ウェブマガジン カムイミンタラ

2005年09月号/ウェブマガジン第5号 (通巻125号)  [特集]    

ノーマ・フィールドさん 小林多喜二を語る
多喜二の「未完成性」が問いかけるもの

  米シカゴ大学教授のノーマ・フィールドさんは、1994年に『天皇の逝く国で』という著書で昭和天皇の死という歴史的瞬間の中での日本と日本人を描き、人びとの大きな注目を集めて全米図書賞を受賞しました。
 そのノーマさんが作家・小林多喜二のなかの人間味あふれる心あたたかな青年像に引き込まれ、昨年秋から小樽で研究に没頭するようになって1年になります。自分の思いを自分の言葉で表現して時代を生きぬいた小林多喜二という戦前の作家の人間性とプロレタリア文学を、今また現代の私たちが読み考えることに、どのような価値があるのか。研究休暇を終え、帰国を前にしたノーマさんにお聞きしました。
   ⇒≪小林多喜二の資料・写真集≫もご覧ください

多喜二が今ふたたび意味をもち始めた

イメージ(Norma  Fieldさん プロフィル1947年、東京に生まれる。1965年に渡米、1983年プリンストン大学大学院博士課程修了。学位論文のテーマは源氏物語論。専攻は日本文学・日本近代文化。著書に『The Splender of Longing in the Tale of Genji』『天皇の逝く国で』(逝く=いく)『祖母のくに』、訳書に夏目漱石『それから』がある。現在、米シカゴ大学教授。また、市立小樽文学館と小樽商科大学特別研究員。)
Norma Fieldさん プロフィル

1947年、東京に生まれる。1965年に渡米、1983年プリンストン大学大学院博士課程修了。学位論文のテーマは源氏物語論。専攻は日本文学・日本近代文化。
著書に『The Splender of Longing in the Tale of Genji』『天皇の逝く国で』(逝く=いく)『祖母のくに』、訳書に夏目漱石『それから』がある。
現在、米シカゴ大学教授。
また、市立小樽文学館と小樽商科大学特別研究員。

―ノーマさんは日本文学と日本近代文化を専攻され、学位論文のテーマが『源氏物語』、訳書に夏目漱石の『それから』がおありとお聞きしました。こんどはなぜ小林多喜二なのですか―

数年前に祖母の生まれた小樽を訪れたとき、通りがかりに立ち寄った市立小樽文学館で、多喜二が恋人の田口タキに宛てた一文に出会いました。タキは父親に酌婦として売られた女性です。そこには「決して、今後絶対に、自分をつまらないものだとか教育がないものだとか、と思って卑下しない事」と書かれていました。

これを見たとき、それまで敬遠しがちだった小林多喜二という作家への印象が、私のなかで微妙に変わり始めたのです。

多喜二ら大正末期から昭和初頭の日本のプロレタリア文学は、戦後一時期は熱い議論の対象になりましたが、あとはほとんど顧みられなくなりました。

また、1989年はベルリンの壁が崩れ、1991年にはソ連が崩壊。それからはどこを見ても社会主義が真剣に取り上げられることがなくなりました。思想として顧みられないのですから、組合運動のような実践もどんどん下火になっていきました。「労働者」という言葉ももう死語になっています。

そんななかで私がいま研究している小林多喜二やプロレタリア文学は、あざけり笑われるような課題であるようです。「なんだ今さら」「共産党の作家か」「なんで今さらプロレタリアートか」、そんな冷笑をまともに感じます。

イメージ(『蟹工船』初版本1929年9月25日 戦旗社)
『蟹工船』初版本
1929年9月25日 戦旗社

しかしこの15年間ほど、世の中はだんだん政治的に悪化しています。とくにここ2~3年、日本もアメリカも加速度的に悪くなっています。いま彼らの足跡をたどることは、現代において大きな意味があると思ったのです。

そして何より私が多喜二を復活させたいと思う理由は、社会を見つめる観点が高く、大きなスケールと論理的な明確さで読み手を圧倒するからです。そしてゆるぎないヒューマニズムで、あの時代とそこに生きる人びとの姿をいきいきと描いているからです。『蟹工船』は日本近代文学の古典と言えるでしょうが、多喜二にはほかにも画期的な作品があることが改めて知られるべきでしょう。

