立松和平さんの文は、そのあと、
―遠来の私のために、山内さんは食パンを用意してくれた。食べながらやったほうがいいんですよ。白鳥の仲間になるために。そういって山内さんは食パンを齧(かじ)り、自分でも食べながら白鳥に与えた。―
そのときの様子を、山内さんはよく覚えています。「立松和平先生とは湖畔でお会いしました。最初は、私を奇人のように思ったかもしれませんね。妻に癌で先立たれ、独り身ゆえに昼飯はもっぱら湖畔で白鳥と一緒にパンを食べながら観察をしていたのですから」と笑いながら話します。
山内さんのことを紹介した、もう一文があります。
―湖畔で、白鳥に餌をやっている人がいる。毛糸の帽子をかぶり、足もとから胸までゴムでおおって、渚(なぎさ)に浸(つか)っている。山内昇さんという1931年生まれの人で、営林署を60歳までつとめおおせた。余生のすべてをクッチャロ湖の水鳥の世話にささげているというのである。(司馬遼太郎著『街道をゆく38―オホーツク街道』)―
「その日は1992年1月6日、暦は寒に入り、ほんとうに寒い日でした。私が日課で湖の氷割りをして白鳥に給餌しているとき、湖畔でお会いしたんです。司馬先生は毛糸の手袋、私はゴム手袋を履いたまま握手をしました。いろいろ聴かれてお話したあと、別れ際に私の健康のことを気づかってくれましたが、その翌年に先生は急逝されたのです」と懐かしそうに語ります。
山内さんと白鳥の交流の場であるクッチャロ湖は、日本最北端のまち稚内市から宗谷岬を経由する国道238号を、オホーツク海に沿って90キロメートルほど南下した浜頓別町の平野に位置します。南に大沼、北に小沼がひょうたん形につながった周囲29.3キロメートル、面積14平方キロメートル、最大深度2.1メートル。この湖が、わが国最大の「白鳥の湖」なのです。
クッチャロ湖にやって来るのはコハクチョウが99%以上。オオハクチョウは数10羽、アメリカコハクチョウがほんの少し混じる程度です。
一方、オオハクチョウは網走地方の濤沸湖から釧路湿原、ウトナイ湖など太平洋沿岸を経て、本州に向かう南側のコースをたどります。それは、大きくて強いオオハクチョウが暖かくて有利なルートを確保しているからだといわれます。
コハクチョウの体重はほとんどが9キログラム以下。オオハクチョウは12~3キログラムもあり、鳴き声も太くて力強いので、近くで観察していれば見分けがつきます。しかし、飛翔しているときの見分け方は嘴の黄色い部分が先端に向かって丸かったり、多角形で小さいのがコハクチョウ。嘴の先端に向かって三角にとがっているのがオオハクチョウです。
群れの中には、体毛が灰褐色の鳥がたくさんいます。これがアンデルセンの童話に出てくる“みにくいアヒルの子”、じつはその年に産まれた当年子(とねっこ)なのです。
毎年秋、10月初旬に1~2羽の先発隊が初飛来し、まもなくドッと大群で飛来して来ます。最初の飛来を確認したときを「白鳥初認」と呼んでいます。
ピークは10月下旬。1997年は、10月24日に22,000羽をカウントしました。ところが、一昨年はサハリン北部の山火事の影響で6,300羽に減って、ルートが変わったのではないかと山内さんたちを心配させましたが、昨年は回復しました。湖畔の水鳥観察館で観察をしている小西敢(かん)さんは「昨年秋の飛来の様子は少し違っています。例年、秋のピークはひと山なのに、今シーズンは10月20日に14,000羽、11月5日に13,000羽を数えました。二つのピークを合わせると27,000羽に増え、過去最高の飛来数を記録しました」とのこと。その理由はまだわかってはいません。
