ウェブマガジン カムイミンタラ

1999年11月号/第95号  [特集]    

「きれいな水ときれいな空気と内心の自由を次の世紀の子どもたちに残してやりたい」
21世紀への届けもの 加藤多一さんに聞く

  作家の井上ひさしさんの言葉です。「ヒロシマ、ナガサキは、世界史がたとえ1億年続いたとしても、フランス革命やアメリカ独立などよりも重要な日付でありつづけるでしょう。そして、その特別な日付を刻まれた日本人が、戦争放棄を含む憲法によって、21世紀の人類の希望を背負わされた、と僕は考えています」(朝日新聞8月4日付「21世紀、私たちは=第4部非核パワー」)―。
 道内在住の児童文学者・加藤多一さんも、折に触れて、人びとの内心の自由を守るために、率直な発言をしています。その加藤さんに、私たちは21世紀に生きる人びとに何を伝え、何を送り届けることができるかについて語っていただきました。

大地と開拓農民の苦闘と少年の自己形成が著作のテーマ

イメージ(自然林に囲まれた自宅前で)
自然林に囲まれた自宅前で

加藤多一さんは、1934年(昭和9)、オホーツク海に近い紋別郡滝上町の札久留(さっくる)という山村地域に生まれ、北海道大学教育学部に学びました。大学在学中から短歌や評論を書き始め、北海道大学童話研究会の『童話研究』創刊に参加して児童文学へのスタートを切りました。

1958年に大学を卒業したあと、札幌市役所に勤務。広報課長のあと、1983年に市民文化室長に。ここで「札幌芸術の森」づくりの実務責任者として活躍。1986年、札幌芸術の森がオープンしたところで札幌市役所を退職し、稚内北星学園短期大学教授に就任しました。同大学を1992年に退任したあとは、文筆中心の生活に入りました。

加藤さんは、1976年に発表した『白いエプロン白いヤギ』(偕成社)が昭和50年度日本童話会賞A賞を受賞。つづいて『ふぶきだ走れ』(北海道新聞社)が北海道新聞文学賞佳作を受賞して、童話作家としての地位を確かなものにしました。その後、『ふぶきの家のノンコ』(岩崎書店)が第1回北の児童文学賞(1985年)、『草原・ぼくと子っこ牛の大地・』(あかね書房)が日本児童文学者協会賞(1986年)、『遠くへいく川』が第22回赤い鳥文学賞(1992年)を受賞。1995年には北海道文化賞を受賞しています。この年、北見地方生田原(いくたはら)町のオホーツク文学館館長(非常勤)になりました。

加藤さんの初期の代表作といわれる『原野にとぶ橇(そり)』(偕成社=1978年)は、6代にわたる愛馬トドマツ号の年代記と北海道の開拓農民家族の苦闘、そして小学6年生の少年の自己形成物語です。それは加藤さんの自伝的小説でもあるのです。

巻末で作者と作品を解説している西本鶏介さんは、大意、次のように述べています。

「加藤さんの先祖は、山形県から奥蝦夷に入植した農民です。それも権力の庇護を受けての入植ではなく、文字どおりの裸一貫で、人の住めないような原野を開拓してきました。自分の祖父や父がどんな思いで、どんな生活を送りながらこの大地に生きてきたのか、それを丹念に追うことによって、自分のあり方を問いかけているのです。それは加藤さん一人の問題ではなく、自分のふるさとを愛さずにはいられない人間の共通の願いでもあります。そして、自分の血につながる歴史をたどることで、だれもが共感できる人間と土の物語に仕上げ、苦しい時代をささえあってきた人間そのものの生きざまが、客観的な目で描かれています」。

加藤さんは、当時、西本さんに対して「北海道は、人間が原型で生きることを要求される土地だ。人間がナマで自然にぶつかって生きるほかないこの北海道に生まれ、死んでいけることを誇りに思えるようになった」と、胸を張って語ったといいます。

