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2000年07月号/第99号  [特集]    

名を変え、姿を変えて戦時下の弾圧を切りぬけ戦後に引き継いだロータリークラブの精神
戦時下を生きぬいたロータリークラブ
西條 正博 (さいじょう まさひろ ・ 国際ロータリー第2510地区 1995~96年度ガバナー)

  ことし創設80年を迎える日本ロータリーの第2510地区IM(都市連合討論会=Intercity meeting)の第4・第5分区合同IMが、2月26日、札幌で開かれました。その席で『21世紀ロータリーに未来はあるのか―弾圧に耐えたロータリー』と題した、札幌ロータリークラブ会員でパストガバナーの西條正博さんによる基調講演がありました。
 ロータリークラブは、一般には実業家・専門職業人の国際的団体で、国際親善、職業奉仕、社会奉仕をモットーに、1905年(明治38)シカゴの弁護士ポール・ハリスが提案者となって創設されたと知られています。この日の講演はあまり知られていない日本のロータリークラブの戦時下における弾圧の歴史とあって、若いロータリアンはもちろん、多くの会員の心に新たな感動と会員であることの誇りをよみがえらせました。
 西條さんが長年にわたって調べあげたなかから、日本のロータリークラブ創設から終戦までの29年間の歴史を、シカゴでの創設当初の経緯もふくめて語っていただきました。

はじめに

私がロータリークラブに入会して32年。この間、たくさんの方々と知りあい、1995年から1996年まで、まとめ役のガバナーも務めさせていただきました。

入会まもなく勉強のつもりではじめたロータリークラブの歴史資料集めが、いまではライフワークのようになってしまいました。そこには、私を夢中にさせるような先輩ロータリアンたちの人間像や英知が凝縮されていたからです。

日本のロータリークラブは、1920年(大正9)10月に東京ロータリークラブが誕生してから、ことしで80周年を迎えます。

イメージ(毎週水曜日に開かれる札幌ロータリークラブの例会。正面に掲げられた日の丸が、戦時中の歴史的背景を物語ります)
毎週水曜日に開かれる札幌ロータリークラブの例会。正面に掲げられた日の丸が、戦時中の歴史的背景を物語ります

最初は、わけがわからぬだけに新鮮でもあり、先輩たちはロータリークラブをよく勉強したようです。そして、しだいにクラブ数も増え、日満(日本と満州=現中国東北部)ロータリークラブの構想も土壇場で実現し、1940年(昭和15)、第1回日満ロータリークラブ連合大会が横浜市で開催されました。これは、戦前最後の地区年次大会となるものでした。

一方、日本の国情は日露戦争から第1次世界大戦を経て、いくつかの事件や事変のなかから、軍国主義が強大なものになっていきました。ロータリークラブの誕生から20年後、日本のロータリークラブは時局の流れに抗しきれず、崩壊していきます。

イメージ(ロータリークラブの理念は「理想の人間の生き方、社会のあり方」と語る西條正博さん)
ロータリークラブの理念は「理想の人間の生き方、社会のあり方」と語る西條正博さん

しかし、ロータリークラブの理念にとりつかれた戦前のロータリークラブ会員は、クラブの名を変え、姿を変えながら戦争を切り抜け、ロータリークラブの精神を大切に戦後に引き渡して、やがて今日の隆昌をみることになるのです。

こうした、日本にロータリークラブが設立されてからの発展と弾圧の20年と、後年「隠れキリシタン」といわれるにいたった戦時下・占領下の9年間を合わせた29年間をたどることによって、ロータリークラブの未来を考えてみたいと思います。

ロータリークラブは都会の孤独を嘆く4人の友人から始まった

いまから95年前の1905年(明治38)2月23日、アメリカ合衆国中西部のイリノイ州の都市シカゴ市に、4人の友人によって1つのクラブが誕生しました。提案者のポール・ハリスは弁護士、ガスターバス・ローアは鉱山技師、ハイラム・ショーレーは仕立て職、そしてシルベスター・シールは石炭商を生業にしていました。

当時のシカゴは、大量に流入してくる外国移民や労働者で膨れ上がり、人口200万人を超える大都市になっていました。ちょうど30年あまり前の1871年にシカゴに大火が発生し、その後の復興や商工業の発展、世界博覧会(1893年)の開催などによる建設ラッシュの時代でした。

都市の急激な成長は、一方では住む場所や生活水準の質の低下を招くこともあります。ジェーン・アダムス(のちにノーベル平和賞受賞)が市内ウェストサイドのスラム街にアメリカ初のセツルメント「ハル・ハウス」を設立し(1889年)、そこに暮らす人たちの生活改善に取り組むなどの動きもありましたが、労働者と資本家の対立は激しさを増すばかりでした。メーデーもこのシカゴでうまれたものです。武装警官の拳銃がストライキ参加者に向かって火を噴き多数の死傷者がでたヘイマーケット事件など、アメリカ労働運動史上に残る血なまぐさい暴動や大争議がつづいていたのです。

そして強盗、殺人…、当時のシカゴは人の心が荒れすさみ、まったく悪の巣と化していました。移民たちがもちこんださまざまな言葉も、人びとが心を通わせるには大きな壁となりました。200万という人口を分析すれば、イタリア系もスペイン系もフィリピン系もみな少数、しかも不安を語り合うことなく、ばらばらに暮らしているのがシカゴでした。ロータリークラブが一時期、例会では必ず英語で会話することとされていたのは、共通語で心をハわせようとしたのかもしれません。