「去年、オホーツク海に流氷がやって来たのは2月20日ごろで、しかも1、2日接岸しただけで去チていきました。飛来数はサハリンの山火事の影響で数は少なかったが、今年は1月中旬にやって来た流氷が居座りつづけているため、海に流れ出る湖水が結氷のために完全にシャットアウトされてしまいました。ほかの水鳥たちも氷の上では餌をとることができないため湖に近づかない。すると、餌に困ったオオワシが、ふだんはあまり狙わない白鳥を襲うようになり、白鳥たちはすっかり脅えて、湖面に近づく数が極端に減ったのです」と、山内さんはいつもと違う今年の状態を説明します。
また、立松和平さんがクッチャロ湖にやって来たころ、その紀行文の標題どおり飛来数は1万羽台でしたが、今はその2倍以上に増えているのです。
「クッチャロ湖に白鳥が増えたと言って、喜ぶわけにはいきません。ほかに行き場がなくなった鳥たちが、やむを得ずクッチャロ湖に来ているのです」と山内さん。
2回のピークを形成してやって来たコハクチョウは、12月下旬に湖面が結氷すると一斉に山形県酒田市の最上川河口、新潟県の瓢(ひょう)湖、鳥取県米子市の中海(なかうみ)などで越冬し、3月からふたたびクッチャロ湖に帰って来て栄養を補給し、5月までに一気にシベリアの営巣地に戻っていくのです。
「1987年ごろまで、クッチャロ湖で越冬する白鳥はほとんどいませんでした。しかし、まもなく居残り組が出るようになりました。すると、その鳥たちの餌はきわめて少なく、湖底の糊状の泥の中からわずかな藻類をすくうようにして食べているのです。また、河口の改修によって海水の流入が多くなり、汽水湖であるクッチャロ湖の塩分濃度が高くなりました。すると、大沼の淡水藻がなくなり、シジミ貝が姿を消してしまいました。さらに、河口を改修したことで海水の流入が著しくなり、湖水が凍らなくなったのです」というのです。
一方、今年のように流氷がやって来て河口を閉じてしまうと、海水が上がってこないため、クッチャロ湖はひと晩で全面結氷してしまいます。すると、頓別川の不凍地域で越冬したり、氷の上をねぐらにしている群もあるのです。
「白鳥は北海道では越冬しないといわれていましたが、彼らなりに新しい越冬地の歴史を開発しているのかもしれません」と山内さんは言いますが…。
山内さん自身は、心痛む思いでいるというのです。
「私の給餌が、越冬組をつくったのではないかという思いがあるのです」。
なぜか。その理由は、山内さんの生い立ちから聞かなければなりません。
山内さんは、1931年に樺太(現サハリン)南湾沿いの村、遠淵(とおぶち)湖のそばで生まれました。子どものころから白鳥やカモなどの水鳥と身近に親しみ、動物好きな少年に育ちました。
1937(昭和12)年は、日本と中国のあいだで支那事変が勃発した年ですが、その年の6月下旬、樺太の村に大雪が降ったのです。育ち始めた畑の作物は壊滅的な被害を受けましたが、このとき、軒下に巣を作っていたツバメが、食べるものがなくてバタバタと地に墮ちてきたのです。山内少年は、そのなかの生き残ったヒナを拾い集めて家に連れ帰り、幼虫をとってきてミカンの木箱の中でさし餌をして介抱してやり、家の中を飛び回れるようになった鳥から野生に帰してやりました。ふと思いついて、その中の1羽の足首に赤いペンキを塗って放してやりました。すると翌年の夏、その鳥が山内さんの家に帰ってきたのです。それ以来、山内さんは鳥が大好き少年になったのです。
14歳の時に終戦を迎え、友人とぼろ船で宗谷海峡を渡る密航を企てたとき、鳥をとるかすみ網を手放さなかったために密航と密漁の嫌疑で捕らえられ、2年間も獄舎につながれてしまうのでした。ようやく刑を終えて利尻島に引き揚げ、ニシン漁などを手伝ったあと稚内営林署に入りました。やがて浜頓別営林署が新設されて転勤。以来、浜頓別の国有林の管理保全が生業となりました。
