―およそ山岳が一国の地文および人文に影響することの大なるは、今にわかに説くまでもない。日本の文化は近畿・中国の山脈間に、インドの文明は雪嶺山下に発達し、中国の美術は北嶺の秦嶺(チンリン)間に、ギリシャの芸術はピントス山脈の峡間に起こり、イタリア、フランス、ゲルマン諸邦はみなアルプス山下に強国を成した。ことに日本は山岳国中の山岳国にして、名山の森列は世界に比べるものなしと称せられる。わが国幾千年の歴史は、国内を縦横脈絡する巨人の足もとの演劇ともいえる。いやしくも、地人の道を極めんと欲する人で山岳に入らないものはいない。欧州アルプスは科学、文学、芸術、諸方面の研究の中心点である。我が国の山岳は高さにおいてアルプスに及ばないが、山脈の絶大観はアルプスに譲らず、百般の変化はアルプスを超えると称される。しかし、一般邦人は山岳の知識を欠き、山岳地理の書類は外国人の著述から転載するものが多い状態なのは、わが国学界の不備といわざるを得ない。
山に立つとは絶対の一端にたたずんで絶対の秘奥をうかがうことである。山は不朽の寿を有する理想の巨人である。これを謡い、これを究めることは永世の大業である。まず、山岳に関する考察記事を網羅し、山岳趣味と知識の啓発を担う雑誌の発刊をめざすが、それだけに止めず、登山者の宿泊小屋を建て、登山新路を拓き、全国の山岳案内記の出版、各登山者間の連絡網づくりなど国民的事業の大成を果たさんと欲する。そのため、趣味を同じくする多くの人の結集する「山岳會」設立に、大方の賛意を懇請するものである―。(現代文に要約)
この引用文は、1905年(明治38)4月に発表された「山岳會」設立発起人による『主旨書』の一部です。この年から遡る49年前の1857年、イギリスで世界最初の登山団体であるアルパインクラブが設立しており、発起人はその活動を視座にして日本山岳會の発足をめざしたのです。その後、日本山岳會は、所期の理念どおり、わが国の近代山岳技術の向上と山岳文化の発展をめざす活動を展開し、全国に会員を広げてきました。
それから63年後の1969年、北海道も81人の会員をようし、『日本百名山』の著者として知られる深田久弥さんの強いすすめによって、同年7月20日に日本山岳會北海道支部が誕生したのです。以来、夏冬の山行や技術研修会の開催、海外登山隊への募金運動への協力など北海道の山岳文化の形成に大きな役割を果たしてきました。今年はその30周年、各種の記念事業が催されました。
いまは「海の日」の祝日となった7月20日午後3時から、りんゆうホール(札幌市東区北9条東2丁目)で記念祝賀会が開催されました。
ホール壁面には、北海道支部の活動に貢献した今は亡き先達の写真パネルと、現副支部長の高澤光雄さんが所蔵する書簡などの遺品や資料が展示されました。写真パネルの最初は、南極観測事業に貢献し、月刊誌『山とスキー』を創刊、支部設立に尽力した、日本山岳會名誉会員の加納一郎さん。次いで、日本山岳會マナスル先遣隊長としてネパール・ヒマラヤを踏襲し、日本山岳會第12代会長・名誉会員であり、「私は磁石の針のようにいつのまにか北を向いている」と言って北海道の山を愛した今西錦司さん。日本山岳會の支部担当理事として北海道支部設立に導いた深田久弥さん。冬季登山技術を確立し、南極・ボツンヌーテン峰登攀、北海道大学遠征隊長としてチャムラン峰(7319メートル)に登頂し、初代支部長となった中野征紀さん。北海道大学山岳部を創立し、農学博士で詩人であり、第2代支部長で名誉会員の伊藤秀五郎さん。1927年にトムラウシ山の冬季初登頂を果たし、ネパールにスケッチ山旅した農民画家の坂本直行さん。アウトドア用品の店・秀岳荘を創業し、山スキーの開発や北海道の山岳文化の発展に寄与した金井五Yさん。日本銀行札幌支店長のあと北洋銀行頭取となり、第3代支部長の任期中に日高山脈神威岳で遭難死した大塚武さん。初めてイグルーを用いて日高山脈の札内岳からカムイエクウチカウシ山までの厳冬期初縦走を果たし、第4代支部長、名誉会員、理学博士の橋本誠二さんの9人が居並びました。
祝賀会は、この9人を含む物故会員全員に黙祷を捧げたのちに始まりました。