イメージ(持ち回りで例会を開いたことから名付けられたロータリークラブのロゴマーク)
持ち回りで例会を開いたことから名付けられたロータリークラブのロゴマーク

とにかく、こうした都会の孤独を嘆き憂えたポール・ハリスら4人が語り合い、第1回の会合を開いたのが、ロータリークラブのはじまりです。クラブの目的は、会員の親睦と相互扶助。ロータリーとは、会員が持ち回りで順番に、集会を各自の事務所で開いたことから名づけられました。1つの職業につき1人の会員が原則でした。

相互扶助から奉仕の精神へ成長する理念

現在の国際ロータリー162カ国、2万9千を超えるクラブ数と119万人の会員を有する、民間の任意団体としては巨大な組織となっています。そのうち日本は、2,281クラブ、12万3千人の会員がいます(1999年6月30日RI公式発表)。

世界に散らばるロータリークラブには共通の綱領があり、
一、奉仕の機会として知り合いを広め、
一、自己の職業の道徳的水準を高め、
一、個人の生活全般に奉仕の理想を適用し、
一、国際的な理解と親善と平和を推進する。
となっています。なかでも「クラブ奉仕」「社会奉仕」「職業奉仕」「国際奉仕」の四大奉仕を掲げ、到達しえなくても理想に向かって努力することが大切との意味をこめて「奉仕の理想」という言葉を大切にしています。

この奉仕の理想という目標は、最初から掲げられていたわけではありません。ロータリークラブの綱領は、これまでの長い歴史のなかで多くの先輩ロータリアンの優れた考えをとりこみながら、なんども書き変えられ、より高い思想へと成長してきたといえます。

最初、ポール・ハリスら4人の目的は親睦と相互扶助であって、あくまでも会員の利害得失の域をでませんでした。たとえば、だれかが洋服をつくるときは、仕立て職のハイラム・ショーレーに原価で提供させ、それを例会で発表するといったぐあいです。

しかし、それでも寂しさ抱えた人間がうずまく都会です。趣旨に賛同するものが次々に現れ、会員は会合のたびに増えていきました。

そして、4人のロータリークラブ誕生の2年後のこと。現在のロータリークラブの思想にまでつながる、ある出来事がありました。弁理士のドナルド・カーターに入会を勧誘し、断られたのです。理由は「自分たちの利益だけを追求する団体は、社会的に意味がない。そんな団体はやがて崩壊する」というのです。

38歳になったポール・ハリスは、その言葉にすっかり感心しました。そして「自分のまわりがみんな幸せでなければ、自分たちも幸福になれないのだ。世のため人のために、何か自分たちのできることをしよう」と決意します。

さっそく、綱領に「シカゴの繁栄とシカゴ市民の幸福のために」という言葉の追加を提案、そして「相互扶助」の文字を削除したのです。ロータリークラブに、はじめて奉仕の概念が芽ばえ、同時に地域社会への奉仕の概念がうまれた瞬間でした。

日本初の東京ロータリークラブを創設した2人の翁

素晴らしい理念を得て、会員はますます増えていきます。入会当初は力のなかった人たちもしだいに力をつけ、業界の中で頭角をあらわす人もでてきました。そうなると、もともと社会的な地位や財力のある人も入会してくるようになりました。

ポール・ハリスはシカゴだけでなく、おもな都市にもロータリークラブを広めようと考えました。奉仕の概念がうまれるときも「自分たちのために入会したんだ」という反対がありましたが、このときもやはり反対者がいました。それでも、1910年(明治43)にカナダのウィニペッグに17番目のロータリークラブができたことで、1912年(大正元)、そのころ16のクラブをまとめていた全米ロータリークラブ連合会を国際ロータリークラブ連合会とあらためます。ロータリークラブはこのときはじめて、国際化したといえるでしょう。

この後、カナダからイギリスへ、イギリスからヨーロッパ全土へ、そしてインドやフィリピンへと、ロータリークラブは世界に広がっていきました。アメリカ大陸が発見され、夢と希望をもってこの国にやって来た人びとが西へ西へと開拓をすすめていったのとは反対に、ロータリークラブは東へ東へと広まっていったのです。

順番からいえば、日本のロータリークラブもこの東漸の歴史に含まれますが、日本へはそうした流れの延長で入ってきたのではありません。

わが国のロータリークラブは1920年(大正9)10月20日、当時、三井銀行の重役だった米山梅吉が東京ではじめて設立し、翌年4月1日に世界で855番目のクラブとして加盟承認されたと記録にあります。しかし、これにはもう少し、あまり知られていない歴史があるのです。

1904年に三井物産に入社した福島喜三次は、ニューヨーク支店勤務を経たあと、1912年にダラスで三井物産の子会社を設立し、大々的な綿花の商いをしていました。1915年には、34歳でダラスロータリークラブのメンバーになっていました。日本人第1号のロータリアンです。その彼が、数年後に転任で帰国する際、送別会の席で「東京へもどったら、東京ロータリークラブをつくったらどうか」とすすめられたのでした。

国際ロータリークラブ連合会の委嘱を受けてもどった福島喜三次は、かなり優秀な人ではありましたが、三井物産の社員のひとりにすぎず、東京ロータリークラブの設立はあまりに大きな仕事でした。そこで三井銀行の重役だった米山梅吉に依頼したのです。

米山梅吉はアメリカ旅行の際に福島喜三次の家に3泊しており、そのとき喜三次の紹介でダラスロータリークラブを表敬訪問したらしく、ロータリークラブの予備知識はあったようです。こうして米山梅吉が会長となり、福島喜三次が幹事となって、東京ロータリークラブがうまれたのです。