ある年、クッチャロ湖の大沼と小沼の接点に位置する山軽(やまがる)に住む老夫婦と出会い、そこが野鳥の楽園であることを知りました。新設まもない環境庁が、渡り鳥の標識調査をするというので名のりあげ、鳥類観測ステーションの設置を実現させました。
浜頓別の真冬は氷点下20度を越える日が何日もつづき、ブリザードが吹き荒れることもしばしばです。そんな酷寒の中では羽根を凍らせて飛び立つことができず、餌もとれずに餓死していく白鳥が大量に出るのです。
「結氷した湖面を望遠鏡で見ていると、純白の湖面のあちこちに赤い塊が点在しています。餓死した白鳥が、オオワシやキツネに食い荒らされて血に染まっているのを、カラスが群をなしてついばんでいるのです。見かねた山内さんは「何か保護対策はないか」と役所に掛け合いますが、「自然界で死んでいくものは放って置けばいい」と言われて、話は噛み合いません。山内さんには、どうしても白鳥たちの窮状を見捨てておくことはできなかったのです。
「餌ウえじゅうぶんなら助かるにちがいない」と思った山内さんは、新潟県瓢湖の吉川繁雄さん親子が茶殻を集めて給餌していると聞き、町役場や営林署の協力を得ながら茶殻集めをしました。しかし、茶殻にはたばこの吸い殻が混じっているため鳥は食べないのです。そこで、町内のごみ捨て場あさりをして野菜くずなどを拾い集め、風呂の残り湯で洗って刻んだものを橇やリュックに詰め、スキーを履いて家族ぐるみで湖畔へ運びました。
湖面は30センチもの厚さに凍ります。真冬でも早朝の4時過ぎから湖畔に行き、2時間近くをかけて厚い氷をチェーンソーで切り割り、長い棹で氷面の下に押し流して餌場をつくります。そんな作業がなかなか終わらないでいると、コハクチョウたちは早く餌が欲しいと、山内さんの腰のあたりをドーンドーンと突いてくるのです。
「数が増えてくると、野菜くずでは足りません。手間もたいへんなので、麦を買い与えることにしました。もちろん、トンあたり4万円以上もする麦の代金は自費です。しかし、千羽残ったとすれば1トンの麦では1羽あたり1キログラムしか当たりません。その資金繰りで、いつもボーナスの大半が消えていきました」と笑いながら語ります。
現在、餌は町役場が全量確保しています。しかし、永年のボランティア給餌に多くの人の応援がありました。そんな善意の親交は現在もつづいていて、なかにはパン耳をトン単位で輸送してくれる人がいます。そんなときの経費は、今も山内さんが負担しています。その山内さんを応援する「浜頓別白鳥の会」(会長・加藤智裕さん)も結成されています。
白鳥に魅せられた人が、もう一人います。札幌市の桑園中央病院名誉院長である松井繁さん(75)です。
「1955年ごろ、北海道大学医学部から釧路市の太平洋炭鉱病院整形外科医長に迎えられました。勤務のかたわら、釧路湿原や網走の濤沸湖あたりを自分の庭のようにして歩き、最初はアマチュア写真家としてタンチョウを撮っていました。ところが、1957年ごろ釧路湿原のシラルトロ湖畔の対岸で、夕日の逆光のなかで水しぶきを上げてディスプレーしている数羽の白鳥と出会ったのです。遠いので鳴き声は聞こえなかったが、純白の姿は息を飲むほど美しかった。それ以来、白鳥とつきあうようになったのです」と語ります。
松井さんは網走市へ移転して開業医となったあとも白鳥を撮りつづけ、東京で個展「オホーツクの白鳥」を開いて“白鳥の松井先生”と呼ばれるようになりました。
1963年ごろから数年間、網走地方は毎年のように寒波に襲われ、白鳥は氷に閉ざされて餌が取れず、凍死や餓死していく数が増えていました。地元の中学生などと協力して、松井さんも給餌活動をおこなったのです。
