんです。それより奥は、アイヌの人たちの住んでいる土地くらいに思っていたんです。じゃあ、そこには民謡がないかといえば、そんなことはない、あるんですよ。まずアイヌ古謡がありますよね。明治になって開拓が進みだすと、樺戸集治監などの受刑者が道路開削などの土方(どかた)(工夫)として働かされていた。そこで歌われていたのが『バッサバサ節』で、『監獄節』とか『監獄囃子(ばやし)』といわれる民謡なんですよ」。
佐々木さんは、1952年(昭和27)ごろから北海道の民謡の掘り起こしと普及・保存をはじめました。かれこれ半世紀前のことになります。
「NHK函館放送局の故高井重治ディレクターが、道南地方のお年寄りの歌の録音盤を持ってきたんですよ。放送用に集めた郷土民謡の資料なんですね。わたしは5歳の時から民謡を歌ってたもんだから、懐かしい歌がいっぱいあるんですよ。すっかり興味がわきましたね。ちょうど市立図書館の郷土史研究会が道南の民謡を調べてたもんだから、誘われて活動をはじめたんです。高井さんとわたしは、電波の届かない道内の郡部にまで足を伸ばし、「演芸の夕べ」なんかを無料で開いてね。1958年(昭和33)ごろのことだから、若いもんの初任給の2倍もする高価な“デンスケ”(携帯録音機)を買って、その地方のお年寄りを訪ねて行き、古くから伝承されてる民謡を聴かせてもらったんですよ。ヤミの合成酒なんかをぶら下げて行ったりしてね」と笑います。しかし、そのときの掘り起こしが、のちの調査にもおおいに役立ったのです。
「“歌は世につれ、世は歌につれ”と言いますが、だれ歌うともなく民衆の中に生まれた民謡(うた)は、その時代に生きた人びとの思いが込められてるんですよ。その心を残してやりたくてね。」と、佐々木さんは伝承民謡収集の苦労話を語ります。
「北海道の民謡は、とかく道南から後志地方の海岸線に伝承されているのが目立つけど、道央、道東、道北などの内陸地にも、海岸地帯にはないような労働歌がたくさん残ってるんですよ。石狩地方には『北海土方節』『道床つき固め音頭』、札幌や白糠、日高・三石などには『もんきつき唄』。空知地方では伐採した木材を山から運びだすときの『薮(やぶ)出し歌』や、各地の造材現場で木挽(こびき)職人によって歌われた『北海山子(やまご)唄』『北海山唄』、上川町や陸別町の『木遣(きやり)音頭』、日高・三石町の『手落とし木遣唄』などがあるんです。また農村地帯の『田植え歌』、炭鉱地帯の『北海炭坑節』(のちに「北海タント節」)。紋別・鴻之舞鉱山の『チンカラ節』(のちに「北海金掘り唄」)『金山節』、そして釧路、根室の缶詰工場で歌われた『女工節』。そのほか、小樽を経由して炭鉱地帯や農村部の各地に定着した『北海盆唄』なども収穫祈願と慰安を託して歌い継がれてるんです」。
「それにしても、北海道の民謡の宝庫は、圧倒的に渡島沿岸から積丹、小樽に至る海岸部ですね。『江差沖揚げ音頭』(道指定無形文化財)はニシン漁場労働の実際の姿を忠実に、素朴に伝承している歌で、「出船―網起こし―切り声―ニシン沖揚げ―子たたき―帰り船」にまとめられてます。このなかの『網起こし』は『松前木遣』と呼び、ニシンが豊漁のときは網が起こしきれなくなり、船頭が『切り声音頭』で舟子(せこ)の士気を奮い立たせるんです。そして、枠網の中で銀鱗を躍らせるニシンを沖合で汲み上げるとき、拍子を取りながら歌う『沖揚げ音頭』が積丹半島の美国などの漁港に持ち込まれて、あの勇壮な『ソーラン節』となったんですよ」。
「『江差追分』(道指定無形文化財)は、信州中仙道・北佐久地方の馬子歌が宿場の飯盛り女や、瞽女(ごぜ)と呼ばれる盲目の旅芸人などが三味線にのせて歌うようになり、それが『越後追分』となって馬子唄から海唄になり、さらに北前船で松前へ渡って、『松前節』となって根を下ろしたんです。それは、いまからほぼ250年前の宝暦年間のことなんですね。天明年代(1780年代)になると、北前船の発着地となった江差が繁栄に向かい、旅芸人も盛んに渡ってくるようになりましたね。そんな人たちのなかに美声の評判が高い、佐之市という座頭(ざとう)がいて、すでに歌われていた『松前謙良節(けんりょうぶし)』や『松前三下がり』などの口説節(くどきぶし)と合体させて、北海の荒波を思わせる情緒豊かな『江差追分』に大成させたといわれてます」。佐々木さんが江差追分会の師匠の免許を取得したのは1971年(昭和46)9月のことです。