当時の小樽は時代の矛盾をまともに体現していた

―いまプロレタリア文学運動を知る人は少ないと思いますが、どんな運動だったのでしょうか。日本のプロレタリア運動と多喜二についても簡単に教えていただけますか―

イメージ(小林多喜二)
小林多喜二

プロレタリアとはラテン語からきた言葉で、古代ローマにおける最下層の市民たちをいいました。資本主義社会になって「無産階級」、つまり生産手段を持たず、自分の労働力を資本家に売って生活する賃金労働者階級を指すようになりました。ちなみにプロレタリアートはドイツ語です。

資本主義社会がすすみ、貧富の差や階級的な矛盾が大きくなると、世界各国でプロレタリア階級のなかから最初は自然発生的に、のちに自覚的に、それを打開しようとする動きが生まれました。それがプロレタリア運動です。

労働者階級を主体とする社会を理想とし、その実現をめざすプロレタリア運動は、美術、演劇などさまざまな分野で起こりました。それぞれの国の事情によってその発生や歴史は一様ではありませんが、文学運動もそのなかのひとつです。ロシアのように、実際に資本主義を打倒して社会主義社会の樹立をめざす革命にまで発展した国もあります。

日本のプロレタリア文学運動は、大正末期から昭和初頭にかけて大きく育ちました。やはり日本でも資本家と労働者のあいだに経済的、階級的な隔たりがすすんだ時代で、全国でも北海道、とくに小樽は、農業であれ漁業であれ工場であれ、生産形態も進んでいましたし搾取もすすんでいました。

イメージ(小樽高商(現小樽商科大学)と急な地獄坂が、多喜二の才能と不屈の精神を育てたにちがいない)
小樽高商(現小樽商科大学)と急な地獄坂が、多喜二の才能と不屈の精神を育てたにちがいない

『蟹工船』は、荒れ狂うカムチャツカの海で操業する船と過重労働を強いられて怒りを爆発させる労働者たちを描いたもので、多喜二がこのような課題に注目したのも、彼の暮らす小樽という地が時代の矛盾をまともに体現していたことが大切な要因でしょう。

1903年に秋田で生まれた小林多喜二が、こうした小樽に家族全員で移り住んだのは、4歳のときでした。たいへんな貧しい生活のなか、パン屋を経営していた伯父の経済的援助を得て、小樽高商(いまの小樽商科大学)で一流の教育を受けます。後の北海道帝国大学は農学校として始まりましたから、高等商業学校は当時北海道で文科系の高等教育を得られる唯一の場だったようです。

補足しますと、現在のアメリカでは経済学はひじょうに数値化され、科学として実証しようとするあまり、経済学に付随する歴史的・社会的イデオロギー(思想傾向)などいっさいないかのように機能しています。

しかし、多喜二たちが小樽高商の学生だったころの経済学は、たいへんに視野の広い学問でした。いまから見れば、このころの経済を考える人たちは、最も社会を広く見ていた知識人ではなかったかと思います。多喜二の一年下の伊藤整なども、文化的にひじょうに豊かな教育を身につけていたのです。

こうして高等教育を受けた多喜二は、北海道拓殖銀行小樽支店の高給サラリーマンとして働きはじめます。しかし、やがて銀行員としての自分に大きな疑問を感じ、とうとう『不在地主』という作品がきっかけで、1929年の暮れに解雇されてしまいます。もちろんそれ以前から問題視されていたでしょう。

翌年に上京。1930年の後半から翌年1月まで、共産党の資金・支援活動、つまり非合法であった演説や講演をして資金を稼いだり、『蟹工船』の作品で不敬(皇室・社寺にたいし―敬意を失すること)罪に問われるなどさまざまな問題を起こします。このときの7カ月間におよぶ獄中生活のあと、多喜二はこんどは大弾圧のなかで地下活動に入ります。

もうひとつ付け加えると、1931年は、若いときからの恋人田口タキに結婚を断られた年です。酌婦であった彼女を6年前に友人や高利貸からお金を借りて身請けした人です。結婚は実現しなかったものの、彼女を愛することは作家、思想家、運動家、そして人間多喜二にとって掛け替えのない体験でした。

そして1933年2月20日、ふたたび捕えられた多喜二は、残酷な拷問により築地警察署でわずか29歳と4カ月の命を絶たれたのです。3時間以上の拷問の末でした。

イメージ(富樫正雄画「『小林多喜二の死面』を背にする小林セキ」油彩・キャンバス)
富樫正雄画
「『小林多喜二の死面』を背にする小林セキ」油彩・キャンバス

多喜二が党員になったのは短い生涯の晩年ですが、作家同盟の書記長にもなっていました。その運動の負担は大きかったと思います。地下生活に入ってからも、追われながら活動を続け、創作も続けています。ですから作品は、銀行員のころから数えてもほんとうに短いあいだに書かれています。