1968年に松井さんは心臓を患って倒れました。ようやく回復したのを契機に「日本じゅうの白鳥の写真集をつくろう」と思い立ち、飛来地で研究や保護をしている人たちとの交流が始まったのです。そして、松井さんの呼びかけによって、1973年「日本白鳥の会」(現会長・藤巻裕蔵さん)が発足したのです。また、1980年にIWRB(国際水禽調査局)の代表者会議と白鳥と鶴の国際シンポジウムが札幌市で開催することになり、その母体も必要となりました。そこで、IWRB日本委員会を創立し、松井さんは1981年に日本委員会会長、日本白鳥の会会長に就任しました。
そのころ、北海道に渡って来る白鳥はオオハクチョウで、約1万羽と見なされ、コハクチョウは大ざっぱに5千羽程度とされ、コハクチョウはそのルートさえ解明されていませんでした。
山内さんと松井さんは、まず道内の渡りのルート調査に着手しました。道北のオホーツク海側、サロベツ原野などの日本海沿岸の各地で、コハクチョウを見かけたという人をたずね歩き、聞き取りの結果を5万分の1の地図に書き落としていったのです。すると、だんだん見えてきました。
樺太から宗谷海峡を越えたコハクチョウは、稚内の大沼に一部と、その大多数がいったんクッチャロ湖に羽根を休めたあと、天塩川流域の水辺を経由し、石狩川の本支流を通ってウトナイ湖、本州太平洋側に渡って行くルート。もう一つは、クッチャロ湖から日本海へ出て、本州の日本海側へ渡って行くのがありました。
1975年、山内さんは日本で初めて「001Y」の首輪をつけたコハクチョウを放ちました。
「邪魔物をつけて飛ぶのは可哀そう」「仲間外れにされて結婚できないのでは」と批判する声がたくさん寄せられました。
しかし、001Y号は最初の越冬地を最上川にして元気でいることがわかりました。2年目は島根県側の中海にいることが観測されました。そして4年目に、そのつがいが、初めての幼鳥3羽を連れてやって来たのです。
「標識をつけたときは、体重が3.5キロ程度の小さい鳥だったので心配でしたが、立派な親鳥になって戻ってきたことは、生涯忘れることのできない感動です」と山内さんは目を細めます。
標識観察はその後も必要に応じてつづけられ、今では発信器を装着したコハクチョウを人工衛星が追跡するという観測方法で、さらに渡りの経路や範囲が解明されつつあります。
山内さんが、とても残念がっていることがあります。札幌で白鳥と鶴の国際シンポジウムが開催されたとき、山内さんはラムサール条約登録湿地の指定第1号に浜頓別町をと名乗り上げたのです。おりよく札幌に出張していた当時の坂下町長も前向きでしたが、帰町したあと、大型の農業開発事業が認可されたため「開発とは必ずしも同調できない部分もありがち」という反対の声もあって実現できませんでした。
そのとき、国内第1号に登録湿地の指定を受けたのは釧路湿原でした。釧路湿原は、その後国立公園にも指定されました。
でも、山内さんたちはあきらめませんでした。それから10年後の1989年、宿願かなってクッチャロ湖は国内3番目の登録湿地に指定され、昨年、10周年を迎える各種記念事業をおこないました。
なかでも、東アジア地域ガンカモ類重要生息地ネットワーク」の初のワークショップが、6カ国70人の関係者が参加して開催されました。このとき、立松和平さんが「自然に学ぼう」と題した基調講演をおこないました。そのあと各地の状況報告、今後の活動方針などを話し合い、クッチャロ湖湿原保全協議会会長の市川昇町長は「クッチャロ湖が憩いの場として愛され、親しまれる湖になるように努めます」とあいさつしました。