「座頭さんや瞽女さんたちは、プロの歌い手です。そのプロが歌う民謡が『口説節(くどきぶし)』なんですよ」と佐々木さんは言います。そして1960年ごろから道内に埋もれていた口説節を数多く発掘し、乱れていた歌詞や節を整え直したのです。
『口説節』とは長編の物語歌のことで、よく知られているのに上州の侠客(きょうかく)・国定忠治の行状を歌い込んだ『八木節』があります。また、江戸時代の天保年間、新宿で起きた遊女白糸と武士・鈴木主水(もんど)の心中事件や、八百屋お七の物語を歌って、各地に流行した瞽女歌などがあります。
佐々木さんが掘り起こした『道南口説』も、初期は『下海岸口説』などと呼ばれて、そんな物語が歌われていました。そのうちに、恵山から函館までの名所名物を歌い込んだ歌詞が生まれました。佐々木さんが1964年にレコーディングしたのは、その歌詞です。
道南口説 (口説節・祝福芸の歌)
オイヤ 私しゃこの地の荒浜育ち
声の悪いのは親ゆずりだよ
節の悪いのは師匠ないゆえに
ひとつ歌いましょ はばかりながら
オイヤ 上で言うなら矢越の岬よ
下で言うなら恵山のお山
登り一里で下りも一里
恵山お山の権現様よ
オイヤ わずか下がれば湯茶屋がござる
草鞋腰に付け椴法華通りゃ
恋の根田内 情けの古武井
思いかけたる あの尻岸内
(中略)
オイヤ 着いたところは湯の川村よ
さても恐ろし鮫川ござる
おまえ砂盛り わしゃ高盛りよ
ついに見えたよ 函館の街
今夜の宿りは新川茶屋で宿る
「やっぱり、いちばん苦労したのが『道南口説』だね。母の実家の近くの巫女(みこ)さんだった、ばっちゃんから聴いたのが、あの語り物だったのさ。ぜんぶ聴いたら30分もかかるんだよ。40種類くらいあって、整理がつかないほどさ。恵山から函館まで、目の不自由な女の人が、漁村を門付けしながら旅をして、景気のいい人、苦労している人の心を慰めていく。そんな情景が浮かんできてね。その人たちの思いを、長く伝え残したいと思ったのさ」と佐々木さん。
佐々木さんが全道各地で発掘したり、整理した民謡は30数曲になるといいます。その曲への思いのすべてを込めるようにして、1998年10月、函館空港の近くに『道南口説節の碑』を建立したのです。
「瞽女歌のなかに『道南ナット節』というのがあります。歌詞を聴いてください、カッコーいいんだから」と佐々木さんは、もうひと節、熱を込めて歌ってみせます。
道南ナット節 (口説節)
(ハア ナットナット)
浪の花散る北海を
思い出したらまたきてね
木彫の子熊を伴にして アリャ
ご無事で内地へ戻りゃんせ
誰に買われて行くのやら
おばここけしが片えくぼ
知らぬ他国でふるさとの アリャ
夢見て泣くだろ あけくれに
来年来るやら来ないやら
来てもまた逢うやら逢えぬやら
私ゃ深山の水車 アリャ
花咲く春まで くるくると
当時の和船では最高といわれた、千五百石積みの辰悦丸を持ち船にして函館で回船業を営んでいた高田屋嘉兵衛が、エトロフ航路を開いた1802年(享和二)ごろ、幕府は東蝦夷地を直轄したことで経済の中Sは函館に移りました。それからのほぼ30年間、造船業をはじめ、北洋漁場の経営、蝦夷地産物売捌方(うりさばきかた)として繁栄を極め、豪商の地位を不動のものにしていました。
「高田屋嘉兵衛は、家のお父(とっ)ちゃんが一人で出稼ぎに来ていると、お母(か)ちゃんや子どもも呼び寄せ、なにがしかの働きをさせて給金を払ってやったんだとさ。だから、みんな景気良くて、ますます人が集まり、たいへんな繁栄だったって言うよ」と佐々木さん。
その高田屋嘉兵衛は、1833年(天保4)、ロシア船との幟合わせの罪で持ち船を没収されて故郷に追われ、漁業と海運業の繁栄は江差港に移ります。1840年(弘化年間)ごろ、出船3千、入り船3千、船主たちは一航海2千8百両といわれる大商いを競っていました。当然、船頭をはじめ、船方(せこ)たちの実入りも大きく、港に船が着くと、船頭が若い衆に小判の詰まった銭箱を担がせて花街に繰り出したといいます。その座敷に招かれて、酒宴をいっそう盛り立てるのが瞽女や座頭など旅芸人の洗練された芸だったのです。