戦争児童文学傑作選に収録された『馬を洗って』

イメージ(菜園と花畑のなかで)
菜園と花畑のなかで

加藤さんの自宅は、旭川から国道40号を北へ約45キロの距離にある剣淵町。その市街地からさらに約6キロ離れた郊外、ペオッペにあります。「ペオッペ」とはアイヌ語で「水の多いところ」といった意味で、天塩川の支流・剣淵川の支流が3本ほど合流する地域の中の、原野ふうの土地です。

加藤さんは、稚内北星短大教授だった1988年に、当時、剣淵町で「絵本の里」づくりをすすめていたリーダーと知りあったのが縁で1.6ヘクタールの山を買い、さらに2ヘクタールの土地を借りて、1992年に住宅を新築して住みつづけています。舗装されていない砂利道の町道でクルマを降りると、すぐ足もとに小川が流れています。ハルニレやエンジュ、ヤチダモなどの自然木が十数メートルも樹高を伸ばし、昼は野鳥や昆虫が、夜はキツネやイタチが行き来するといいます。

道北の内陸部は、北海道の中でも豪雪厳寒の地です。「夏の気温は30℃、冬も氷点下30℃になり、夏冬の温度差60℃というきびしさですが、土と木のそばに住めることが満足です」と加藤さんは話します。

住宅は木造、一部3階建て。その2階にはサンルームふうの居室があって、夏は梢をたわませるほど大きくなった木のtが手の届くところで涼しい葉擦れの音を聴かせ、床いっぱいに緑の陰を落としています。

以前は小屋を造って、馬もヤギもニワトリも飼っていました。みんな、加藤さんの作品の中で大切な役割をはたすヒーロー、ヒロインと同種の動物たちです。

加藤さんは、とくに馬には特別の感慨をもっていて、『原野にとぶ橇』の「はじめに」で馬についての思いを語っています。

私は馬がすきだ。ながい顔もいいし、ちょっとさびしそうな目の色もいい。とくに、北海道の風土の豊かさ、きびしさには、馬のたくましさがよく似あう。草原をかけぬける馬。そりをひいて雪原をとぶ馬。かなしみにたえている馬。
―こういう馬のいる風景のむこうから、人間の家族、馬の家族のやさしい会話がきこえてくる。

そして、加藤さんの記念碑的な作品といわれ、「戦争児童文学傑作選」シリーズにも収載されている『馬を洗って』の終章には、次の一文があります。

遠いところ。
空と地面とがとけあうところ。
ひとりの青年が、いつまでも、いつまでも、馬を洗いつづけている。

雪の村から出征し、沖縄で戦死した兄

イメージ(加藤さんの著作)
加藤さんの著作

『馬を洗って』のストーリーは、足首が3本とも白い馬は主人を殺すとか、その家が火事なるなどといわれていて、とうちゃんがこの馬のことになると短気をおこして怒りだすので、かあちゃんが『短気は損気』となだめているうちに、いつのまにかソンキというあだ名がついてしまった馬。その痩せ細った馬が殺されそうになるのを、父の反対を押し切って助け、いつも小川でせっせと全身を洗って世話をしている兄。その兄が、ソンキに蹴られて死んでしまいます。しかし、ほんとうは、軍隊でなぐられて実家に逃げ、自殺したのです。ソンキも銃殺されます。

「もし、戦争がなかったら…。馬と、体格の悪いひとりの青年とを殺したのは、いったいだれなのだろう。(20年もたった)いま、わたしの心の底には、この〈だれなのだろう〉ということばが、ぐるぐる、うずをつくって走りまわっている。」そんな戦争批判の作品です。

加藤さんは、1941年(昭和16)4月、それまでの尋常小学校が改組された「国民学校」の第1期生として入学しました。改組の理由は「戦時体制に即応して、皇国(天皇が統治する国)の国民としての基礎的な錬成をなす」ことを目的にしたものです。その年の12月8日未明、日本軍はハワイ真珠湾のアメリカ艦隊を奇襲し、アメリカ、イギリスに宣戦を布告して太平洋戦争へ突入していったのです。

