昔、蝦夷と呼ばれたころから、北海道に入るためには函館と小樽が入り口でしたが、さらに奥地に入るには、積丹(しゃこたん)半島に囲まれた天然の良港の小樽が便利でした。
明治13年から15年、この小樽に莫大な国家予算が投入されました。まず港が整備され、アメリカ人技師らによって小樽と幌内(現三笠市)間に日本で2番目の汽車が走りました。廣井勇ら日本人技師によって国産初の防波堤が完成し、小樽運河や、貨物列車10台分の石炭が一度に貨物船に積み込める巨大な手宮桟橋なども造られていきました。
そのため、小樽には日本中の銀行が集まり、北のウォール街ができました。穀物取引所が400軒を数え、「小樽がくしゃみをするとヨーロッパが大不況に陥る」とまでいわれました。小樽に行くと地面に「金」が転がっていると聞き、日本中の職人の担い手がやってきました。本州職人のように何百年の伝統のなかで磨き、形を変えず継承していく職人環境とは違い、彼らは気候の厳しい北海道で現地に合った独自なものを造りだしていきました。しかし、やがていつしか機械化という時代の波にのまれ、手仕事で造りだす職人業界は斜陽となり、後継者も少なくなっていったのです。
日本は「手業(てわざ)の国」です。口に運ぶほうの手を右手、柄のおたま・しゃもじを持つ手を左手と文字にこだわるものも多くあります。「手をかける」「手を加える」「もっとうまい手」「手加減」「手塩にかけて育てる」等々、多くの手にまつわる事柄があります。
かつて北の台所といわれた小樽を担い、小樽に貢献し、小樽にとっては宝物のような職人さんに元気を取り戻してもらおうと、平成4年、手仕事にこだわる職人32人で「小樽職人の会」を誕生させました。会則も遊び心で「定め書」とし、会長は組頭、副会長は小頭、総務は文書方、会計は勘定方、監査は大目付、支援していただく団体は御意見番。会員の条件は『いつも心の中に小樽の街に流行を興して、その時代に活力と文化を築きたいと自認する者で、我こそ日本一の職人気質と自負する衆とする』です。
今までは、世界にたった1つしかない帽子を作るすばらしい職人でも、一匹狼では、市の技能者表彰でなかなか認められませんでしたが、おかげさまで小樽職人の会が市から推薦団体として認められ、以来、毎年表彰させていただくようになりました。職人の会も高齢化が進み、パイプ役の若手を除くと平均年齢60歳代ですが、95歳でかくしゃくとして仏壇の金箔張りをしている会員もいます。もちろん、親子で当会に入っています。総理大臣賞に輝く金沢の加賀染師・玉作(たまさく)先生を迎えての勉強会、小中学生を対象にしたものを作る喜びを感じてもらう体験塾、技を見せる職人展等々の事業も展開しています。
昨年10月には永六輔さんを招き、「第1回全国職人学会」を開催し、日本全国から志を同じくするたくさんの方々が参集しました。全国各地の職人グループとリンクしたホームページも開くことができました。
〈北の職人衆 ふり向けばフロンティア〉。私、これからも古いだけのベテランではなく、プロとして死ぬまで勉強をつづけ、この会とともに歩んでいきたいと思っています。