また、母親や弟など家族への経済的な責任もありました。そんないくつもの要求に応えようとしつつ、彼は死ぬまで創作活動を続けたわけです。ひじょうに忙しい生涯であったといえます。

そんな短く忙しい生涯に『蟹工船』をはじめ数々の質の高い作品を残したことは、それだけでも大変なことではないでしょうか。

「方法としての未完成性」

―最近「作品の未完成性が問いかけるもの」というタイトルで多喜二を語る講演をなさいましたね。「未完成性」という切り口はたいへん新鮮に聞こえました。簡単にご説明いただけますか―

多喜二の作品は、じつはどれもこれも未完成です。

当時「都新聞」に連載された『新女性気質』は、のちに『安子』と改題されましたが、この作品には「一部」と明記されています。同じく1931年に発表の『転形期の人々』は、「序編」と書いてあります。このように、第一部であるとか、序編、前編と明記されている作品がたいへん多いのです。

これらは文字どおりの未完成作品といえます。

また、多喜二は作品によく附記というものをつけます。本文に付け足された文章のことで、これは一般的には批判的にとらえられがちです。

『蟹工船』には有名な長い附記があります。そこには別の結末としてハッピーエンドが記されていて、最後に「この一編は植民地における資本主義の侵入史の1ページである」とあります。つまり『蟹工船』ほど完成度の高い作品であっても、これはひとつの大きな世界的現象の1ページに過ぎないのだと、彼は附記で語らざるを得ない意識にかられているのです。これはいったい何を意味するのだろうか。

ほかにも当時の厳しい検閲の状況下で伏せ字が多いとか、作品の改題や改作を何度もおこなっているとか、多喜二の作品には目に見えて未完成な部分がたくさんあります。これらは評価のうえでよく言われてきたことです。

しかし、未完成性を考えるとき、他にも注意したい側面があります。

イメージ(すっかり観光化された小樽運河沿いには、いまも『工場細胞』の舞台となった北海製缶が見える)
すっかり観光化された小樽運河沿いには、いまも『工場細胞』の舞台となった北海製缶が見える

多喜二は「~さった」、たとえば「なかさった」「積まさった」というような方言をよく使います。『転形期の人々』には「ゴザは二枚あって、性質(たち)の違った米が積まさっていた」という表現があります。登場人物の会話文だけではなく、語り手の「地の文」にもそうした表現がたくさん見られるのです。これは彼の評論や書簡や日記には見られないものです。

小樽の北海製缶を舞台にした『工場細胞』では、「金融資本家に完全に牛耳られて、没落しなければならない産業資本家の悲哀が、彼の骨を噛んで(むしばんで)いた」という表現が出てきます。

世界の経済史、社会史をたったの一行でとらえるような視点と、方言のようにローカルな要素の両方が多喜二にはあります。この大きな全知的な視点は、地に根付いた語り手に支えられているのです。

イメージ(市内に点在する重厚な石造りの建物は、かつて北のウォール街と呼ばれたころの賑いを思い出させる)
市内に点在する重厚な石造りの建物は、かつて北のウォール街と呼ばれたころの賑いを思い出させる

多喜二の作品には同じ人物名がくり返し使われています。新しい名前を考えるだけの想像力がなかったのだろうか。人物の肉付けが浅いともいわれるが、ほんとうにそう言えるのだろうか。

多喜二は忙しすぎたという人もいます。たしかに忙しすぎました。ある作家がどういう状況で創作活動をしたか、ある作家にとってどういう状況が創作活動を可能にするのかという実在条件は、その作家や作品を理解するうえでとても大事です。

しかし、忙しすぎるということだけでは説明しきれない作品群を多喜二は残しました。自己完結していない仕事というものを、私は積極的にとらえたいと思うのです。

多少の誇張をふくんだ言い方をするなら、多喜二は「方法としての未完成性」を追求した、と言いたいのです。結果的にそう考えられるのです。文学作品を理解するうえで、作者の意図したこともわかるかぎり考慮することも大切ですが、意図しなかった結果も必ずあるし、また作品群から私たち読者が意図として捉えうるものも出てくるはずです。