それからの5年間、加藤さんはこの国民学校で天皇制と、太平洋戦争が「聖戦」であるとの教育を受けたのです。

「そのころの『修身』の試験問題に『ワタクシタチハ ナゼ カラダヲ ヂャウブ(丈夫)ニシナクテハナリマセンカ。( )ノタメニ ヤクダツ ヒトニナルタメデス』がある。その正答率は、つねに最高だったと伝えられている。( )の中の答えは『天皇陛下』または『国家』です」と1995年1月の北海道新聞〈対角線〉欄で加藤さんは書いています。

この戦争には、加藤さんの2番目の兄の輝一さんも出征しました。そのときの状況を、加藤さんは次のように回想しています。

イメージ(加藤多一さん)
加藤多一さん

「1942年1月のある朝、国民学校の生徒はみんな白い息を吐きながら、出征兵士を送る行列につながって神社参拝に行かされた。校下から出征していく青年は3人で、その中には私の兄もいた。うちが『出征兵士の家』になれるのがうれしくて、声をはりあげて軍歌を歌った。途中まで兵士を送る列が動きだしたころ、おとなたちのあたりで女の人の泣き叫ぶ声が聞こえた。上級者たちのひそひそ話を私は聞きとった。泣いているのは“○○のばあさん”と呼ばれている人で、歳(とし)をとってから産んだひとり息子で、出征する息子にしがみついたり、軍歌よりも大きい声で泣き叫ぶので、みんな困っている。騒ぎのそばを行列で通り過ぎるとき、私ひとりだけが「ヒコクミン、ヒコクミン(非国民)」と声を出していた。いま考えると、1年生なのに「非国民」という言葉を知っているのを示したかったのか。兄の名誉まで汚されると思ったのか。りっぱな少国民(大戦中の子どもの呼び方)であることを、だれよりも先に認めてもらいたかったのか。兄も、その若者も沖縄で戦死した。姉の夫もバンコクで戦死した」。

子どもの危機を救うには事実を勉強し、感じることから

戦時中、天皇陛下の写真と、「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」(天皇のお名前と印章)という文字だけを印刷した教育勅語などを納める「奉安殿」という小さな建物が校門の近くにあって、その前を通るたびに最敬礼をしなければなりません。そんな崇拝儀礼を教え込まれ、もしも不敬な行為があれば、生徒は体罰を受けたのです。

戦争の大義も、アジアの「五族共和」や「東亜(東アジア)共栄圏の建設」という美名で説き、国家的大規模な殺戮と略奪を「聖戦」と呼んで国民を欺瞞し、洗脳し、弾圧しました。そして、国民には「一億一心、火の玉」「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」と、倹約・耐乏生活を強制していったのです。

加藤さんは、11歳(5年生)の夏までそうした天皇制教育と軍国教育をたたき込まれましたが、敗戦と同時に「あの教育はウソでした」と言って、教科書を墨でべたべた塗りつぶさせられました。

1960年代以降、こんどは経済効率と消費(浪費)を美徳とする“拝物主義”的思潮が国策として推進され、子どもの生きる場をしだいに歪めていきます。

「国家権力に利用されるのは教育の宿命さ、という人がいる。それでいいのか。“子どもの危機”に本気で国民が怒れば、道はある」(95年1月18日付・道新〈対角線〉)と加藤さんは言い、国家から子どもを取り戻したデンマークのフリースクールの実践に希望の灯を見い出しながら、作品の上や講演活動などで積極的に発言行動を起こしてきました。

ところが、加藤さんは先ごろ、反戦川柳作家・鶴(つる)彬(あきら)全集を自費出版したノンフィクション作家の澤地久枝さんと会う機会があり、語り合ううちに、そのへんの心境にある変化が生じたと言います。

「以前、私は『怒らなければだめだ』と言ったが、怒っているなんていうことじゃだめだということを知りましたね。愚痴を言っても、だめです。静かに、自分がまず事実を勉強すること。時間をかけ、金もかけて、見学に行くなり、本を読むなり、人に会ったりして勉強することです。その勉強したことを、どうやって伝えるか。ささやかに、絵本や物語を通じて子どもたちに伝えたいという気持ちが、やっぱり強くなりました」と加藤さんは言います。