また、ラムサール条約登録湿地指定10周年記念誌として、山内さんが40年間撮りためたクッチャロ湖周辺の動植物の写真集『自然の楽園・クッチャロ湖』(クッチャロ湖湿原保全協議会刊)が出版されました。そこには、コハクチョウたちの優雅な姿が幾枚にも収められています。
松井さんは、白鳥の白さに魅せられたと言いました。山内さんにも同じ質問をすると、「白鳥は他人ではない。身内なんですよ」と、しぜんに答えるのです。
「白鳥は、家族意識が強く、夫婦のきずなも固くて一生連れ添うと言われています」と説明するのは、水鳥観察館職員の小西敢さんです。神戸からやって来て酪農学園大学で学び、在学中、ワシミミズクに魅せられて山内さんと知り合いました。卒業後、山内さんの紹介で町役場に就職。いま山内さん指導でコハクチョウの研究と保護活動の修業中です。
「コハクチョウの夫婦は、その年シベリアで生まれて9月ごろ飛べるようになった幼鳥を必ず真ん中にして守りながら渡って来ます。湖面に降りてからも、夫婦で幼鳥を守りながら採餌しています。そんな様子を観察館を訪れた人たちに説明すると、人間よりも偉いわね、と感心する人が多いですよ」と笑います。
山内さんも「白鳥は、命がけで幼鳥を守ります。先日も、猛禽のチゴハヤブサが幼鳥を狙っていたとき、果敢にチゴハヤブサに立ち向かい、2羽の親鳥が協力して追い払ってしまったんですよ。また、ある研究者が傷ついた白鳥を家の中で保護していたら、朝方、白鳥がしきりに鳴くのです。どうしたかと思っていたら、その家族が屋根の上をなんども旋回して手負いの鳥の心配をしていたというのです」と話します。
クッチャロ湖のコハクチョウは、4月になると本州での越冬を終え、大群でクッチャロ湖に帰って来ます。そのとき、浜頓別の人たちは「クッチャロ湖白鳥フェスティバル」を開催して元気な鳥たちと給餌体験などをしながら交流し、再会を期待して、シベリアの営巣地へ送りだしてやるのです。
浜頓別町商工観光課
課長 菅 孝志さん
コハクチョウは、秋、北海道に近いシベリアの奥地からサハリンを経由してクッチャロ湖に入り、ここでしばし羽を休め鋭気を養って本州各地の水辺に散り、越冬したあと、ふたたび同じルートを通って帰っていきます。わずか9キログラム足らずのか細い体で、半年間に往復8000キロメートルに及ぶ長旅ルートの最大中継地であるクッチャロ湖は、日本に渡ってくるコハクチョウの80%近くが飛来するといわれています。それは、コハクチョウ自身によって、中継地として最適の場所として選ばれた湖なのです。
クッチャロ湖は、国内3番目にラムサール条約の登録湿地として指定を受け、地元の関係団体によって「クッチャロ湖湿原保全協議会を発足させて、10周年を迎えた昨年は、一連の記念事業を開催しました。その一つとして、昨年5月に発足した「東アジア地域ガンカモ類重要生息地ネットワーク」の最初のワークショップが町内で開催されました。ロシア、モンゴル、中国、韓国、フィリピン、日本の6カ国の研究者、行政機関、NGOの皆さんが参加したなかで、浜頓別町鳥獣保護委員の山内昇さんが「クッチャロ湖と私の40年」と題する基調講演をおこない、出席者に感銘を与えていたのは、町民にとって名誉なことでした。
ニューミレニアムを迎える今、私たちの20世紀をきちっと振り返り、大量生産、大量廃棄を続けてきたなかで、地球の温暖化や自然破壊によって野生生物ばかりか、人間の生命破壊の不安さえもあることを今の問題として学んでいかなければなりません。クッチャロ湖はそのための拠点であり、コハクチョウの飛来は私たちに安らぎを与えてくれると同時に、環境破壊の警鐘を鳴らす役割も担ってくれているに違いありません。ラムサール条約では「ワイズ・ユース」という言葉がよく用いられます。この言葉を大切にしながら、クッチャロ湖を人間回復と交流の場として賢く活用していきたいと思っています。