第1部は日本山岳會創立90年記念制作のビデオ『先人を讚え 山を究める』を上映したあと、北海道支部海外委員の大内倫文さんが『北海道海外登山のあゆみ』と題した講演。約50枚のスライドを使い、細密な資料から北海道岳人の高度別登頂成功例を示しました。それによると、8000メートル峰には7回挑戦し、3回成功しています。
その1は、1981年の北海道大学山の会のダウラギリ I 峰(8167メートル)。これは世界で初めての冬季登頂。その2は、1996年に札幌中央勤労者山岳会がチョー・オユー(8153メートル)に中国側から8人全員登頂の快挙。その3は、1998年に札幌北稜クラブを母体にした隊のダウラギリ I 峰の成功でした。道内女性登山者では、1974年にえぞ山岳会の森美枝子さんがマナスル(8156メートル)に女性で世界初の8000メートル峰に初登頂。1996年、支部会員の眞嶋花子さんも田部井淳子さんとともに国際隊に参加してチョー・オユーに登頂しています。
また、7000メートル峰へは28隊が挑み、4つの初登頂を果たしています。その1は、1962年に初代支部長の中野征紀さんを隊長とする北海道大学山岳部がネパール・チャムラン(7319メートル)に初登頂。その2は、1979年に北海道大学山の会によるパキスタン・カラコルムのクンヤンチッシュN(7200メートル)初登頂。その3は、同79年の北海道山岳連盟がカラコルムのプマリ・チッシュ(7492メートル)に初登頂。その4は、1992年に北海道大学山の会がチベット国境近くの幻の山、ネパールのヒムルン・ヒマール(7126メートル)に初登頂しています。これは新しい地図から存在を見つけ、緻密な計画のもとに成功させたものでした。
祝賀会の第2部は30分の休憩のあと、午後5時から同じホールで開催されました。
まず、現支部長(第7代)の新妻(にいづま)徹(とおる)さんがあいさつに立ちました。
「ステージの横断幕には『創立』の文字を入れていません。その理由は、1923年(大正12)に加納一郎さん(会員番号634)が在道の日本山岳會登録会員を中心に北海道山岳会を設立し、実質的な山岳クラブ活動を展開したときに始まります。しかし、日本山岳會が設立当初から1931年までは発起人が当番で世話役を担当して会長制をしかなかったため、北海道山岳会もその精神を踏襲し、質の高いサロン活動は会長がいなくてもクラブ会員の誠意で運営できるとの考えから、加納さんが幹事の立場で理想的なクラブライフを運営していたと聞いています。したがって、1969年7月20日は再スタートの日との考えから『創立』の文字を使わないことにしたのです」と語ったあと「よりいっそう人脈を増やし、和やかなクラブにしていきたい。考えは全地球的に(think globaly)活動は一歩一歩着実に自分たちの地方で(act locale)でいきたい」と抱負を示しました。
来賓あいさつでは、第20代日本山岳會会長の大塚博美(ひろよし)さんが「日本山岳会は個人加盟のクラブ。平等で、自己の責任で山の好きな人が集まる会なので、会長はクラブサーバントとしてさまざまな行事に奉仕し、会員の楽しい、若い人の活動しやすい場をつくることに協力する役目だと思っています。私の役割は創立100周年の土台づくりです。これを契機に何をするか、21世紀に向けてどんな夢と希望をもって進むか。それを考える委員会がスタートしたので、活発な行動とメッセージを寄せていただきたい」と呼びかけました。
北海道山岳連盟会長の阿地政美さんは「手もとに1955年発行の赤い表紙の『山日記』(日本山岳會刊)があり、私の唯一の山のテキストでした。橋本誠二さんから依頼されて『北海道大百科事典』(北海道新聞社刊)の山の項目のいくつかを書きましたが、橋本さんが丁寧に添削修正してくださった。その元原稿が今も手もとに残っています。その真摯で誠実な姿勢に素晴らしさを感じたものでした。今年、道岳連はマナスルとエベレストに登山隊を送りだしますが、日本山岳会が物心両面に協力してくれています。隊員は人間の生存限界を超える場所に出向くのだから挑戦する気持ちを大切にして、先人の足跡をたどりながら帰還することが、みなさんの期待に沿うことと万全を期しています」と、頼もしい決意を述べていました。