「その場合、教えるということでは、だめです。“いっしょに感じる”ところまでいかなければ、だめなようです」。

論議不十分なままに成立された国旗・国歌法

「充分な論議もしないままに成立させてしまった国旗・国歌法。基本的には、私は何を信じようと、何を歌おうと自由でなければならないと思っています。国家が教育を統制するのであれば、それは圧政であり、抑圧です。人間は、そういうものから解放されていなければならない。戦後の50余年、めしが食えて、住むところがあって、それに精神の自由が確保される世の中を実現しようと、私たちの先輩は努力してきたのです。歴史を逆戻りさせてはいけません」。

「私の兄も、姉の夫も働き盛りの農村青年でしたが、聖戦だと洗脳されて応召し、戦死しました。兄姉たちには反対されますが、私は、死ぬことが名誉なものか―と、そのことをわりと悲惨な話として語るのです。兄は爆撃に遭って腹わたが飛び出し“水をくれ、水をくれ”と言いながら、むかし我が家で飼っていた馬のように死んだのかもしれない。あるいは自動車にはねられて交通事故死したイヌのように死んだのだ、と」。

「無謀な国家の犠牲にはなったけれども、戦死した人びとには、やっぱり『祈り』はあったと思うんです。―自分は死ぬけれども、妻や子どもなどの家族や、甥・姪など肉親たちの暮らしも内面の自由もきっと良くなるだろうという思いがあったろう―と考えると、戦死したのは残念ではあるが、少しは浮かばれるのではないかと思います」

「だからといって、戦争が始まったら、また出征兵士を万歳万歳と送りだすようではいけない。国内外の日本人200万人の尊い生命を奪い、大量のアジアの人びとの生命を犠牲にしたことをしみじみ反省し、戦死者の祈りを『戦争は二度と起こさない、起こしてはならない』というメッセージとして受け取らなければ、犬死にになってしまう」と、加藤さんは語りつづけます。

「戦争のもうひとつの犠牲は、反戦の気持ちなどの、人びとの内心が抑圧されたことです。戦死した人の犠牲も、戦後、平和な生活を得るために苦労してきた人の努力も無視して、国家の論理を強制することほど悪いことはない」と言い切ります。

ふたたび思考停止がはたらく時代が来ないように

「日の丸・君が代を強制する形で、天皇制を思考停止のシンボルに利用するのは、天皇家のほうでもお困りになるのではないか、と心配する人もいますよね」。

「思考停止させる装置というか、社会の中にはなぜかいまも小天皇をつくってしまうことがあります。企業、町内会、PTA、業界団体、文学の会などの趣味の会はもちろん、家庭の中にまで『小天皇』をつくってしまうのです」。

「日の丸・君が代を国旗・国歌にして強制する意志がなければ、法制化する必要はないはずです。ここにも、精神の自由を奪う小天皇をどんどんつくろうとする仕掛けが働いているように思います。あれほど大きな犠牲を払って手に入れた平和憲法を、どうしようとするのだろう。国家権力が教育を支配することの悪をあれほど学び、個人の尊厳の重さを知ったはずなのに、それを許している私たち。そして、私…」と加藤さんの言葉は曇ります。

1995年、 北海道は加藤さんが児童文学の振興発展に貢献したことを顕彰して「北海道文化賞」を贈りました。そのあとに開かれたレセプションの席で、北海道文化団体協議会会長の河邨文一郎さんが「(日の丸・君が代に批判的な)加藤多一さんの受賞によって、北海道文化賞の幅が広がったと思います」と励まされたことを、加藤さんはいまもありがたいと思っているとのことです。

子どもたちは喘ぎ、教師は心を患っている学校を変えなければ

イメージ(オホーツク文学館)
オホーツク文学館

子どもたちのいじめや自殺の問題は依然深刻な状態にあり、生徒と教師のあいだの校内殺人や傷害事件も繰り返されています。学級崩壊、不登校児童・生徒の数も増える一方です。文部省は学校や子どもたちの危機的状況を防ぐために、校長の権限と指導力不足の不適格教員の対策を強化する新たな政策を次々に打ち出しています。

