1990年9月初旬、かつて北海道新聞のコラム「卓上四季」の執筆者でもあった元論説主幹の小林金三さん(76)は、札幌のススキノの酒場で北海道大学工学部教授の足達富士夫さん(67=現同大学名誉教授・京都市在住)とワイン談義になり、足達さんが「おたるワイン」にきびしい評価をしたとのことです。
小林さんは、かつて同新聞社小樽支社長をつとめ、退社後は画家宣言をして画集『小樽・街と家並』を出版するなど小樽には特別の思いがあり、当然、大の「おたるワイン」ファンです。足達さんの酷評に対して「うちへ来れば、たぶん評価が変わりますよ」と反論する小林さんに「それほど言うなら、飲ませてくださいよ」という話になり、後日、小林さんの自宅に集まることになったのです。随筆雑誌『紅』(岩田醸造(株)発行)の編集者・小松宋輔さん(72)も招かれ、小林さんが瓶詰のまま念入りに保存熟成させた小樽ワインを賞味しあい、その“名誉”が証明されたのでした。
そのときに「年寄りが集まって酒を飲み、昔話ばかりしていてもつまらんじゃないか。何か前向きなことを考えようよということになり、私が“創成川の再生”を考えてはどうかと持ちかけたら、建築工学の専門家で地域景観計画研究会の主要メンバーでもある足達さんが、それはおもしろい、やってみようよと賛同してくれたのですよ」と小林さんは壮大な市民運動の発端を語ります。
9月11日、こんどは都心の喫茶店に5人が集まりました。小林さん、足達さん、小松さんのほかに、『紅』の会のメンバーで、足達さんとともに地域景観計画研究会の幹事でもあった北海道大学文学部教授の三谷鉄夫さん(66=北海道女子大学人間福祉学部教授、北海道大学名誉教授)と、北海道新聞社論説主幹で小林さんの後輩でもある竹内俊夫さん(71)が加わったのです。
早速、宣言文・再生構想・組織などの原案づくりについて話し合われ、10月2日には第1回準備会が開催されました。座長(現在は世話人代表)に三谷さんが選ばれ、このとき事実上の発足となったのです。参集者は12人になっていました。
11月7日の第3回準備会で、この運動体の名称を『創成川ルネサンス』とすることに決まりました。11月21日の第4回準備会では、小林さんの原案による呼びかけ文をみんなで論議しあい、「水辺の空間を市民の手に」(全文は9ページ参照)として決定しました。この呼びかけ文は、『創成川ルネサンス』の綱領といえるものです。
その文中で「大通公園と並んで、札幌にとってかけがえのない文化遺産として、かつて他の都市に類をみない象徴的な意味を持っていました…」とうたわれる創成川は、札幌市中央区の幌平橋上流(南17条付近)の豊平川から取水し、中島公園内の鴨々川に合流したあと、ほぼ直線に都心部を北流して日本海石狩湾に間近な茨戸湖(旧石狩川)に至る全長14.8キロメートルの人工河川(運河)です。かつて札幌ロイヤルホテル前(南6条)から札幌中央郵便局前を過ぎたあたり(北7条)までの水路は「大友堀」と呼ばれ、二宮尊徳から開墾の仕法を学んだ最後の弟子・大友亀太郎によって1866年(慶応2)に開削されたものです。開拓使によって札幌の町づくりが始まったとき、この大友堀は丁目を東西に区画する基点となりました。
大友は自由平等・勤倹貯蓄・報恩感謝の尊徳精神をつらぬいて元村の開墾事業に精魂を注ぎますが、新政府の度重なる政策変更に失望し、1870年(明治3)、札幌に4年間在住しただけで北海道を去ります。
その後、開拓使は北7条から茨戸湖(旧石狩川)まで開削をひろげ、「寺尾堀」「吉田堀」をつなぎました。当時、パナマ運河(1914年竣工)の着工を目前にして世界的な運河ブームが起こっていました。この水路にもA鴨々川の取水口をはじめ8カ所に閘門式(こうもんしき)水門を設けてパナマ運河のように水量を加減できるようにし、舟による物資の輸送を盛んにして札幌発展に大きな役割を果たしたのです。1874年(明治7)、全水路の完成とともに開拓判官・岩村通俊は、この水路に創成期の川の意味をこめて「創成川」と名づけました。その33年後、札幌にやって来た石川啄木は、日記のなかに「市の中央を流るる小川を創成川といふ、うれしき名なり」と記しています。