「瞽女さんは室町時代からの芸人で、文字が示すように、鼓を打って「曽我物語」などを語って聴かせてたらしいんですね。江戸時代になると、新潟県などには諸国を巡業させて金品を稼ぐ大きな組織ができたんですよ。函館はそんな芸人のいい稼ぎ場所だったんですね。巡業を終えて郷里の瞽女宿に帰ると、持ち帰った金品を親方がぜんぶ集め、そこからそれぞれに給金を払う。もちろん、自分もがっぽり懐に入れ、残った一部を上納金として殿様におさめるんです。加賀藩では鑑札を発行して「天下御免」で巡業ができるようにしたり、瞽女屋敷を与えるなどして保護に努めたということですね」と佐々木さん。
「瞽女さんたちは、小(ちい)っちゃいうちから修業に出されて、きびしく仕込まれんだって。それは、からだに障害のある女性が自活していくための修業でもあったんでしょうね。だから、その芸はすごくレベルが高く、しかも哀調を帯びてるんですよ。それが、人の心をうつんですよ」
当時、見果てぬ蝦夷地に渡ってくるのは、一獲千金の夢に賭ける人、郷里では分け与えられる田畑もなくて自分なりに生きる道を見い出さなければならない人、田植えが始まる前のニシン漁で出面賃(日雇い給料)を稼ごうとするやん衆、それらの下働きや女仕事につくためにやって来る女性たちなど、さまざまです。海を渡る船は大小ありますが、日本海や津軽海峡の荒波を枕に眠ってしまい、ふとカモメの鳴く声に目覚めて彼方を見ると、大千軒岳の山影が目に入るのです。新しい働き場所への期待と不安、郷里や家族と遠く離れた望郷の想いが胸を締めつける―。だれもが、いちどはそんな想いを抱いたことがあるだけに、瞽女の歌う口説節はいっそう身にしみる想いで聴き入ったのでしょう。
北海道の民謡には、切々たる恋歌やユーモラスなラブコールの歌、粋な艶歌もたくさんあります。とくに『江差追分』には、町内の津花町に住む船頭や漁師によって歌われた「浜小屋節」や、詰木石(つみきいし)地区に住む職人や馬方などによって歌われた「詰木石節」とともに、花街の芸妓たちによって三味線、太鼓、鼓、尺八、琴なども伴奏にして歌われた「新地節」があります。2千種以上もあるといわれる歌詞のなかには、それぞれに荒い海の仕事に生きる男女の心を寄せ合う詞がちりばめられているのです。
江差追分の一節から
(前唄)松前江差の津花の浜で
好いたどうし泣き別れ
連れて行く気はやまやまなれど
女通さぬ場所がある
(本唄)蝦夷地海路にお神威なくば
連れて行きたい場所までも
(後唄)うらみあるかよお神威さまよ
なぜに女の足とめる
*お神威さま=積丹・神威岬のこと。かつてここから奥地へは女人禁制とされていた
*場所=初期はアイヌの人たちとの交易の場所。のちにはニシンなどの漁場のことに。
いやさか音頭
(漁網に着いた数の子をたたき落とすときの唄)
姉こ こちゃ向け かんざし落ちる
(ハア イヤサカサッサ)
かんざし落ちない ナア顔見たい
アリャ顔見たい 落ちないナア
顔見たい(ハア イヤサカサッサ)
来いちゃ恋ちゃで 二度だまされた
またも来いちゃで ナアだますのか
アリャだますのか 来いちゃでナア
だますのか(ハアイヤサカサッサ)
また、豊漁を祈願して、威勢よく歌う民謡もあります。
チョイサ節(祭り・祝い歌)
大漁手拭いきりりと締めて
どんと起こせば百万両
飲めや大黒 歌えや恵比須
仲をとりもつ福の神
その一方で、過酷な労働と待遇の悪さを嘆く歌も多いのです。その代表的な歌が、函館に残る数え歌『雇い口説』です。その歌詞は「うそで丸めた雇いの口説」で始まり、「実のあるみそ汁も食わせず、夜昼なく働かせ、定めた9対1の分け前も、ろくに勘定をしてくれない。悔しい雇いの身分よ、憎らしいこの屋の雇い主よ」と恨みの限りを歌い、一座はドッと笑い転げるのでしょう。
「だけど、明治末ごろから、根室のカニ缶詰工場の女子従業員たちが、『ナット節』を元唄にして歌ってた『女工節』は、とても笑って聴き流せない」と佐々木さんの顔が曇ります。
缶詰所節(女工節)
朝は三時から起こされて
夜は十二時まで夜業する
足が痛いやら眠いやら
思えば工場がいやになる
高い山から工場を見れば
工場の様子は良いけれど
三度の食事はお決まりで
わかめに切り干し菜っ葉汁