未完成さ、ぎこちなさから可能性を見出す力を

―未完成性についてもう少し具体的に教えてください―

イメージ(2003年2月23日小林多喜二展会場にて講演)
2003年2月23日
小林多喜二展会場にて講演

西洋小説の典型と言われる19世紀イギリスのビクトリア王朝時代の小説は、結びがきまって結婚式でした。ヒロインが結婚相手を見つけて結婚する。教会のベルが鳴る。はい、おしまい。つまりこの時代のブルジョワ社会では、結婚がいちばん重要で劇的な出来事。それ以降の「あるべき生活の形」は決まっている、語るに値する出来事はない―かのように小説が終結します。

このように、なにが読者に終わりを告げるかは、たぶんその時代の状況と主要なイデオロギーによって変わるのだろうと思います。

イメージ(ノーマさんはこれまでに何度も日本を訪れ、全国各地で講演、さまざまな媒体に発表するなど、多喜二の復活にも力を注いでいます。2003年2月1日~3月30日に市立小樽文学館でおこなわれた「生誕100年小林多喜二展」での講演には、たくさんの聴講者がつめかけました)
ノーマさんはこれまでに何度も日本を訪れ、全国各地で講演、さまざまな媒体に発表するなど、多喜二の復活にも力を注いでいます。
2003年2月1日~3月30日に市立小樽文学館でおこなわれた「生誕100年小林多喜二展」での講演には、たくさんの聴講者がつめかけました

だれでも知っている夏目漱石の『こころ』は、若い登場人物「私」が、父親が死に際であるのに、心の父である先生から届いた遺書を列車の中で読みながら東京へ向かうという形で終わります。

『それから』という作品は、代助という「高等遊民」が愛した女性を友達にとられてしまい、女性への恋心を断ち切れなくなっていく過程を描いています。父親からの援助もなくなり、かつての友人に三千代を譲られることになった直前に、彼女は病気になってしまいます。代助は家を飛びだし、「世の中が真赤になった」と感じます。最後は、「自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗って行かうと決心」するのです。

ここからも完結した読後感は与えられません。しかし、問題は個人的な視野で追及されています。「私小説」家ではなかった漱石でもこうなのですから、日本の近代小説の根幹をなす私小説というジャンルと、多喜二や他のプロレタリア作家の目指したところの隔たりは大切なものです。

多喜二の作品ももちろん個人描写で終わっていることもあります。『オルグ』という作品は「ゴクリと咽を鳴らした」という文章で終わります。しかし描かれた問題の解決は個人の問題として考えられていません。

運動家の「彼」は、たったいま警察が家にきて首尾よく逃げ出したが、好きな女性が来ることを思い出す。助けに戻りたいが、自分の身は組織にとって重要なので、彼女を助けに戻ることを諦めざるを得ないと判断して、「ゴクリと咽をならした」のです。つまり、組織や社会といったもっと大きなものを視野に入れた結末なのです。

登場人物の肉付けが浅いという批判も考えてみましょう。たとえば『安子』には、お恵と安子という二人の姉妹が描かれていますが、その姉妹はひじょうに対照的な性格に描かれます。

妹の安子は頭がよく、上の学校に行けないことを悔しく思っている女性です。家族では一番先に都会に出ていきます。小樽の食堂で働くのですが、共産党員と知りあい、目覚めていきます。そして「オルガナイザー」とか「アジト」、「細胞」、「分会」、「テーゼ」などという言葉がすらすらと舌から転げ落ちるような女性に描かれています。

この『安子』は共産党独特のあの抽象的な言葉をあまりにも"お早く"飲み込んでいるのではないか。そこが作品の説得性に欠ける、との批判です。

それに対比して姉のお恵は、共産党がどういうものであるかを想像できず、せいぜい「キョウサントウ」とカタカナで音としてしか入ってこない女性として描かれます。

しかし姉のお恵には年老いた母親、重病の兄など、もろもろの家族の負担がありました。そんな運動に入り込む余裕はありません。けれども、小樽で暮らすようになって少しずつ運動にかかわることで、いまの自分のカタツムリのような生活の先が見えてきます。

お恵ははカめて恋心を抱きますが、その相手もけっきょく運動家として顔が知れたために、妹と東京へ逃げることになり、そのときの彼女はというと、やはり重病の兄を引き取りに札幌へ行かなければならないのです。

利発な安子よりも、語り手の視線は、家庭の負担を背負っているからこそ後れているお恵に多く注がれています。これは何を意味しているのでしょう。

プロレタリア文学運動において重要な位置をしめる「リアリズム」概念がありますが、労働者のための運動であるプロレタリア運動に参加することが、生活や仕事に追われる労働者にとってどれほど大変か、とくに家族の日常を支える女性にとってどれほど大変か、それを作家小林多喜二がいかに深く理解していたかがお恵像から伝わってくるのではないでしょうか。そういうところに彼のあたたかな人間性と「リアリズム」に対する忠実性が窺えます。