「北海道はどの町も鉄道の駅が主役で、そこへ通じる停車場通りと、それに最も近い道路がT字路につくられて街並が形成されています。ところが、札幌は駅から離れたところに大通と創成川通りがあり、この2本の道路が東西南北の基線になっているのです。もしこの通りがなければ、札幌は平凡な街ですよ。開削以来ほぼ130年、私たち市民はこの象徴的な文化遺産を食いつぶして手狭にしてしまったのです。これを100年残すために何かすることはないかというのが、この運動を立ちあげた最大の理由です」と小林さんは語ります。
小松さんは、さっぽろ文庫3『札幌風物誌』(札幌市教育委員会文化資料室編)に大意次のような一文を寄稿しています。
「明治4年、開拓使は水戸の商人井筒屋に命じて、南1条西1丁目に呉服・荒物を売らせた。間口10間(約18メートル)の大店(おおだな)だったという。翌年、南1条東1丁目の川畔に回漕会社、雑貨店、酒・醤油・味噌・呉服などの総2階建て共同店舗が生まれ、創成川をはさんでいまのデパートが並んでいるようだった。こうした殷賑(いんしん)も、札幌の発展とともに商店街が西、南へ移動していき、明治20年ごろには静かな創成川になる。」
1901年(明治34)ごろに、南1~2条東1丁目あたりで行商が路上にムシロを敷いて魚を売るようになり、朝早くから荷馬車が行き交い、にぎわいを取り戻しました。小松さんが子どものころは「染物屋が反物を創成川に流して水洗いをしていた」とも記しています。
さっぽろ文庫24『札幌と水』には、デザイナーの故栗谷川健一さんも創成川への思いを寄せています。岩見沢市で育った栗谷川少年は、毎年、札幌祭りに来るのを楽しみにしていました。「創成川の流れが太陽にキラキラと光っていて、白いのぼりが何本も揺れていた情景が思い出を形づくっている」と述べ、「札幌まつりは創成川の見世物小屋のにぎわいとも連なる。しゃがれ声を張り上げての木戸番のおやじ、着飾った女の子、ボアーと鳴るゴム風船。小屋掛けが川にまではみ出していたらしく、座席のむしろを敷いた床のすき間から流れが見えたりしていた」と記しています。
創成川ルネサンス世話人の野口孝博さん(北海道大学大学院研究科教授)も「昭和30年ごろまでは、創成川はむしろ人びとのたまり場所であった。車はまだ少なく、川べりは散歩をしたり休むのにも気持ちのよい場所であった。豊平館が元の場所(大通西1丁目)にあったころには樹木も多く、そこはまさに水と緑のオアシス。夏にはサーカス小屋がかかり、冬には歳の市がひらかれ、四季を通して人びとでにぎわっていた」とさっぽろ文庫74『わが街新風景』で述べ、「水量はあまり多くはないが、近づいてみると目にさわやかな印象を与えるほどに水は流れているし、なにより大きく育った柳の木の緑が美しい」としながらも「川の両側に大きな幹線道路が走っているため容易に近づけない」のを残念がっています。
そうした市民の熱い思いが一気に結集されたのが、1991年3月2日、札幌市教育文化会館で開催された第1回シンポジウム『水辺空間を市民の手に』でした。会場は70人収容の小ホールを借りていましたが、開場前からホール前に出席者が続々詰めかけ、あわてて70脚の椅子を追加しましたが、それでも足りないほどの盛況となりました。
三谷さんが、それまでに世話人として会の運営にあたる15人の世話人を代表して「きょうのシンポジウムは、この会の出発点として開きました。市民の力を結集して、東西の大通公園と並んで創成川べりを南北の市民の広場にしたい」と挨拶すると、満場から大きな拍手が送られました。
話題提供に立ったのは、地図エッセイストとして知られる堀淳一さんです。堀さんは、「日本の町は、精密、統一、清潔・整頓、純粋、コンクリート・アスファルト、そして水の6つの強迫症にかかっている。札幌の街もかなり重症なので、創成川ルネッサンスを盛り立てて、札幌をいい街にしていきたい」と講演しました。