その半面で「学級崩壊の要因の7割は教師の指導力に問題あり」とする委託調査の結果を発表したり、これまで認知さえしていなかった学習塾を容認したり、複数担任制の導入や教科選択の幅を広げる総合学習などの新学習指導要領を、前倒しして実施することなどを明らかにしています。しかし、要望の強い1学級30人制へ踏み出す意思は、依然示されないままです。

「制度の不備や矛盾から起こる問題を、精神力と努力で乗り切ろうとするのは反対です。人間も哺乳動物の1種です。我が家にいるのは、いまはイヌだけですが、以前、飼っていた馬やニワトリなどの哺乳動物は、束縛を嫌い、なによりも自由を好みました」。

2年前ごろまで、加藤さんはニワトリを昼間は放し飼いにしていました。その中の一羽が夜になっても小屋へ入ろうとせず、入り口の柵の上で孤独を楽しんでいるのです。加藤さんは、管理者の立場上(どこかでよく聞くセリフですが)「キツネに食われるよ。どうして、みんなと同じ行動がとれないのだ」と言い聞かせ、手を振って追ってやる(脅迫や体罰でなく)と、そのニワトリは窓から小屋に入り、止まり木に移って仲間と並びます。「指示どおりにするいい子だ」と安心して家に戻るのですが、夜中に見ると、また外に出ています。翌日、「おまえがその場所が好きなら、キツネの餌になる自由も認めよう。しかし、おまえがキツネにやられたら、仲間も次々に食われてしまうかもしれないから、中に入りなさい」と言い聞かせます。加藤さんは、連帯責任のことを持ち出して迫っていることに苦笑を覚えますが、ニワトリの方は「自由と自己決定力」を求めて日夜努力していたのかもしれない、と振り返るのです。

「私は、学級編成基準を現在の40人から30人に引き下げるべきだと言っています。からだも心も走り回りたい子どもたちを狭い教室に最大40人も詰め込むのは、明らかに間違いです。ニワトリを飼った経験から言うと、過密になると必ず毛をむしりあう喧嘩が始まり、いじめが起こります。人間の子どもも強制を嫌い、束縛されれば暴れだします。生命体とは、そういうものだという認識を出発点にすることが必要なのです」

「イギリスやドイツなどは1学級25人基準ですが、私が見た中学校では10人程度で学習していました。生活が苦しいといわれているサハリンでも学級は25人以下でした。経済大国を誇る日本と、どちらが貧しい国なのだろうかと思いますね。国が困るようなことを要求しない日本の人びとの“美徳”が、子どもたちを危機に追い込んでいるのではないか、と考えてしまいます」。

「いま、子どもたちは圧迫の中で、たしかに喘いでいます。同じように、心を患っている教師も多いのです。教師1人の受け持ち数を減らすこと。学習する荷物を生徒の肩から下ろしてやること。そして、学ぶことの喜びを教えなければ、子どもの犠牲者、教師の落後者はますます増えていくでしょう」。

みずから判断し、選択する自己決定力をもつ幸福

加藤さんの最近作の絵本『はるふぶき』(童心社)は、ちょっと昔の話です。

―父が戦死した家庭で、熱を出した母の代わりに、馬橇に丸太をいっぱい積んだ少年が、大きな木の下を通って、初めてひとりで町へ行く。仕事を終え、たくさん買い物をして帰る途中、急に吹雪になった。恐ろしい春吹雪だ。とうとう、馬橇は雪に埋もれて動けなくなった。

「どうしよう、ここで死ぬの?」

困り果てている少年の耳に、ふしぎな声がした。少年は覚悟を決めた。買ってきたばかりのだいじな荷物を、みんな雪の上に捨てた。手綱で自分のからだを縛りつけて、少年は眠気に耐えながら山の中の家に向かった。やがて、探しに来た山の男たちが手綱の先に小さなからだを結びつけた少年を発見した。