イメージ(「蟹工船」執筆のころの小林多喜二1929(昭和4)年4月 若竹町の自宅で)
「蟹工船」執筆のころの小林多喜二1929(昭和4)年4月 若竹町の自宅で

それに比して安子像は抽象的で説得性がない、といえるかも知れません。しかし多喜二の時代にはまだ、「オルグ」や「テーゼ」のような言葉を使う女性は人々の見聞するところではいなかったでしょう。そういう女性を具体的に、つまりそれぞれを個性的に描くには、それこそ想像力が必要でした。先進的な女性や新しい男女関係の形態は、模索するしかありませんでした。その意味でたしかに安子などは浮いてしまっているかもしれません。新しい文学、新しい生き方をめざすときには、どうしてもぎこちないものが出てきてしまうのではないでしょうか。

ひとは置かれた状況によってその思考も行動も変わります。一人の人間でもたくさんの要素をもっていて、多面性を見せます。さきほどふれた登場人物に繰り返し同じ名前を使っている、というのも、私はこういう文脈で解釈することができると思うのです。つまり、同じ名前で異なった人物を描くことで、人間の多面性、変容性を表現している、と。社会もそうです。ひとも社会も流動的なのです。多喜二が何度も改題や改作をしているのは、作品に磨きをかけたいことはもちろんでしょうが、作品も著者とともに変化していくもの、と感じていたからではないでしょうか。

私たちは、そうした未完成さ、ぎこちなさから可能性を見出す力を身につけたいと考えます。

プロレタリアはいまも生きている

―私たち一般にはどうも社会主義的な観念や共産党に対する拒否反応があって、戦前のプロレタリア文学運動にも少なからず抵抗を感じる部分があるのですが…―

多喜二ら戦前の日本のプロレタリア文学運動は、1934年以降、急速に消滅していきました。いえ、潰滅といっていいでしょう。

1928年2月、日本ではじめておこなわれた男子だけの普通選挙で、8人の無産政党階級の代議士が生まれました。これによりパニックをおこした国家権力が、その2カ月後、全国いっせいの大弾圧に出たのです。

じつは『一九二八年三月十五日』は、「未完成性」というインスピレーションを私に与えてくれた作品で、この日のことを題材に書かれた作品です。このとき多くの文学者が投獄され、それが日本のプロレタリア文学運動の衰退をまねくいちばんの原因となりました。

それとは別に、戦後、文学史のなかでプロレタリア文学運動が顧みられなくなった大きな理由が2つあります。ひとつは「政治の優位性」の問題。もうひとつは「男女関係」の問題です。

男女関係の問題というのは、いわゆる戦前の共産党のハウスキーパー制度です。弾圧のなか共産党員が官憲の目をくらますために、夫婦を装う目的で女性党員ないしシンパを妻として住まわせることで、シンパサイザーは共鳴者、つまり共産主義運動に直接参加はしないが、支持援助する人のことです。

イメージ(『党生活者』伏せ字なしの校正刷り『小林多喜二全集』第3巻(1935年6月ナウカ社)に収録。貴司山治から中野重治に渡され、戦中ひそかに保存されたもの。封筒の表書きは中野重治自筆)
『党生活者』伏せ字なしの校正刷り
『小林多喜二全集』第3巻(1935年6月ナウカ社)に収録。貴司山治から中野重治に渡され、戦中ひそかに保存されたもの。封筒の表書きは中野重治自筆

多喜二が虐殺されたあと発表された『党生活者』には、語り手であり主人公である「私」が既知の女性をハウスキーパーとして共に暮らす描写があり、そうしたことは女性の搾取であり、女性の尊厳を傷つけることであり、党の非人間性の証であると厳しく追及されたのでした。

しかし、社会の変革を求めるときに「普通ではない活動」を続けるために「普通を装う男女関係」が必要だったのではないでしょうか。つまり、弾圧のなかで党員生活を続けるには、普通の夫婦を装うことが必要だったのだと思います。それに、作品の数々をみれば、多喜二が女性蔑視とは相反する考えであったことは想像に難くありません。

もうひとつの政治の優位性の問題ですが、これはひじょうに激しく闘われた論争で、「創作には政治的目的があってはいけない」という批判が根強くありました。その前提には、文学ないし芸術は独立していなければならない、ほかの目的に従属させられた文学や芸術は劣位のものである、失敗したものではないかということです。