日本初のロータリークラブは、この福島喜三次がいなければできなかったといっても過言ではありません。東京ロータリークラブ50年史には「米山梅吉と福島喜三次のどちらがロータリークラブをつくったのか、断定はできない」と、2人を称えています。

そしてこの間、1914年(大正3)に勃発した第1次世界大戦とその戦後処理を経験したロータリークラブは、「奉仕のなかに地域社会を超えた国際奉仕」という概念を抱くにいたり、国際ロータリークラブ連合会は1922年(大正11)に現在の国際ロータリー(Rotary International)へと改称したのです。

次々と日本にクラブが誕生しかし国内情勢はしだいに険悪に

戦前の日本ロータリークラブ発展の20年間を振り返ると、前半10年の拡大はまことにゆるやかでした。

大阪にロータリークラブが設立されたのは、東京ロータリークラブが誕生した2年後の1922年(大正11)でした。三井物産大阪支店に転勤となっていた福島喜三次は、このときも幹事として裏方に徹しています。さらに2年後の1924年(大正13)8月に神戸ロータリークラブ、名古屋ロータリークラブはその12月。京都ロータリークラブが創立されたのは翌年1925年9月でした。その1年後には横浜ロータリークラブが創立しましたが、その後の4年間は1つのクラブも誕生しておりません。これはやはり、ロータリークラブを理解するのに一定の時間を要したのではないかと思われます。そして後半、第2次大戦までの10年間のロータリークラブは、目を見張るように拡大していきます。

1932年(昭和7)、広島に次いで、札幌ロータリークラブがうまれ、12月3日に豊平館で創立総会が挙行されています。当時、第70地区で13番目。日本で、8番目のクラブでした。翌1933年(昭和8)には福岡に次いで小樽ロータリークラブが、さらに1934~37年(昭和9~12)は日本全国に次々とロータリークラブが誕生(別表参照)していきます。しかし、日本の時局の流れもまた、急に慌ただしくなっていくのです。

広島ロータリークラブが誕生する前年、1931年(昭和6)9月18日、満州・奉天(現瀋陽)の北東約7.5キロメートルにある柳条湖付近で南満州鉄道の爆破事件が発生しました。それが契機となって、いわゆる満州事変へと発展、日本は十五年戦争の泥沼に突入していきます。そして1933年(昭和8)3月、満州国を承認されないままに日本は国際連盟を脱退、しだいに世界から孤立していきます。

国内では1935年(昭和10)8月に、陸軍内部皇道派の相沢中佐が永田軍務局長を斬殺するという事件が起こり、これが導火線となって翌36年(昭和11)2月26日に、いわゆる「二・二六事件」が起きました。これは、皇道派青年将校らが“昭和維新”の軍部クーデターをくわだてて決起し、高橋是清蔵相、斉藤実内大臣ら重臣を殺害。警視庁、朝日新聞社を襲撃したのです。

首謀者らが賊軍として銃殺刑に処せられて一件は終息しますが、この暗殺事件は以後の日本国の指導者層に不気味な暗い影を投げかけ、重大な決定に迷いを生じさせるようになったことは見逃すことのできない事件です。

では、世界の情勢はどうだったでしょうか。

1939年(昭和14)9月、ドイツはポーランドに侵入し、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告して、ここに第2次世界大戦が勃発しました。

この大戦勃発に対して、当初、「日本は、これに介入せず」と声明を発して、大戦不介入、中立維持の方針を明らかにしていました。しかし、日・独・伊三国が軍事同盟を結んだのは、この時からちょうど1年後の1940年(昭和15)9月のこと。翌年の1941年(昭和16)12月8日には、日本軍がアメリカ領ハワイの真珠湾を攻撃して、太平洋戦争が勃発したのです。このときアメリカとイギリスは日本に。重慶(中国)国民政府は日本、ドイツ、イタリアに。ドイツとイタリアはアメリカにとそれぞれ宣戦布告をおこない、これで20世紀最大規模の第2次世界大戦が展開するにいたったのです。

国際ロータリーは、この第2次世界大戦をふくめて、1937年(昭和12)からの5年間に、ドイツ、イタリア、日本など33カ国で、484クラブと16,700人の会員を失いました。これは、当時の国際ロータリーの規模の10パーセントにあたります。このうち、日本・満州のクラブは48クラブ(内地37、外地11)で、会員数は2,142人。じつに解散した世界のクラブの10パーセント以上を占めスのでした。

一方、日本のロータリークラブは1938年(昭和13)には新しい組織が誕生しませんでしたが、翌39年には盛岡と熊本に、40年4月には新潟に、つづいて6月21日には愛媛県に宇和島ロータリークラブが創立されます。しかし、その加盟が承認されながらも、いまだ認証状が日本に到着しない8月から、日本のロータリークラブはすべてがあわただしく国際ロータリーを離脱、クラブ自体も次々に解散していくのです。

生き残りをかけたロータリークラブの日本化

この解散の経緯を語るには、満州事変の以前に話を戻さなければなりません。

1925年(大正14)は、京都にロータリークラブが創設された年でした。日本で5番目のクラブ、9月のことでした。

この年はまた、治安維持法が公布された年でもありました。第1次世界大戦後、普通選挙を成立させたものの、政府はいっさいの反体制運動の抑圧をねらって、思想・結社・運動の自由をはく奪し、国の方向に立ちはだかるもの、あるいは変革しようとするものをことごとく排除しはじめていました。

