ウェブマガジン カムイミンタラ

1999年11月号/第95号  [ずいそう]    

摩文仁の丘に立ちて
斉藤 健次 (さいとう けんじ ・ 札幌市在住)

念願だった沖縄へ、定年退職を迎えた平成10年4月、妻と訪れる機会に恵まれた。というより、「定年後、最初の旅行は沖縄」と以前から私の心に決めていた。それは、私の長兄・孝一が沖縄で戦死を遂げたその地を、自分自身の目で確かめておきたかったことが一番の理由だった。

兄が召集され、懐かしの故郷を後にしたのは、私が6歳の1943年(昭和18)9月の秋だった。朧げに思い出されるのは、兄の元気な笑顔と、肩から掛けられた寄せ書きの入った日の丸の旗。そして、心の奥に悲しみをぐっと飲み込んで見送った両親の姿。若干19歳の兄は、なんの疑いもなく満州(牡丹江)へと向かったのである。

その後、太平洋戦争は一段と激化し、日本が急速に敗退を余儀なくされる中、満州から沖縄へと日本本土守護のために集結させられ、最後は沖縄最南端の摩文仁(まぶに)において、両親への思いを抱きつつ、昭和20年6月20日この地に生涯を捧げたのだった。

私は、かつて太平洋戦争(沖縄戦争)の本を好んで読んでいたことがあるが、そのなかでいまも鮮明に記憶に焼きついている「言葉」がある。それは当時、沖縄・那覇南方に陣地を敷いた海軍部隊の司令官・大田実少将(昭和20年6月13日自決。一方、陸軍の牛島司令官と長参謀長は最後、摩文仁の洞窟において同年6月23日自決)が、海軍次官あてに打った電報である(すでに沖縄は敗戦に在り…と大田少将は悟っていた)。

その電文の内容は、こんどの戦いで沖縄県民がいかに献身的に作戦に協力してくれたかを細かに述べるとともに、《沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを…》と結んであった。大田少将はそのあと、自決していったのである。

念願の地に立って、私は戦後沖縄を訪れる多くの人々はリゾートを目的として訪れ、沖縄戦争の実態や沖縄県民の苦しみを知ろうとする人たちは意外と少ないように感じられた。私の目から見た沖縄の現実の姿は、観光地と基地とに化しているばかりか、外部からの主権により縛られ、真に県民が主権となって生き返った沖縄ではなかった。

あの炎天直下の中で、未だ戦前と変わらぬ荒れ果てた畠で砂糖きびを刈り、細々と生き続けなければならない1人の老人。その姿を見た時、私にはあの《…後世特別のご高配を…》の言葉がよみがえってきた。終戦から53年を迎え、また沖縄が本土復帰26年となった今、誰があの願いを受け継いでいるのか、いささか疑問を感じるのは私のエゴだろうか。時だけが過ぎ、沖縄県民が訴え続けなければならない理由を、深く心に感じずにはいられない。そして、史上まれに見る壮烈な激戦が繰り広げられ、未だに残るその戦跡を見た時、「私たちの死を無駄にするな…。もっと現実に目を向けろ…」という悲痛な叫び声が地の底から聞こえてきた。日本本土を守護するために命を犠牲にし、この沖縄の土と化していった244,136人の人々を思うと、あらためて今生きている我々の責任の重みを感じずにはいられなかった。

私は決して現在の社会を否定するものではないが、過去の事実を直視し、その上に立って時代を認識すべきだと思う。そんな考えと、兄たち戦没者への思い、いまも苦しむ沖縄県民への思いから、私は「摩文仁の丘」という詞をつづった。その詞にいま琉球民謡の曲を募っている。沖縄の風と三線の音にのって流れるその曲を、早く真の平和の中で聞いてみたいものである。

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