政治の優位性への批判は、なにも戦前に始まったものではなく、それ以前からの近代の美学に一つの常識として通底しているのではないでしょうか。つまり、美というものは独立しているもの、美術というものは美術以外に他の目的をもってはいけない、それ自体が美として自己完結するものが正当な美である、というイデオロギーです。

ドイツの偉大な哲学者カントは、美術の特性として「目的なき合目的性」を言っています。カントがこの難しそうな表現で何を言おうとしていたのかはいろいろ論じられてきましたが、とりあえずは美術の自立、美術は美術以外の目的をもってはいけない、そして結局、政治なんぞとかかわってはいけない、という常識として機能してきました。

文学や芸術は一般に、社会のさまざまな要素を取り込みながら創造されていくのだと思います。とうぜんそこには芸術家たちの「生活状況」も「政治的目的」も含まれるでしょう。文学や芸術と政治を切り離そうとすることは、「表現の自由」にもかかわり、社会変革の可能性を失わせることにもなりかねない、今でもいちがいに否定できないたいへんに難しい問題なのです。

理論の社会変革だけでなく、実際の社会変革をめざすとき、そこには必ず矛盾や犠牲が生じるのだということも私たちは知る必要があると思います。

「あれは失敗したんだろう、あの運動は失敗したじゃないか」と、若い同僚に言われて唖然としたことがあります。ああ、「失敗」と言うのか…と。

たしかに戦前のプロレタリア文学運動は忘れ去られ、プロレタリアという言葉も労働者という言葉もいまでは死語になっています。

イメージ(「忍路湾(仮題)」多喜二は3点の水彩画を残している。これはそのうちの1点。小樽高商在学時のものと思われる)
「忍路湾(仮題)」
多喜二は3点の水彩画を残している。これはそのうちの1点。小樽高商在学時のものと思われる

しかしそれならば、人類史の中で良いとされたこともすべて一時期しか続いていません。人類史はその繰り返しでしかありません。でもプロレタリア運動はひじょうに重要な試みであったし、私たちはそういった過去の試みを"客観的に"見直し、現在にどう活かすかが大切なのではないでしょうか。

今年春はJR西日本の福知山線で大事故がありました。労働も過酷な労働条件も決して消えたわけではありません。プロレタリア(労働者)はいまも生きているのです。変わったのは労働に対する認識です。高度成長以降の「平和と繁栄」のなかで日本社会は見た目は全員中産階級化したかのようになった。そして知らず知らずに、消費が存在理由になってしまった。そういう状況では、底辺の労働者はおろか、自らを労働者として捉えなくなってきても不思議はありません。

戦後まもなく国会図書館の副館長になった中井正一さんは、哲学者で美学の専門でした。戦前の治安維持法にひっかかって獄中体験もある人です。友人に聞いた話で厳密な言葉かわかりませんが、彼の理想の一つに「一万人の読者、一万人の創作者」という考えがあったそうです。つまり読者が読者であるだけでなく創作もする、また創作者が読者でもある。他の書き手の作品を真剣に読む。これは「作家」という専門家集団を遙かに超えるものですね。彼はたぶん、そんな社会こそ民主主義が育つ社会だと考えていたのでしょう。

受動的に本を読んだり他人の話を聞くだけで、あとは何も言わない、ではなく、積極的にかかわることによって社会はつくられていきます。文学作品やあらゆる芸術作品というのも、そういう関わり方をとおしてこそ生きてくるのです。そして私たちの世界も深まり、広がっていくのです。

多喜二からメッセージが聞こえる

―無関心、個人主義が蔓延するいま、多喜二からどんなことをくみ取れるのでしょうか―

イメージ(全米で話題を読んだノーマ・フィールドさんの著書『天皇の逝く国で』)
全米で話題を読んだノーマ・フィールドさんの著書『天皇の逝く国で』

私が1994年に書いた『天皇の逝く国で』という本に対してよく聞かれるのは、最初になぜアメリカで出版したのかということです。

もちろんはじめにアメリカの読者を想定していたこともありますが、「天皇制を語る」にはやはり、いきなり日本では難しかったと思います。

つまりワンクッションおいて英語で本にまとめ、ミヒャエル・エンデの作品の翻訳で知られる大島かおりさんが訳してくださることによって、私の天皇制に関する考察や、調べてきたこと、個人に聞いてきたことが日本語にできたのだと思います。