世界各国のロータリークラブも日本のロータリークラブも、解散を余儀なくされた背景に第2次世界大戦があることは明らかですが、ほかにも共通して曲解に利用された次のような2点のこじつけがありました。
 1、ロータリークラブはアメリカに本部をもっており、それぞれがスパイ活動をおこなっている。
 2、ロータリークラブの実態は、フリーメーソンである。

フリーメーソンとは、もともと中世ヨーロッパで教会建築に活躍していた石工(メーソン)の同業組合を母体に、18世紀初めにイギリスでうまれたものです。世界市民主義、自由主義的友愛組織で、一時は多くの知識人を集めましたが、神秘的な儀式をおこなったり、特殊な合図や符丁を使うという秘密主義のため、政治的、宗教的迫害を受けた歴史があります。近年は秘密結社的な色彩が濃いのですが、いまでもたまに新聞、雑誌の国際的な駆け引きを伝える記事中に「フリーメーソン」という文字が出てくることがあります。

海外でも日本でも、ロータリークラブはたしかに最初、『手続要覧』も英語、ロータリーソングも英語、例会での会話も英語でした。英語の読み書きができない人は、クラブをやめざるを得ないということもありました。入会資格も、一業種一会員の決まりがあり、社会的、人格的に優れた人間と認められて推薦されなければ会員になれません。特殊な用語も使います。そんなところが、外面的に秘密主義、結社的にみえたのでしょう。

ロータリークラブは、しかし、国家の体制に反対しているわけではありません。戦争の方向に反対する人は昔からどこにでもいるし、ロータリークラブにかぎったことではありません。あれほど厳しい軍隊にも脱走兵はいたし、その脱走兵をかくまう人もいたのです。

ところが、日本の軍部や右翼には、ロータリークラブの一挙一動がことごとく癇にさわっていたのです。「ロータリークラブはアメリカに本部のある団体の出先機関であって、いずれ日本はアメリカと戦争するのだ。その敵国となるアメリカのために、スパイ活動をしているにちがいない」あるいは「あのフリーメーソンにちがいない」と。

まさに満州事変が勃発する直前の昭和初期、世の中がきわめてキナ臭くなりはじめて、日本のロータリーは、あらぬ誤解をまぬがれるために「日本化」をいそぎました。

まず、1928年(昭和3)10月、東京で開催された太平洋ロータリー大会の第3日に、大阪クラブの土屋大夢が『ロータリー以前の偉大なロータリアン』と題して、二宮尊徳の話をし、「その報徳の教えはロータリーと同じではないかと言って、『二宮翁夜話』の水車の話や湯船のたとえを示して一同に感銘を与えた」と記録にあります。

そのたとえは、次のようなものです。

湯船のたとえ

ある時、二宮翁は箱根の温泉で、次のように話しました。

ちょうど、お湯が出てきた。「ああ、いいお湯だ」と、ぐいとその湯を自分の方に手繰り寄せると、一度は自分のところにお湯がやって来たようだが、するりと抜けて先方へ行ってしまった。それを逆に「ああ、いいお湯が出てきたよ」と、その湯を先方へ押しやると、先方を喜ばせたお湯は、はね返って自分の方にやって来た。
“弱く押せば弱く返る。強く押せば強く返る”


人体の組み立て

それ人体の組み立てを見よ。人の手は我が方へ向きて、我がために便利にできたれども、また向こうの方へも向き、向こうへ推すべくできたり。これ人道の元なり。

さらに土屋大夢は、「アーサー・フレデリック・シェルドンが『最もよく奉仕する者は、最も報いられる』と言うずっと以前に、二宮尊徳はすでにこれを説いていた」と強調したのです。

イメージ(戦時下でつくられた日本語のロータリーソングはいまも例会で歌われています)
戦時下でつくられた日本語のロータリーソングはいまも例会で歌われています

また、それまで英語で歌っていたロータリーソングも日本語で歌おうということになりました。そして、広く日本じゅうから募集し、1935年(昭和10)の京都地区大会でその入選作四編が発表されました。そのなかの『奉仕フ理想』や『我等の生業』は“ロータリーの君が代”などと陰口をきかれながらも、いまでも歌いつづけられています。

こうして、会員たちは政府の火の粉をなんとか振り払おうとしたのですが、時局の流れはそれよりもずっと早かったようです。日本は1932年(昭和7)に満州国建国を宣言し、その翌年、満州国は日本の傀儡(かいらい)国家だとして承認しない国際連盟を脱退。世界から孤立していくのです。

強まる弾圧のなか「国際ロータリーの精神」をラジオ放送

1935年(昭和10)は、ロータリークラブの創始者であるポール・ハリスとその夫人が、2月9日に初めて日本を訪れ、日本のロータリーにとってたいへん喜ばしい年となりました。

しかしまた、このころはロータリーに対するいやがらせや弾圧が露骨になってきたころでした。前年の1934年6月に、「日本ロータリーの国際ロータリー脱退」という記事がアメリカの新聞に報道されました。そのときは「誤報」と一笑に付されたのですが、6年後にはこれがほんとうになるのです。

京都ではそのころ、岡崎公会堂で右傾団体の京都支部の結成式があって、その席上で「ロータリー排撃」の決議がなされていました。そして、その決議文が京都ロータリクラブの石川芳次郎会長に手渡されたのです。11月1日には国家社会党と称する政治団体から「ロータリーは国家思想に反するフリー・メーソンの外郭団体だ」と決めつけた書面が送られてきました。

その国家社会党とは、その後、石川芳次郎会長と国家社会党支部長とのあいだで「例会で日の丸を掲揚し、君が代を歌うこと」で話し合いがつきました。京都クラブはさっそくこのことを日本じゅうのロータリークラブに連絡し、以後、日本のすべてのロータリークラブは日の丸を掲揚し、君が代を歌うことになりました。このことは現在にまで継続されています。