佐々木さんは、北海道の民謡を海外に紹介する活動にも熱を込めています。ブラジル、アメリカ、スペイン、ドイツ、ロシア、中国、モンゴル…、歌があれば世界は一つなのです。佐々木さんが初めてブラジルに行ったのは、日本人移民60周年を翌年に控えた1978年のことでした。
「夜の1時まで歌い、仮眠して何百キロもバスで移動して次の公演地へ急ぐ。そうやって7都市回ったんですよ。5千人の聴衆で膨れあがった公会堂は、3時間半の公演中、拍手が鳴りやまないんですよ。老人ホームでの慰問のときも、『江差追分』を歌うと一世のお年寄りのあいだから号泣する声が聞こえるんです。最初の移民を運んだ笠戸丸が入港したサントスの街では、お年寄りが言うんですよ。『日本が恋しくなると港の海水に手を浸して“この水が日本につづいているんだ”と思って泣いた』って言うんですよ。わたしの歌は、このときから変わりましたね」と言い切ります。
「歌という言葉は“訴える”からきてるって言います。わたしは信仰心は薄いが、民謡を歌っているとわかるんです。神というか、人の知恵を超えた神秘というか、自然に対する尊敬の思いを歌う民謡は、神に近い言葉でうたう歌なんだと。いまの民謡は、コンクールで順位を競うための歌になっていて、声の良し悪しや節回しのテクニックにこだわりすぎてます。母親がわが子に語りかけるように、聴く人の心にノックをするように心を込めて語る、そのとき、言葉は民謡になるんですよ」と、佐々木さんは語るのです。『佐々木基晴民謡連合』家元、日本民謡協会名人位。地元・函館市文化賞、芸術祭賞優秀賞(大衆芸能部門)、江差追分ブラジル支部結成に力を貸し、ブラジル最高文化勲章も受けています。
吉田 昭穂さん
北海道教育大学名誉教授
北海道民謡連盟最高師範・専任講師
北海道教育委員会は、1987年から2年間にわたって北海道の民謡を調査、私も調査委員の一人として参加させてもらいました。
北海道にはアイヌの人々が伝承するアイヌ民謡と和人の間に歌われて民謡があります。そのひとつ、通常、北海道の民謡と呼ばれるものは、やん衆などの出稼ぎ者や移住者、旅芸人などによって、故郷の唄、本州各地で歌われていた唄が持ち込まれ、熟成されたものといえます。
北海道は、近世になって昆布やニシン、サケ・マス、俵物(いりこ、干しあわびなどの輸出品)の海産物や毛皮、鷹、木材、金山などの豊かな資源にめぐまれ、北前船などによって往来や移住が盛んになりました。「人の集まるところ必ず歌がある」の言葉どおり、豊漁や商いの成功の時は祝い唄や座礁の唄に喜びを爆発させたのです。また、「松前、江差の春は江戸にもない」といわれたように景気がよくなれば座頭や瞽女などの旅芸人がやってくるようにもなりました。その人たちは江戸などで流行している『ラッパ節』や新潟その他の地で歌われていた『口説節』などを持ち込むようにもなるのです。南茅部町に伝わる『鱈釣り唄』は、明治期に座頭が伝えたと町史に記述されていますし、『越中小原節』(富山)や『ホッチョセイ節』(岐阜)や九州の民謡などは瞽女さんが残しています。
その一方、過酷な北辺の地で生きることの苦しみをこらえる心の支えとなったのは、子どもの時から聴き、歌い親しんできた故郷の歌です。私が道内の民謡を集める調査をしていたとき、80歳くらいのおばあさんが「こんな北海道の厳しいところに一攫千金を夢見てやって来た。そして、ひと旗揚げたら帰ろう。錦を飾って帰ろうと思い、気がついたらこんな年齢ですわ」と言って大笑いしていました。洪水、冷害、昆虫の大発生などに痛めつけられる開拓者を勇気付けたのは、ふるさとの歌であり、獅子舞などの郷土芸能だったのです。そうした厳しい自然や激しい労働と望郷の思いの中で歌われ洗練されたのが、世界的カンタータといわれる『江差追分』であり、豪壮な労働歌『ソーラン節』なのです。
一方、『十勝馬子唄』『秋あじ大漁節』『北海道酒屋歌』『船漕ぎ流し唄』など北海道の新民謡といわれる唄もたくさん誕生しています。また、『北海盆唄』『北海よされ節』などのように、故今井篁山その他の人が編曲したものもあります。
半面、本家の淡路島南淡町では失われた『五尺節』が日高・三石町に残っているなど、北海道の民謡は新しくて古いという特徴を持っています。少しでも多くの人が北海道の民謡を歌ったり耳を傾けながら、その時代に命を張って生きた先人の心に触れてほしいと思っています。