ところが、この本を書いたあとの数年間、あるかなりの失望感に陥りました。あの本は私の生涯でもっとも社会に影響をもたらした仕事になると思いますが、結局どれだけ多くの人の意識を変えても世の中って大して変わらないんだな、というひじょうに幼稚な失望感を味わったのです。

しかしここ4~5年、プロレタリア文学にかかわり始めてから、自分の感性が変わってきたことに気づいています。

大学の研究者の集団という特殊な世界の中に暮らしていますと、その一人ひとりが私の同僚であり、それぞれが優秀な研究者です。ひじょうに偉い同僚も何人もいます。けれどもそれぞれが、以前の私のようにやはり知識人の意識だけ変えれば世の中は変わると思っています。

以前の私は、どんなに辛い世の中でも自分はしっかり目を見開き、現実を絶対に見間違えないでいようと考えていたことは確かです。できたらそれを、たとえば教室で伝える、もう少し頑張れるなら活字にして他の人に伝えよう。そして、それしかできないのだろう…。そんなセンチメンタルな発想を抱いてきたこニを、いまとなっては意識せざるを得ません。

そして、いまのアメリカの知識人たちは閉塞状態に陥っています。つまり、自分たちはもちろん反ブッシュであり、一連のテロ対策に反対をしている。自分はそういう確たる意識を持っていて、周囲の人たちもそのことをわかっている。なんとなくそれで十分である…そんな錯覚を、いまのアメリカの知識人たちは犯してしまっているのです。ですから、米同時多発テロの9.11以降、知識人たちの役割はひじょうに縮小してしまっています。

個人も個人主義に陥り、何事にも無関心になっていますね。どうしてこうも密室の中で自分の心とだけ相談するようなとらえ方になってしまったのでしょう。どうしてそれぞれ孤立した寂しい世界になってしまったのでしょう。

もちろん私は個人主義を否定するのではありません。個人はれっきとした存在ですし、その個人を尊重することは大切です。ただの保身だけを発想の基盤にしてしまうのは、どういうことかということです。

イメージ(市立小樽文学館に通いつづけるノーマ・フィールドさん。足を運ぶたびに多喜二への想いが深くなる‐小林多喜二コーナーにて‐)
市立小樽文学館に通いつづけるノーマ・フィールドさん。足を運ぶたびに多喜二への想いが深くなる
‐小林多喜二コーナーにて‐

ある意味、自らの心に問いただすというキリスト教的な発想と、消費者としての個人が、この戦後60年の間にしっかりと根を張ってしまって、その一環にそういう寂しい発想が定着したのかなとも思います。

ひとは現在が抑圧されていると感じても、知っている日常は安定感と安堵感を与えてくれます。ひどいけれども、馴染み、知り尽くしている日常を失うことも恐ろしいことなのでしょう。

ですから一方で、お互いに協力しあうような豊かな関係の集団をつくりにくくなっている。新しい連帯や絆のかたちを模索しにくくなっています。

日本でも、個と集団、個と社会という考え方がとても貧弱になってしまったのではないでしょうか。それがいま、例えば憲法九条を考えるときにひとつの大きな壁になっているのではないかと思います。

ベトナム戦争の時代は、アメリカも違っていました。というより、戦争が長引くにつれ、大学の人間も意識だけを変えればいいと言うのではなく、言論の場でもがんばり(これがティーチインの時代でした)、デモにも活発に参加しました。つまり、姿を現したのです。公民権運動もやはりデモに出たり、勇気ある白人の若者が南部に乗り込んで、黒人と手を繋ぎ、選挙権獲得運動に命をかけて参加しました。今からすればそんな時代がとても遠く感じられます。

多喜二をはじめ1920年代、30年代のプロレタリア運動家たちも、それぞれ物書きとして、音楽家として、絵かきとして、あの時代の社会の不正や矛盾を真っ向から考え、行動しました。決して無関心ではありませんでした。理念を掲げることを恐れなかったし、ましてやいまのように理念・理想を冷笑することはありませんでした。

いま社会を大きく左右する問題がたくさん噴出してきているなかで、われわれ一人ひとりの判断と決意が問われています。一人ひとりが問われているのは確かですが、一人ひとりの意識や決意で終わってはいけないのです。どうやって一人ひとりが繋がりうるか、政治の場で今の反民主的、アンチ・人間的政権と対決できるか、そこにエネルギーを注がなければなりません。そういう判断こそ迫られているのです。