こうした中傷は、各地で頻発するようになっていました。九州でも、同じく「ロータリーはユダヤの秘密結社フリー・メーソンと関係がある」という抗議が福岡クラブに持ち込まれました。神戸では、例会で「マルクス主義批判を聴いて会報に掲載した」ということで警察に呼び出され、「ロータリーは左翼と関係がある」として取り調べを受けました。大阪でも、国粋主義者がしばしばクラブ会長に面会を強要し、壮士が例会場に暴れ込もうとしたこともあったといいます。

それからしばらくしてからのことですが、東京の三越で内務省および陸海軍省の後援のもとで各種の秘密結社のスパイ活動の展示がありました。その結社の中に、ロータリーも加えられていたのです。驚いて取り除きを求めましたが、しかし、四王天中将のごときは、あくまでもロータリーとユダヤの関係を信じて攻撃の手をゆるめませんでした。

調べてみますと、その源はフランスのコド・ポアステルというカトリック牧師の書いた『国際ロータリークラブとマソン結社』と『マソン結社の組織と秘密』という国際政経学会調査部が発行した本の訳本であることがわかりました。

こうしたロータリークラブに対するいやがらせは、クラブ自体で適切に対処しましたが、全国的な問題にもそれなりの手をうってはいました。

東京クラブの松井茂会員は、貴族院議員として1939年(昭和14)4月、議会で例のスパイ活動展示会のことを質問し、有田外務大臣から「ロータリーは国際親善に寄与するところ大なるものがあり、政府は巷間おこなわれているがごとき見解を有していない」という答弁を得て、その官報記載文を機関誌に掲載しました。

同じ1939年の9月30日、米山梅吉も仙台中央放送局から『国際ロータリーの精神』と題したラジオ放送をおこなっています。そのうちの「ロータリーに対する世界の誤解」は別項のとおりです。。


昭和14年9月30日 米山梅吉が仙台中央放送局より
『国際ロータリーの精神』と題した放送原稿
ロータリーに対する世界の誤解

然るに、ここにまた驚くべきは、近時わが邦(くに)においてロータリーをユダヤ系の一種の機関なるが如く曲解し、思想的にこれを危険視する者があることである。

先に、特殊の国情にあるドイツにおいては、フリー・メーソンがユダヤ人の関係に於(おい)て政治的有害の行動に出たという理由で、ナチス政府はこれを弾圧したのであるが、其の結果、フリー・メーソンより転じてロータリーに入会せる者ありしことが、又(また)も政府の忌諱(きい)に触れんことを恐れ、ナチス党員にして、ロータリー会員たりしもの自発的にまずもって退会し、やがてロータリー・クラブも解散を告げて累の及ばんことを避け、一時国際ロータリーと絶縁せる事実があった。

ムッソリーニは、かつてロータリーの礼賛者であったが、同国もユダヤ人の関係においてドイツと似た事情があったものの如く、ここにも多少の困難があったようであるが、ドイツとは余程事情を異にしている。

しかし、他国にかくの如き事実があったからとて、日本のロータリーが少しも遅疑(ちぎ)する理由はない。

我々日本人は古くから外来の思想又は事物を採択しては、よくこれを醇化(じゅんか)し来(きた)った国民である。

自主独往の立場に於て、その共鳴すべきものと提携するに何の不可があるべき。特に政治的に日本人がユダヤ人と有害なる干繁を生ずるが如き因縁は絶対に之(これ)なかるべき筈(はず)である。

ロータリーの組織には、秘密の性質を宿すの余地は一切なし。会員は実業および専門職業人として、あらゆる種類の階級を代表し、而して各々まずその自国に対し忠良なる臣民たらんことと、自家の宗教に対して各々熱心なる信者たらんことには砥蛎すべきも、ロータリーとしては政治と宗教の外に超然たるべきことを原則としているもので、この両者を論議する時は往々にして困難なる問題に逢着せんことは、予め相戒めてきたのである。

刀折れ、矢尽きて次々に解散するロータリークラブ

当時の右翼団体は、軍国主義をかかげる軍隊の走り使いのようなものでしたが、軍事警察ともいわれる憲兵の尾行や、思想の取り締まりを専門にする警察庁の特高(特別高等警察)の取り締まりは執拗なものでした。

米山梅吉のラジオ放送がおこなわれた翌1940年(昭和15)は、『日本書紀』に記載された神武天皇即位から2,600年にあたりました。これを記念してこの年、「紀元二千六百年祝賀式典」が盛大に挙行されました。このとき東京市内に押しかけた人びとの数は250万人。この日から5日間、日本全国は旗行列や提灯行列で沸きにわきました。しかし、このとき、数々の誤解や迫害とたたかって理解を求めつづけてきた日本のロータリーも、ついに刀折れ、矢尽きて、次々と国際ロータリーを離脱し、クラブを解散するにいたります。

同年7月26日に認証されたはずの、日本で37番目の宇和島ロータリークラブの認証状がまだ国際ロータリーから届いていない8月8日、突然、静岡ロータリークラブが解散します。つづいて、大阪クラブもまたいち早く8月12日に解散。京都クラブは8月21日に解散を決定しています。