次いで、辻井達一さん(当時・北海道大学農学部教授)の司会でパネルディスカッションに入り、パネラーの中村久子さん(作家)が「きょうは札幌の水辺の空間にとって歴史的瞬間なのかもしれない」としたあと、堀や橋をみずから造った大阪町人の土性骨を例にあげ、「街を良くキるために“民”がもっとアイデアを出してほしい」と述べました。世話人の足達富士夫さんは「創成川は札幌市最大の文化遺産なので、歩くスピードで生かす観点が必要。都心から2キロメートル四方は一般車の利用を制限し、シャトルバスの運行を考えてはどうか」と提案しました。小林金三さんは「札幌が200万都市を目前にしたさまざまなひずみを是正するためには、5年か10年を目途とする行政の計画にとどまらない100年の大計を誰かが引き受けなければならない。200万都市にふさわしい必然かつ天与の空間である創成川両岸を、現在の自動車道から市民が散策し憩うための空間とするためには、都市内の車の問題への新しい視点が必要」と強調しました。
フロアーには学識経験者の出席が目立ち、専門的な立場からエールを送る提言や意見発表が活発でした。「人間を大切にするまちづくりの原点にしよう」「市民が工夫してつくろうとする札幌のまちへ、みんなの意見や提案を集めよう」という熱い思いが会場にみなぎり、中村さんの提案で急きょ用意された拠金箱には約10万円の資金がカンパされるほどでした。そして、この日の出席者全員が「賛同者」となりました。以後、その数はますます増えて、活動の大きな支えとなっていきます。
「私たちの運動にとって最大の強みは2つあります。ひとつは事務担当・国岡正治世話人が会議室を無料で貸してくれていること。もうひとつは土木・河川工学、建築工学、交通計画、経済学など専門領域の研究者9人による『研究グループ』が1991年5月に発足し、現在まで毎月1回集まって創成川再生の構想や問題解決のための提案をめざして論議していることです。1993年に資料1『創成川の再生をめざして~魅力ある都心の回復』(浜田正さんの作成)、その翌年には資料2『創成川の環境整備』をまとめました。「この種の組織に多数のシンクタンクが参画し、具体的なプランニングをすすめているのは画期的なことだと思います」と、この会に大きな支えのあることを三谷さんは話します。
研究グループが作成した創成川再生のためのイメージプランは、両岸の自動車道を地下に移し、一軒の建物の立ち退きをせずに幅50メートル、長さ10キロメートルにおよぶ水と緑の大空間を生みだそうというものです。そして、都心の大通公園と創成川の交点に水と緑をテーマにした大広場をつくり、まわりにはカフェテラスその他が設けられ、創成川、大通、広場、時計台や豊平館、文化施設、商業施設、業務・コンベンション施設、集合住宅などで人間性豊かなシンボルゾーンをつくり、都心を活気づけます。
買い物の楽しさが魅力の二条市場は、冬は歩廊沿い、夏は道路沿いのフード商店街として、創成川・南2条通りと一本化させます。そして、創成川沿いには自由市場、青空市場が市民の手でひらかれ、一帯はユニークなマーケットプレースになるというものです。中流部分は、両岸の地上に1車線ずつの道路を残し、両岸の4車線を地下に移して、川の両岸を緑いっぱいの空間にします。
もう1つ提案しているのは、住まいと施設をドッキングさせて、空洞化しつつある都心に人を呼び戻すことです。住宅、商業、オフィス、近隣施設複合の建物で都心の街区をつくろうとするものですが、高層化は避け、地上12階建て(地上50メートル)に限定するとしています。
勉強会、シンポジウムの開催も活発です。「川の機能からみた再生への条件」、「市民自治をめぐる諸問題」「スーパー堤防の法制、現状、問題点」「創成川再生と交通問題」「歩行者天国の問題点を学ぶ」「創成川の水量」「都市の安全と水辺」「館工学と川」等々のテーマで、第一級の研究者による研究発表、講話をじかに聴き、学習を深めています。
歩きながら創成川の現状と将来について考えてみよう―と1991年6月から始めた『創成川ウォーク』は、毎年、楽しみな行事の1つです。参加者は数十人から100人前後になることもあります。札幌市民でありながら「創成川を初めて歩きました。いろいろな発見がありました」という人も多く「ウグイがたくさん泳いでいるのに驚きました。柳の木が豊かな感じで感激しました」という半面、「川辺に近づけるところが少なくて、川の存在を気づかないくらいです」「川としての実質がほとんど伴っていないことに気づき、創成川ルネッサンスという壮大な夢がとても輝いて見えました」という感想が寄せられています。