状況はせっぱ詰まっています。と同時に、情勢がいかに悪化しても、未来にかけることを止めてはなりません。多喜二の作品はハッピーエンドではないけれども、無視することのできない現実の悲劇とともに、決して諦めない「未来への希望」があります。どんな状況であっても、私たち個々人の生涯を超える想いが必要でしょう。

小樽での研究を終えようとしているいま、私には多喜二からそんなメッセージが聞こえます。現代の私たちには、いまふたたびのルネサンス(再生)が必要なのではないでしょうか。

多喜二の小樽が心のふるさとに

イメージ(『転形期の人々』第4版1933年9月14日 改造社)
『転形期の人々』第4版
1933年9月14日 改造社

―1年の滞在を終えられ、小樽にどのような印象をおもちになったでしょうか―

小樽はこころの古里になりつつあります。山と海、坂道と雪、これが私を生き生きとさせる。

こうした小樽の姿の最も美しい描写が多喜二の『転形期の人々』の冒頭にあります。それは美しいものを美しく描いているだけでなく、その美を支える構造が鋭く捉えられてもいます。港、税関、運河、銀行、会社、大商店、カフェ、公園、学校、そして山の手の住宅、というふうに。それぞれの場で活動する人たちの生活が浮かんできます。

イメージ(多喜二は生前『蟹工船』の印税で、共同墓地の見晴らしのいい場所に小林家の墓を建てている。まるで自分の死を予測していたかのように…―小樽市奥沢―)
多喜二は生前『蟹工船』の印税で、共同墓地の見晴らしのいい場所に小林家の墓を建てている。まるで自分の死を予測していたかのように…
―小樽市奥沢―

活気に満ちた時代の小樽にも、日向での暮らしが許されている人たちと闇に葬られた人たちがいました。今の小樽にはこんな極端な違いはありませんが、活気があるともいえません。高度成長いらい「発展」の道から取り残された小樽は今後どうなっていくのでしょう。

この街の美しさだけでなく、飾り気のない人たちが大好きです。食べものに関してうるさい。でも決してグルメという言葉は当てはまらない。庶民的なするどい味覚の持ち主だと思います。

ここは人間的に暮らすにはほどよいところ。小樽築港駅の巨大なモールのような企画はもうありえないでしょうが、ああいう間違いは繰り返してはならないでしょう。こういう街をどうやって生かしていくか、ここに暮らす皆さんに真剣に考えていただきたい。

いま多喜二が生きていたら

―最後に、多喜二の作品はあくまでも闘争が描かれ、労働の喜びややり甲斐といったものはほとんど描かれていませんが、労働条件も暮らしも格段に良くなった今の時代にもしも29歳の多喜二が生きていたら、どんな作品を描くでしょうか―

労働条件も暮らしも一見よくなったかも知れません。しかし、それだけに捉えにくい抑圧もあります。景気が良かったときでさえ競争の激化は過労死という言葉と実体を生み出しましたし、近年はリストラや老後の不安、若者の雇用の問題などがあります。また、豊かさそれ自体がもたらす問題―なにをやっても喜びを感じない、というような―もあるでしょう。いくら消費を重ねても満足感が得られない。

こういう状況を多喜二はどう捉えるか。究極的には、「発展」自体をどう考えるか。北海道の歴史には日本の近代史が凝縮されているように思います。それは「開発」の歴史です。多喜二ほどするどい知性と感性の持ち主なら、どこかでこの開発の論理に疑問を持つのではないか、とふと思いました。

果たして人類は開発とは違った道を選び、進むことができるのだろうか。多喜二にこの問いを向けたい気がしてなりません。

イメージ(多喜二はいまも小樽の海と街を見ている…―旭展望台から―)
多喜二はいまも小樽の海と街を見ている…
―旭展望台から―

言うまでもありませんが、従来の社会主義思想は近代の思想です。近代の技術的、物質的、またいわば精神的産物である個人主義がいかにして社会全体の資源になりうるか、と思索のうえでも実践的にも求めてきた思想だと言えるでしょう。

しかし、今は地球の存続が問われています。近代を支えてきた発展主義を根底から考え直さなければならないでしょう。それは時代に見合った「進歩」を追求する、といえなくもないですが、「もっと」の論理―もっと早く、もっと多く、もっと大きく、もっと便利に、もっと高度な―を断ち切る、感性の問題でもあります。

小樽に育ち、生涯小樽を愛し続けた多喜二さん、貴方はどう考えるでしょう。

      ⇒≪小林多喜二の資料・写真集≫もご覧ください

関連リンク小樽文学館  http://www4.ocn.ne.jp/~otarubun/bungakukan/yakataindex.html

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