東京クラブの場合は、8月14日の例会で解散か否かについて論議がおこなわれるというので、ジャーナリスト・杉村楚人冠(そじんかん)は病をおして出席し、「ロータリーごとき意義ある団体が、周囲の浅薄な謬見(びょうけん)に押されて解散するがごときは絶対反対だ。むしろ、この際さらにロータリーの公明正大なるを憚らず宣言して、国から解体を命ぜられないかぎり、あくまで存続を図るべし」と語ったこともあって、米山梅吉が内務、外務両大臣に会うことにし、芝染太郎が憲兵隊にあたってその見解をただしたうえで、さらにもう一度協議して対策を立てることにしました。

しかし、米山梅吉は軍当局に呼びだされ、ロータリーの組織機構は日本帝国に対する反逆であると極言され、加えてすでに地方の各クラブが続々と解散離脱に踏み切りつつあって統制がまったく乱れていたため、東京クラブもついに9月11日に解散したのです。

このときの米山梅吉の「訣別のことば」は、いま読んでも胸を締めつけられるような思いがします。


米山梅吉 訣別のことば

重い足を引きずって、私は今ここに立つ。こんなつらい気持ちで皆さまに語らねばならぬのは、20年来はじめてのことである。

私はただ、かかる結末になったことをお詫びしたい。しかし、われわれとても時の流れに対して徒らに手をこまぬいておったのではない。

日満ロータリーの建設のごときもその現れである。しかし、時代の流れは、あまりにも急激であった。

創立以来の20年を顧みるとき、まことに感慨無量である。この間、ロータリー・クラブがいかに国家に貢献してきたか、その歴史は燦(さん)として輝いている。

また、その間において幾度かありがたい思し召しをいただいている。私の眼底には絵巻物のごとくそれらが彷彿としてくる。

私はただ皆様にお礼を申し上げ、自分の不行き届きをお詫びしたい。

名を変え、姿を変えて例会を続ける

イメージ(ロータリーアンたちは各国、各地区のロータリークラブと交流があるたびに、記念にバナー(banner)と呼ばれる小さな旗を交換する)
ロータリーアンたちは各国、各地区のロータリークラブと交流があるたびに、記念にバナー(banner)と呼ばれる小さな旗を交換する

解散したロータリークラブの90パーセントを占めたヨーロッパでは、すべて国家権力による強制解散でした。日本のロータリーは、解散を余儀なくされたとはいえ、自主解散です。このことが、歴史的にみると大きな意味をもつことになります。

解散当初、37あったロータリークラブのうち、名称を変えてクラブを継続する旨を連絡してきたクラブが29クラブ(80パーセント)ありました。これも、更なる弾圧に堪えかねて途中からいくつか脱落していきましたが、17クラブ(46パーセント)が空白の9年間の最後まで、例会を一度も休むことなく運営しきったのです。

たとえば、札幌ロータリークラブは解散して札幌職能クラブと名前を変えていました。半年後の1941年(昭和16)2月、北海道警察本部外事課主任がクラブを訪れて例会を見合わせるよう申し入れてきましたが、何かと言い逃れて例会を継続していました。

同じころ、旭川金曜会はきつく例会中止を申し入れられ、もはやこれまでと同年4月に解散しワしたが、札幌職能クラブはさらに1943年(昭和18)12月に「札幌水曜会」と改称し、例会を継続しました。

1940年8月21日に解散を決定した京都クラブは、解散と存続の2派に分かれ、解散派は大丸で木曜日に、存続派は従来どおり水曜日に京都ホテルでそれぞれ例会を開いており、両派はのちに「水曜会」に統一して会長に大沢徳太郎が推挙されています。

同年の大阪クラブの解散も、じつは「弾圧による解散に先んじて、自発的に国際ロータリーを離脱し、ロータリーの名称を無くすかわりに、その精神、綱領、組織などをそのまま維持温存するほうがよいのではないか」という意図によるものでした。

このように名を変え、姿を変えながら活動を続け、戦後、国際ロータリーに復帰するまで生き残れた例は、他の国にはありません。それは、自主解散だったからこそ、可能だったといえるのです。

では、戦時下、各クラブはどのようにクラブ運営をしていたのでしょうか。全国的な記録はほとんど残っていないためよくわからないのですが、札幌職能クラブに限定して若干のことをご紹介しましょう。

1942年(昭和17)12月3日、札幌ロータリークラブ創立から数えて10周年になるので、札幌職能クラブは記念祝賀家族懇親会を開催しました。また、12月23日の例会では、歳末社会奉仕事業として、札幌市銃後奉仕会に100円、札幌育児園、広島天使園、札幌養老院に各50円寄贈することを決議しています。

戦時中はずっと、卓話の原稿はあらかじめ特高(特別高等警察)に届け出て検閲を受けるなど、きびしい監督を受けていました。内容としては「女子勤労奉仕隊の現況」「時局と思想取締」の類いが多かったようです。
1943年(昭和18)は、戦況が不利となるなか、社会奉仕委員会によって軍人援護の事業もおこなっています。

1944年(昭和19)3月1日の例会では次のことを決議し、即日実施しています。

  毎月第一例会に、国民儀礼として
  皇居遥拝 国歌奉唱 軍人勅諭奉読
  黙祷祈願 ―をおこなうこと。

これがロータリークラブ(?)の例会かと首をかしげたくなりますが、このようにしなければ、例会を保持できなかったのでしょう。“隠れキリシタン”と言われる所以(ゆえん)です。

しかし、ひそかに楽しみあう会合もありました。1944年には食料もひっ迫しており、例会では会食はおこなわれていなかったのですが、12月20日夜に忘年会を催して久々に夕食を共にし、会員寄贈のウィスキー、佃煮などで食膳がにぎわったとのことです。