昨年9月、初めてのワークショップが札幌市民会館で開催されました。参加者は約60人。世話人の隼田(はやた)直彦さん(北海道大学大学院工学研究科助手)を中心に、北8~北12条の創成川、北3条通りを含む都心歴史地区の創成川、狸小路・二条市場を含むマーケットプレースと創成川の3地点のグループに分かれて、デザインゲームと呼ばれる手法で遊び感覚も織り込んだ環境デザインの夢を膨らませました。
創成川を含むオープンスペース構想は、札幌市の長期総合計画でも立案されています。その1つが1993年に発表した『国際ゾーン構想』でした。これは高次の都市機能をもった国際都市札幌にふさわしい都心再整備計画で、現在は『創世1.1.1区(そうせいさんく)の街づくり計画』と改称されました。北1西1街区、大通西1街区、大通東1街区をつくって(1)大通と創成川の交点に市民交流空間を形成する(2)大通公園を創成川の東へ約200メートル延長する(3)創成川通りの連続アンダーパス化と親水空間の整備(4)創成川から各街区にダイレクトアクセスし、地上の交通混雑の軽減を図るというものです。
これは、札幌市が2020年までを目標とする『第4次長期総合計画』のなかで事業化したいとしており、創成川全体も全長14.8キロメートルを「創成川コリドー」(本来は回廊の意味、都市軸として用いる)として魅力ある水辺空間を創出する考えです。
1997年、創成川ルネサンスは『第二期宣言』をしました。それは、札幌市の長期総合計画の中に創成川や大通の整備構想が織り込まれてスタートする時期を迎え、新たな取り組みが求められるようになったからです。そうしたとき、三谷さんたち世話人一同をうれしがらせる大きな動きが、今年ありました。
「私たちは、つねづね創成川べりで生活している人や企業、ホテル、商店の人たちはどのように考えているかを知りたいと思い、できれば私たちの運動に積極的に参加してほしいと願っていました。それが、運動10年目を前にして、とうとう動いたのです。JR線以北の、最も劣悪な状態に置かれている創成川べりの町内会が、なんと1,200人もの賛同者の署名をもって表明したのです。私たちは、このことを創成川ルネサンスの歴史的転換期に至ったと評価して、狂喜しています」と感激を隠しません。
創成川ルネサンスの賛同者は、すでに2,000人を超えたといいます。そこには、自分たちが生きる街、自分の子孫が住み暮らすであろう街のあり方を市民主体で構想したい、という熱い期待が込められているのを強く感じます。
水辺の空間を市民の手に (創成川ルネサンスのアピール文)=======
大通公園のない札幌をみなさんは想像できるでしようか。都心にひろがる「いこいの空間」としての大通公園が、どんなに私たちの心をなごませていることでしょう。
創成川は大通公園とならんで、札幌にとってかけがえのない文化遺産として、かつては他の都市に類をみない象徴的意味をもっていました。しかし、残念ながら現在の創成川は両岸が車道で占められ、市民を近づけようとしません。さらに水辺は荒廃し、水量も減ったこの川は溺死の状態です。
これまでの都市計画の中では、創成川を活かす視点が欠けています。都心にあるこの貴重な水空間がこのまま放置されてよいのでしょうか。
札幌は豊平川をはじめ多くの川に恵まれていましたが、いまでは水景観の貧しい都市になりました。みなさん、創成川の再生をめざし、人と水、都市と川の幸福な結びつきを求めようではありませんか。
水流を豊かにし、両岸に木を植え、広い歩道をつくり、子供たちが安心して遊べ、同時に市民が自由に逍遥できる豊かな環境にできたらどんなにすばらしいことか。いまこそ、創成川を市民のために生き返らせましょう。
かつて石狩から都心に物資を運んだ動脈を、市民の「心の水脈」としてよみがえらせるのです。
大通公園が東西の逍遥地であるように、創成川の水空間を「南北の逍遥地」にしようではありませんか。それは同時に、将来における札幌市の都市環境再編の主軸となるに相違ありません。
10年や20年の事業としてではなく、100年の子孫に残すに足る規模雄大な水と緑の空間にして、創成川の再生を期しましょう。
もちろん、この事業は私たちだけでできるものではありません。市民のみなさんの声を結集して、札幌市の都市計画に反映させなければならないと考えます。
100年の子孫のために、いまこそ創成川ルネサンスを!