「荷物、捨てることをだれに教えてもらった?」「よくやったな」と、少年はみんなにほめられた―。

これは、物質文明社会の中で、物への執着を捨て、身軽になることによって、生きる力を取り戻した少年の物語です。

経済至上主義社会は「人間を商品の奴隷程度にみる」ことで、人びとを自己喪失の坂道に追い立てています。

加藤さんは、選択力と自己決定力の必要性を主張します。

「おとなも子どもも含めて、私たちは(私も)人生の損得勘定にとらわれ過ぎている。自分は何のために頑張って金を稼ぎ、人に頭を下げたり、お世辞を言って暮らすのか。子どもは何のために勉強するのか。わがままも悪いことも含めて、自分で判断し選択して決定する“自己決定力”を持つためにこそ努力しているんではないでしょうか」。

社会を動かすのに文学はどこまで有効だろうか

加藤さんは、さらに文学の力や信念とともに生きることについて語りつづけます。

イメージ(オホーツク文学碑公園)
オホーツク文学碑公園

「こうしたなかで、文学はどこまで有効なのだろうかと考え、夜中に目を覚ましたときなど、無力感とらわれます。自分の中にも小天皇はいるし、地方に住んでいると、宴会のときなどに“先生”と呼ばれて上座なんぞに座らされると、もう、そこで堕落してしまいます」。

「私は原野を歩き回るのが好きですし、山へ登ることもあります。そうすると、いま、欠けているといわれる、遠くを見る目が養われてきます。釣りをすると、川が傷めつけられていることがわかります。山に登って遠目をきかすと、人間は地球をいじめ、収奪していることが感じられます。それでも、連なる山なみと、平野に帯をなして悠々と流れる大河の青い色を見ていると考えてしまう。次の世紀には『きれいな水ときれいな空気と内心の自由』を送り届けてやりたい。原子力発電所・再処理工場・核のゴミ貯蔵所と内面の抑圧は、けっして子孫に残してはならないと思うのです」。

「ところで、友人たちもそうですが、知識も実力もあり、人格円満ですばらしい人物が、いったん組織の中に入ると、おやっと思うことをやる。この国では、組織のトップのトップが責任をとらない。そして、その下の人は、どんなときでも“ノウ”を言わずに、上に任せ放しにする。有形・無形の“上からの指示”に対して、ものを考えない。“思考停止”ですよね」。

「上に盲従する人は、下に対して小天皇になりやすい。“全体”はあるけど“個”が消えるのです」。

「といいながら、現実にはそう簡単にはいきませんよ。人にわるく言われたくない―という気持ちで、これまで生きてきましたからね」

「それと、正しいことっていうのは、それだけで、うっとうしいのですよ。みんなと友達でいたい、きらわれたくない」

「その一方で、信念をつらぬくのは、ほんとうにたいへん。まわりに合わせて行動するほうが、すごくラク。(どうしようか)こういう悩みでどうしようもないとき、三浦綾子さんに相談することもありました。あの方は、個の幸福と社会正義の両方を(両方とも)追求した貴重な、すばらしい作家でしたからね。亡くなられて、がっかりだけど『大切なことでは、つらくてもゆずらないほうが…』という言葉を忘れることができません」。

木の文化と子どもの文化を考える「子どもの本と木のおもちゃの集い」

加藤さんが1995年に館長に就任したオホーツク文学館は北見地方・生田原町にあります。森林に囲まれたこの町は、世界の木のおもちゃを所蔵・展示する「ちゃちゃワールド」と「オホーツク文学碑公園」のある町でもあります。

ひと足早い秋の色を深めはじめた9月23日から4日間、加藤さんが評議員を務める日本児童文学者協会と生田原町教育委員会などの主催で『子どもの本と木のおもちゃの集い』が開かれました。記念講演では、加藤さんの依頼を受けて夫妻でやってきた萱野茂さん(アイヌ文化の伝承・研究者、前参議院議員)が「わたしたちが子どもたちに伝えたいもの」と題して、木を育てる山を大切にしてきたアイヌ民族の心や、アイヌ語を守ることで民族の精神と固有の文化を伝えていきたいと語りました。

フォーラムは、児童文学や絵本の創作と鑑賞、木のおもちゃ製作などが分科会ごとにおこなわれ、作家との交流も活発でした。

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