1945年(昭和20)は終戦の年。銃後の激務のため会員の出席も少なく、このころには例会はさびしくなる一方でした。

そんななかでも、戦前のロータリークラブは、なぜ例会にこだわったのでしょうか。

米山梅吉は「ロータリーの例会は人生の道場である」と言いました。ロータリーの理念は、現代にあっても理想的な人間の生き方、社会のあり方、あるいは企業のあり方に通じるものなのです。戦前のロータリアンはみんなこれを信奉し、例会をロータリークラブの中核にどっしりと据えていました。例会の途中で退席するなど、考えもしないことでした。中途退席が目立つようになったのは、戦後の1960~61年(昭和35~36)ごろではないかといわれています。

つづけた例会が決め手になって国際ロータリーへ復帰

数々の悲劇を人類にもたらした第2次世界大戦は、1945年(昭和20)8月15日、日本の無条件降伏によって終戦を迎えました。各国のクラブの国際ロータリーへの復帰は早く、世界的にみると戦争終結直後からはじまっています。

1945年(昭和20)3月、戦時中にクラブを脱退していたグアム・ロータリークラブが、復帰第1号となりました。アメリカ領土であるグアム島は、戦時中、日本軍が占領し「大宮島」と呼んだ時期もありましたが、この年3月、アメリカ軍が沖縄・慶良間列島へ上陸・占領し、沖縄決戦がはじまったその時期に復帰したのです。そのグアム・ロータリークラブはいま、日本の第2750地区(東京都)の管理下にあります。

同じ年に、フランス、ベルギー、オランダ、ノルウェー、フィリピンなど、各国にある66クラブが復活。翌46年(昭和21)には、シンガポール、上海、香港、ラングーン、アテネおよびチェコスロバキアの6クラブも復活しました。

枢軸国(日本、ドイツ、イタリアの三国同盟側に属した諸国)から最初に復帰したのはイタリアのクラブで、ルクセンブルグ、マラヤ連邦、ギリシャ、ビルマ、シャム、蘭領インド、およびトリエステなどの被占領国からもつづけてクラブが復帰してきました。

日本においては、戦争が終わるとすぐに国際ロータリーへの復帰の希望がわき起こり、東京、大阪、京都、神戸など活動していた各会はぼつぼつ連絡をとりはじめ、名簿の交換、出席率の知らせ合いなどをはじめました。

そんななか、1946年(昭和21)4月28日、米山梅吉が郷里の沼津に疎開したまま長逝し、さらに同年9月17日には福島喜三次も亡くなりました。その翌年1月27日には、ポール・ハリスが逝去しました。わずか9カ月間に、ロータリーの創始者、日本のロータリー創設者が相次いでこの世を去ったのです。希望にもえていた会員たちにとって、寂しいかぎりだったことでしょう。

1947年(昭和22)3月18日には、東京工業倶楽部に各地の有志が集まって「ロータリー復帰協議会」が発足します。そして、東京ロータリークラブの柏原孫左衛門が混乱した交通状況のなか、三等車で集団スリと同乗したりして、みずから各地を回って調査した結果、戦前からいまだ例会をつづけているもの18、その会員数は1,050人で、週1回の例会が15クラブ、隔週例会が3クラブあることを把握します。

この事実報告もふくめ、協議会はさまざまな手段で国際ロータリーに復帰を懇請しました。しかし、国際ロータリーは、太平洋戦争に参戦した各国のロータリアンの感情にきわめて慎重だったようです。日本がしかけた真珠湾攻撃から戦場が南方に拡大したのですから、「日本という国は、とにかく油断ならない」と、私たち日本人はどれだけ憎まれていたことでしょう。最初、国際ロータリーからの返事はいっさいありませんでした。

しかし、国際ロータリーの本部にも、同情してくれる人がありました。しかも、戦争中も例会を続けていたことは称賛に値するとして、1日も早く復帰させてやりたいと言ってくれる人もいました。

おかげで国際ロータリーの理事会は、当時、事務副総長で、のちに名事務総長といわれたジョージ・ミーンズに日本での調査を指示(別掲の「国際ロータリー理事会議事録」参照)。ミーンズの尽力と、例会をつづけた日本の会員の努力が決め手となって、日本はようやく国際ロータリーへの復帰が認められたのです。

1949年(昭和24)、東京、京都、大阪、名古屋、神戸、福岡、札幌の7クラブをはじめとして、日本のロータリーは次々と国際ロータリーに復帰しました。

東京ロータリークラブは1952年(昭和27)以来、約半世紀にわたって、元事務総長George R. Meansを日本のロータリークラブ再建に尽力された恩人として、毎年、名誉会員に推戴しつづけています。

また、議事録の最後には、「1948年7月に要請された任務を完璧に達成した副事務総長のジョージ・ミーンズに対して、理事会は謝意を表明した」と記録されています。

ミーンズは1907年生まれで93歳になりますが、現在もご健在のようです。

歴史から先人の情熱を学びロータリークラブの理念を未来に

イメージ(ロータリー文庫には貴重な資料がおさめられています)
ロータリー文庫には貴重な資料がおさめられています

こうして、米山梅吉と福島喜三次がもちこんだロータリー精神は、多くの先輩ロータリアンの筆舌に尽くしがたい努力によって戦時下の弾圧をも乗り越え、戦後に生きる私たちに伝えられました。わが身の命の危険もあるのに、先人たちはなぜにそこまで例会を続け、ロータリークラブを存続させてきたのか。日本のロータリークラブが80周年を迎えるにあたって、歴史をひもとき、あらためて彼らの熱意の源はなんだったのかと考えたとき、私は32年前に入会したときに知った、ロータリークラブの根底に流れる理念に、心から驚き、感動したことを思いだします。