みなさんの積極的なご参加をお願いいたします。
創成川ルネサンス10年のあゆみ ======
1990.10.2 第1回準備会。足達・浅海両氏が「創成川再生構想」3試案説明。運動目標など自由討議。世話人代表に三谷鉄夫氏選出。
1991.3.2 第1回シンポジウム「水辺の空間を市民の手に」。「最近の都市について」堀淳一氏が話題提供。「町人のマチ・官主導のマチ」中村久子氏「創成川再生のイメージ」足達富士夫氏「なぜ、市民運動か」小林金三氏のパネラーで討議。約140人出席。
1991.5.13 研究グループ発足。足達富士夫氏ら9人の学者、専門家で組織し、創成川再生構想や問題解決のための提案をめざす。
1991.6.30 第1回創成川ウォーク。参加者90人。
1991.11.9 第2回シンポジウム「創成川再生のイメージ」。「川の機能からみた再生への条件」小林三樹氏、「創成川再生の一試案」足達富士夫氏、総合司会 三谷鉄夫世話人代表。
1992.2.5 札幌市新5カ年計画に「創成川再生の推進」盛り込まれる
1992.4.4 賛同者の集い(豊平館)。約60人出席。賛同者からは「創成川再生のグランド・デザインがほしい」「再生すべき対象地域はある程度限定するのもやむをえない」「ある日突然、創成川べりの国道がアンダーパスとなり、創成川ルネサンスの構想と違った計画が一人歩きしないよう注意が必要だ」などの意見。
1992.10.3 第2回創成川ウォーク。参加者160人、バス3台に分乗。
1992.11.28 第3回シンポジウム(市民の集い-創成川のあすを語ろう)「札幌都心再生計画イメージ」に出席者約100名。
1993.9. 資料1「創成川の再生をめざして-魅力ある都心の回復」(浜田正作成)を行政当局、賛同者に配付。
1994.8. 研究グループがまとめた『魅力ある都心の回復』-札幌に水と緑の座標軸を求めた再生イメージの提案。
1994.12.3 世話人9人が旭川買物公園運動の経過をきく。約60人参加。
1994.12.13 世話人が札幌市長と懇談。
1995.3.20 映画「柳川堀割物語」の高畑監督を大友亀太郎像まで案内。
1995.3.21 「柳川堀割物語」の上映会でパンフレット約400部配布。
1995.7.28 市の5カ年計画に関する要望書提出
1995.11.26「札幌の川と文化を語る集い」に約70人出席。
1995.12.28 新5カ年計画への要望書に対する市の回答懇談。
1996.3.20 「創成川通アンダーパス化研究会」。
1996.6.12 札幌新5カ年計画は創成川再生を都心空間、アンダーパス、潤いのある街並の3点からとらえると市側説明。
1996.7.1 賛同者森林会議会長大内力氏(東大名誉教授)が来札、懇談。
1996.8.3 豊平川ウォッチャーズほか数団体から「札幌の水辺に関する市民団体の集合体をつくりたい」との呼びかけがある。
1996.11.30 シンポジウム「都市の川を考える」で小林三樹が基調講演、バネリスト韮沢憲吉氏が創成川ルネサンスの実状と運動を説明。
1996.12.5「'96北のくらし大賞」奨励賞受賞(読売新聞社道支社主催)
1996.12.26 札幌市の国際ゾーン計画と創成川再生の関連の説明受ける。
1997.4.28 創成川ルネサンス第2期宣言。
1997.6.20 岡本札幌市道路計画課長らが世話人会に出席、懇談。(1)アンダーパスの区間は北3条から南5条まで約1,100m。実質880mを地下で一本化。(2)車線は地上片側2車線に。(3)創成川べりの緑地の親水空間は現在の14m幅から30m幅に拡大し、水と緑の憩える場所にする計画。平成12年度までに事業に着手。
1998.5.9 「水と緑の都心公園を考えるシンポジウム」開催。「創世1.1.1区」計画について入江二郎札幌市主査が説明。
1999.9.25 市民会館でワークショプ開催。約60人出席。