ここで待望の乾杯です。第5代支部長の小須田喜夫さんが、会員の一原有徳さんの版画を染め抜いた記念手拭いで鉢巻きをし、グラスを高くかざして音頭をとりました。
テーブルにデザートが運ばれ、酔いに染まり始めるころ、司会の長谷川雄助さん(支部事務局長)がテーブルスピーチの予定者をステージに呼びだしました。早くも各テーブルの歓談は盛り上がり、とてもテーブル上のスピーチでは声が届きそうもないという配慮からなのでしょう。
最初に今西錦司さんの娘・河村皆子さんから届いたメッセージが代読されました。
「6月23日、60歳でマッキンリーの山頂に立つことができました。北海道支部30周年記念の年に日本女性最高齢(世界最高齢は62歳)として登頂できたことを喜んでいます。支部活動のますますの発展を京都から祈っています」。読み終わったとき、大きな拍手がわきました。
次いで道新スポーツ社長の児玉芳明さん。「いま『北海道百名山』を連載中。来年3月に終わったあとは出版する予定で、高澤さんを中心に編集作業中です」と報告され、ここにも拍手が送られました。
北海道勤労者山岳連盟会長の安田治さんは「日本山岳会の諸先輩の背中を見ながら登山活動をしてきました。最近の中高年登山ブーム、百名山ブーム、商業登山の活発化にともない新しい登山層が掘り起こされているが、オーバー・ユース現象も起きています。ゴミやトイレ問題などは登山界に課せられた課題。高山植物の大規模な盗掘の防止など、団体の枠を超えた活動が必要になっています。日本山岳會は各界に影響力の強い人が多いので期待しています」と呼びかけていました。
一原有徳さんは「私は、深田久弥さんが会いたいと言ってきて、入会を誘われました。エリートの多いクラブでしたが、中野征紀さん、伊藤秀五郎さん、橋本誠二さんなど、エリート意識のない和やかな会でした」と入会当時の様子を述べました。
企画されているマナスル・エベレスト登山隊長の江崎幸一さんは「一つ一つを着実にクリアーして、協力いただいているみなさんにぜひ成功の報告ができるようにしたい」と決意を述べたあと「日本山岳會会長の大塚博美さんは日本人初のエベレスト登頂を成功に導いた人です。それ以来、すでに3千人以上が登頂しているため、いまさらなぜと聞かれます。東北以北では、まだエベレストに登頂した団体はありません。くしくも来年春、東北の団体と同じ山をめざすことになりましたが、ぜひ成功させて北海道の登山史に1ページを残したい」とあいさつ。支部会員から参加する中村喜吉さんも壇上に立ち「全力で頑張ります」との意欲に全員の拍手と声援が送られました。
スピーチの最後は、北海道高山植物盗掘防止ネットワーク委員会の清水和男さん。「21世紀の山登りは、いかに上手に登るかが問われます。私たちは足もとの植物を大切にしよう。自然と向かい合う人びとの体質を変えていこうと、私たちはいろんな団体に侵入して運動をすすめています。山に登る人たちが率先して、地球を守る世界をつくっていきましょう」との呼びかけに、全員が賛意の拍手でこたえていました。
アトラクションがまた愉快でした。端(はな)を切ったのは支部長の新妻さんです。法被(はっぴ)を着込み、頭には記念手拭いできりりと鉢巻きを締め、師匠について練習を積んだという『ソーラン節』を粋に舞って見せました。のど自慢の井後幸太郎さんは『オホーツクの船唄』を知床旅情のメロディーで朗々と歌いあげました。朝比奈英三さんが壇上に迎えられ、杉野目浩さん、野田四郎さん、高松秀彦さん、神谷正男さん、吉村啓一さんらが呼びだされました。朝比奈英三作詞・渡邊良一作曲『山の四季』を合唱するのです。この歌は、四季の中に暑寒別岳、芦別岳、日高の山、ニセイカウシュペ山、トムラウシ山、ペテガリ岳の山々がうたい込まれ、支部会員のだれもが歌いなれた曲です。それをフルコーラスで、情感豊かに歌いきりました。会場の山男たちの頬に青春の風が吹いたかに見えました。だが、こんどは北島三郎の演歌『山』(星野哲郎作詞・原譲二作曲・斉藤恒夫編曲)を全員起立で歌おうと言い出しました。
