五合庵(新潟県分水町(ぶんすいちょう)国上山(くがみやま))は、良寛の信奉者にとっては聖地である。現在も訪ねる人が非常に多い。訪れる人すべてが信奉者であるとは限らない。子ども連れもいれば、若いカップルもいる。この現象は5月の新緑のころや、11月の紅葉のころのように良い季節のときだけではなく、二月の雪の多いときにも見られる。これは観光に重点を置き、観光スポットにしたからかもしれない。道路もしっかり整備されていて、五合庵のすぐ近くまで車で行くことができる。考えようによっては、実に嘆かわしいことである。
良寛の心をほんとうに知りたい、あるいは味わいたいと思う人にとっては、甚だ迷惑なことかもしれない。
側溝を造ったために、初秋に小さな可愛い赤や白の花をつける「水引」が、すべて引き抜かれてしまったところもある。また、急な坂道では大木の根が地表にあって、自然の階段になっていたところがほとんど石の段になっていて、山道の風情が完全に失われている。しかも、段の高さは若者に合わせていて、老人の歩幅では無理である。このことは、足もとばかりに気をとられ、まわりの風景に目を向けたり、鳥の囀(さえず)りに耳を傾ける余裕などまったくない。自然に親しむことなく五合庵に着いても、感興は非常に薄いものと思う。
ただ、良識のある人によるのか、偶然にそうなったのかは知らないが、観光化されず、昔のままの自然が残されているところもある。たとえば、西坂(裏参道)の登山口から一休堂を経て月見坂までの道である。少しは手を加えられているかもしれないが、30数年前と今もあまり変わっていない。良寛が托鉢(たくはつ)するために通ったときの状況と、それほど違っていないと思う。
この道を歩けば、良寛などの詩情が明確になるであろう―。この道を登って五合庵に達したならば、ほんとうの意味での良寛の心が理解できるのではないだろうか。しかも冬で、雪が深ければなおよろしいであろう。雪は現代の文化や科学を包み込んで、自然界の真の姿を私たちに見せてくれる。汗を流し、自然と親しみながら五合庵に達してこそ「五合庵を訪ねた」という意義があるのではないか。