ロータリークラブは最初、会員の親睦と相互扶助が目的だったものの、わずかなあいだに素晴らしい理念を獲得していきました。すなわち、「世の中が良くならなければ、自分たちの幸福もない」ということです。

それは、商売だけを考えても、すぐにわかります。たとえ最初、自分の洋服屋が繁盛していても、布地を織る人、糸を紡ぐ人が倒産したなら、たちまち自分の店も洋服をつくれなくなるでしょう。まちに暮らす人びとが貧しければ、せっかくすてきな服をつくっても売れません。他人を幸福にしなければ、自分も幸福になれないのです。そのためには、自分がもつ知識や情報を相手に差し上げ、相手の知識や情報をいただいて自分もよくなる努力をする。それは、人間性においても同じ論理だといえます。道路に落ちている紙くずを拾うことで、それまでなんの関係もなく通っていたあなたと私のあいだに、気持ちの良い町並みという共通の空間がうまれるのです。

ハリス夫妻が来日しての帰り、なぜこのクラブをつくったかの問いに、船上で「私はただ寂しかっただけだ。こんなに広まるとは思ってもいなかった」と語ったそうですが、私の所属する札幌ロータリークラブはもちろん、世界のロータリアンたちがいまも週に一度食事をともにし、社会奉仕の気持ちを確認しあっています。遅刻は認めない、ロータリーソングのほかに月に一度は「君が代」を歌うなどの少々堅苦しい決まりごとや、はた目には滑稽にも見える決まりごともいまだにありますが、楽しいひとときになっています。

会場のホテルと昼食メニューの打ち合わせをするなどの例会準備や、当日の受付係などは、奉仕の精神により、持ち回りでつとめます。ロータリーではみんな対等な立場となっており、仕事をいただいている得意先の社長さんから頭をさげてあいさつされ、気恥ずかしい思いをすることもありますが、とにかュ、おたがいの会話や、卓話とよぶ小講演にゲスト招いてお話をいただき、情報や知識を深めあうことを大切にしています。

周期的にあつまって食事をし、雑談するような親睦会の存在は、財力があって暇をもてあますブルジョワ階層のあいだで、100年も200年も前からありました。しかし、このようなロータリーの集まりがシカゴの一般市民からうまれたことは、とても興味深いことです。

イメージ(札幌市内ロータリークラブの合同事務所)
札幌市内ロータリークラブの合同事務所

そして、国際ロータリーでは現在、「ひとにぎりの人間が、ひとにぎりのお金を出しあい、世のため、人のために」何ができるかと考え、発展途上の国の子供たちに黒板をプレゼントしたり、消防車や救急車を寄贈するなどの活動もしています。大きな事業としては、世界からポリオ(小児まひ)を根絶しようと活動して10年になります。あと少しというところです。

ただ、最近のロータリーは組織が大きくなりすぎて、ロータリーのもうひとつの基本「自分を磨く」ということが、少しおろそかになっているような気がするのです。

また、最近は戦争を知らない若いロータリアンもふえています。私が「弾圧に耐えたロータリー」を講演のテーマに選んだのは、戦時下で自分の命の危険もかえりみずに例会をつづけてロータリーを復活させた先輩ロータリアンの苦労と情熱をふり返って、あらためてロータリーへの情熱を心にもやしてほしいと考えたからなのです。

それは私たちいまのロータリアンが、21世紀という未来のロータリアンに、この素晴らしいロータリーの理念を伝える大きな原動力となると思うのです


国際ロータリー理事会議事録(1949年1月 第163号)

《報告》理事会は、1948年7月の会合において副事務総長のジョージ・ミーンズがインドからシカゴへの帰路、日本の諸条件に関して充分な調査ができるよう、さらに中国、フィリピンのロータリアンやその他の人の対応が日本へのロータリークラブ再導入に影響を及ぼす可能性があるので、事実確認のため、ミーンズが彼らと協議できるよう手配することを事務総長に理事会は指示した。副事務総長のジョージ・ミーンズの報告があるまで、理事会は日本へのロータリークラブ再導入の問題に関する行動を延長した。

1月の会合において、理事会の指示に基づいて行われたが、副事務総長のジョージ・ミーンズによる日本における調査および中国、フィリピンにおけるロータリアンとの協議に関する口頭報告がなされる。

副事務総長のジョージ・ミーンズの報告により示された事実および日本へのロータリークラブの再導入に関する他の種々の問題に関して討論し検討したあと、理事会は左記を記録に残した。

《決定事項》理事会は、
(a) 最も早い適切な時期に日本へのロータリークラブ再導入を承認する。
(b) 日本における仮ロータリークラブ(複数)の結成を支援するため、理事会を代表して訪日する国際ロータリー事務局員(単数)を指名する件を許可し、会長および事務総長に実施を命じる。
(c) 右記の仮ロータリークラブの結成に付随する必要な支出をまかなうため、国際ロータリーの余剰資金から四千ドルまたは必要に応じてその一部の支出を承認する。


[戦時中も例会を継続したクラブ名]

帯広木曜会・小樽火曜クラブ・札幌職能クラブ・盛岡木曜会・仙台火曜会・東京水曜クラブ・横浜同人会・新潟火曜クラブ・名古屋同心会・京都水曜会・大阪金曜会・西宮火曜会・神戸木曜会・岡山水曜会・今治木曜午餐会・高松職能奉仕会・福岡清和会
計 17RC

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