けわしい山に 登ってみたい
自分の道を 極めたい
それはJAC(男)の 見果てぬ夢か
山に登れば その山の
山の向こうに 待っている
山の深さを 知るばかり
新妻さんは、この歌詞が好きなのだそうです。まず1小節ずつおさらいをしたあと3番までを歌いきりました。
ホールの借り上げ時間はとうに過ぎていました。しかし、山男たちにとって歌わずに済まされない歌があります。それは、日本山岳會の第13代会長で南極観測隊の初代越冬隊長の西堀栄三郎さんがアメリカ民謡に作詞した、あの『雪山讃歌』です。いくつもの輪をつくり、スクラムを組んでの大合唱です。一気に9番までをフルコーラスし、さらに「日本山岳會北海道支部は40周年めざして楽しく登ろう」と、替え歌が追加されました。
向井成司実行委員長が興奮をそのままに壇上に立ち、声高くあいさつしました。「本日は日本山岳會本部から、越後支部、青森支部から遠路はるばる出席いただきました。地ウからは、北洋銀行、道新スポーツ、北海道山岳連盟をはじめとした山岳団体のトップの人びとが出席くださいました。実行委員会は2年半前から野田前支部長、高澤前事務局長を筆頭にスタッフ全員が英知を集めて準備をしてきました。記念事業の3つの山行は全国各地から参加していただきました。記念誌『北海道山岳』も多くの人に購入いただき、残部わずかになりました。この祝賀会も出席者の温かい協力で和気あいあい、名残惜しいような会にしていただきました」と謝辞を述べました。日本山岳會副会長の小倉茂暉さんが終わりの乾杯を力強く宣言し、散会となりました。
後日、向井さんは「たいへん盛り上がった会で、予定時間を45分もオーバーしてしまいました。こうして節目ごとに連帯を誓いあう記念事業を未来永劫つづけて欲しいという願いは、だれの胸にもあります。2次会に会員が集まったとき、40周年に向けて、後輩に次を託してきました」と話しています。
その40周年に向けた日本山岳會北海道支部の展開について、支部長の新妻さんに聞いてみました。
「いま、日本山岳會北海道支部の会員は、名誉会員3人、終身会員3人を含めて227人(99年3月現在)を数えています。したがって、通常会員は221人。このうち道北と道東が各17人、道南14人、残る173人が札幌を中心にした道央会員です。200人を超す会員が北海道という広い地域に分散していては、よりきめ細かい運営がつづけられるかという課題が浮かび上がってきました。このため、北海道を東西南北に分けた4ブロック制の運営に改革しようという方向が昨年5月の定期総会で承認されています。これについては、日本山岳會が創立100周年を迎える西暦2005年をめざして実施に踏み出したい」と課題の1つを示しました。
近年の登山傾向と、日本山岳會がこれまで貢献してきた山岳文化の向上についての考え方を尋ねてみました。
「ひとつの課題は、中高年の登山ブームをどう考えるかでしょうね。それには、安全登山思想の啓発が重要です。もうひとつは、若年層の登山意欲の減退ですね。かつて、名門といわれた大学の山岳部には40人前後の学生がいて、縦走隊を4つくらいは組んで楽しいプランを立てたものですが、いまは3、4人の部員しかいないことが多い現状なのです。するとワンダーフォーゲルは人気があるかといえば、これもあまり人気がない。では、若者は何をしているかと思えば、アウトドア・サークルとか言ってオートキャンプをするのです。行動は、すべてマイカーで現地まで直行です。キャンプ場に着くと至れり尽くせりの設備が整っています。蛇口をひねると飲み水が出る。LPガスや石油コンロでお湯を沸かし、軽便なレトルト食品を温めるだけで食事ができる。驚くことに、シャワーさえも浴びることができるのです。あれはあれなりに日常性からの解放にはなるのでしょうが、私などから見ると、創意工夫がほとんどないように思われます」と首をひねるのです。
「登山は、生活そのものを持ち込みます。家を出たときから登山を終えて家に帰り着くまで、仲間と生死をともにした共同生活を営みつづけるのです。天候が良くてあとひと息というところでも、仲間のコンディションが悪ければ登頂を断念しなければなりません。おまえさえいなければ登れたのにと、やはり人間ですから悔しい思いもしますが、また次の機会に再アタックするのです。辛いこともあります。遭難した仲間の葬式に行くと、家族に泣かれます。そして言われるのです。『こんどは息子の分も登ってください』と。私たちは墓前に誓い、次には位牌を抱いて登るのです」。
それは「一生を賭けてやる価値のある趣味」だと新妻さんは強調します。今回、先人を讚える資料展とともに、記念誌にも先人の足跡を偲(しの)ぶ寄稿や、第14代会長で名誉会員の佐々保雄さんをはじめとした大先輩の山岳紀行を数多く収載したのは、パイオニア時代の山岳アドベンチャーの精神を若い世代に継承していきたいという思いからでした。「山に向かっては毅然とした姿勢で。しかし後輩はだいじに育てる―という伝統的な精神の継承を第一にしたクラブ運営をしていきたい」と新妻さんは抱負を語っています。
1992年に入会し、前年まで支部委員を務めていた真下(ましも)誠二さんは、「支部長の新妻さんは、折をみて1回10キロペースで歩く北海道の主脈縦走というユニークな山行を永年つづけている人。高澤さんは山の文筆活動で全国的に知られる人です。会員には山以外の文化的な分野でも活躍している人が多く、そんな多彩な人とふれあう人間関係が勉強になり、楽しみでもあります。これまでの良き山岳文化の伝統を生かして中高年の指導、個人を尊重した山行などをおこない、これまで築いてきた歴史をさらに深化させ、良き伝統を積み重ねていくことを期待しています。山登りは技術的な勉強が原点です。各地区の人たちを中心とした講習会や登山会を多く催すことによって、登山愛好者のすそ野が広げられるのではないか」と期待を寄せています。
(1967~1987年の年譜は本誌No,28に掲載)
1988年
●7月=大雪山の集い・旭岳登山/旭川文化会館で講演会・旭岳温泉勇駒荘で懇親会20周年記念「ヌブリ」発行
●10月=岩内で観月会
1989年
●3月=チセヌブリ・スキー行
●6月=北海道道北ブロック支部集会/舟形山
●7月=利尻山登山/神威岳・大塚前支部長7回忌山行
1990年
●5月=支部総会で第5代支部長に小須田喜夫氏選出
●7月=狩場山登山
●9月=十勝岳・富良野岳登山
●11月=定山渓小天狗岳登山
1991年
●3月=チセヌブリ=スキー行
●6月=雷電山登山
●6月=羊蹄山登山
●10月=雄鉾岳登山
1992年
●4月=ニセコアンヌブリ登山
●5月=増毛山地黄金山登山
●7月=比布岳・愛別岳登山
●10月=芽室岳登山
1993年
●2月=ニセコアンヌブリ登山
●5月=神居尻山登山
●6月=支部総会で第6代支部長に野田四郎氏選出
●7月=支部創立25周年記念登山をイドンナップ岳で開催
●10月=遊楽部岳山塊白水登山
1994年
●2月=ニセコアンヌブリ登山
●5月=簾舞林道自然観察会
●6月=手塩岳登山
●7月=武利岳登山
●10月=日高山脈ピセナイ山登山
1995年
●2月=十勝岳連峰三段山と上ホロカメットク山登山
●5月=芦別岳登山
●10月=武利岳登山
●11月=日本山岳会創立90周年記念集会/式典・共済サロン登山・樽前山
1996年
●2月=無位根山雪洞山行
●5月=楽古岳登山
●7月=平山・比麻良山登山
●10月=狩場山登山
1997年
●2月=白井岳雪洞山行
●5月=伏美岳登山
●6月=大雪山赤岳登山
●7月=第1回絵画・写真同好会作品展を「つる」で開催
●10月=雄阿寒岳登山
1998年
●3月=大雪山黒岳雪洞山行
●4月=支部総会で第7代支部長に新妻徹氏選出/総会で北海道を東西南北の4ブロック制運営を承認し各地で集会開催
●5月=昆布岳登山
●7月=羅臼岳・硫黄山登山
●10月=久山岳登山
●11月=支部30周年記念同好会行事としてJACネパール・トレッキングに参加
1999年
●3月=大雪山黒岳でスキー技術研究会
●6月=手稲山でグルメとオンチコーラスの会
●7月=支部30周年記念登山を大雪山、トムラウシ山、十勝岳で実施、式典を札幌市・りんゆう観光ホールで開催