今年(2009年)2月28日午後、札幌弁護士会館の5階の3つの会議室をぶち抜いた会場には、ときおり笑いがおこり、穏やかな雰囲気が満ちていました。自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟(箕輪訴訟)を締めくくる「違憲判決・イラク撤退を実現 北海道訴訟終結 原告団・弁護団と市民の集い」がこの集会の名称。小泉政権が自衛隊のイラク派遣を決め、その第1陣として北海道の自衛隊員が現地に向かおうとしていた5年前の2004年1月、故・箕輪登さんが札幌で提訴したのが、いわゆる箕輪訴訟でした。道内の弁護士100名以上が名を連ねる異例の大弁護団が結成され、裁判が始まったのです。
タカ派の防衛族とされていた元自民党代議士が国を訴えた! これに驚かされながらも共感した人々が各地で訴訟を起こします。2月には名古屋で原告が1262名という訴訟が起こりました。その原告には前レバノン大使の天木(あまき)直人さんも含まれていました。イラク攻撃を支持する小泉純一郎首相に反対意見を送ったために外務省を追われた天木さんは箕輪さんの行動に強く共感しましたが、札幌の原告が箕輪さんひとりだけだったため、名古屋地裁での訴訟に加わったのです。この裁判ではその後全国から3200名を超える原告が集まります。
3月には東京で、ジャーナリストの前田哲男さんを皮切りに、ほぼ毎日1名ずつ本人の提訴でリレーしていくというユニークな裁判が始まりました。これには数多く提訴することでより多くの裁判官に憲法判断してもらおうという意味がありました。4月には元ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)リーダーで作家の小田実(まこと)さんらが「自衛隊イラク派兵差止訴訟~関西」を結成、20名が大阪で提訴し、翌年2月の第4次訴訟までに原告の数は1045名まで増えました。
5月には静岡で251名の原告が提訴、7月には大阪で派遣の莫大な費用を問いただす通称「関西ゼニカネ訴訟」、それから8月山梨、12月仙台、栃木、翌2005年1月岡山、3月熊本、京都と続いていきます。札幌では2次訴訟として2005年3月に民主党、共産党、社民党の元国会議員、学者、教育者、医師、会社社長など32名が原告に加わりました。
箕輪訴訟は2007年11月に札幌地裁が派遣差止は却下、慰謝料請求は棄却し、原告は敗訴しました。原告団はただちに控訴、札幌高裁で4回の弁論を行ったのち2008年12月24日に控訴取り下げという決断をして、この訴訟は終結します。この間、箕輪さんと2次訴訟原告で北星学園大学附属高校長だった松田平太郎さんが亡くなりました。
敗訴、原告の死、そして控訴取り下げという経過をたどった裁判ですが、集いに参加した原告や市民に暗い顔は見あたりません。それは2008年4月に名古屋高裁で言い渡された歴史的判決を、全国各地の訴訟団・弁護団がともに勝ち取った成果として共有し、連携して控訴取り下げが行われたためでした。この日の集いは、その原告団の解散式を兼ねており、代理人をつとめた弁護団の代表者たちに原告団から花束が贈られました。
集いでは名古屋の裁判で弁護団事務局長をつとめた川口創(はじめ)弁護士から判決文についての説明がありました。高裁判決は控訴棄却の原告敗訴でしたが、判決理由でイラクでの航空自衛隊の活動は憲法違反であるという判断を示しました。もし上告しても名古屋高裁を上回る判決を得るのは難しいのが現実です。そこで高裁判決を判例として今後に生かすため、敗訴にもかかわらず上告しないという決断が下されました。国側は勝訴なので上告できず、判決は確定したのです。
判決文にはイラクでの悲惨な現実が書かれています。たとえば「イラク各地における多国籍軍の軍事行動」という項のファルージャは次のような状態でした。
<イラク中部のファルージャでは、平成16年(2004年)3月、アメリカ軍雇用の民間人4人が武装勢力に惨殺されたことから、同年4月5日、武装勢力掃討の名の下に、アメリカ軍による攻撃が開始され、同年6月以降は、間断なく空爆が行われるようになった。同年11月8日からは、ファルージャにおいて、アメリカ軍4000人以上が投入され、クラスター爆弾並びに国際的に禁止されているナパーム弾、マスタードガス及び神経ガス等の化学兵器を使用して、大規模な掃討作戦が実施された。残虐兵器といわれる白リン弾が使用されたともいわれる。これにより、ファルージャ市民の多くは、市外へ避難することを余儀なくされ、生活の基盤となるインフラ設備・住宅は破壊され、多くの民間人が死傷し、イラク暫定政府の発表によれば、死者数は少なく見積もって2080人であった>
この部分について川口さんはこう解説しました。
「武装勢力掃討の名のもとに攻撃が開始されたと書いてあります。しかし結果として武装勢力が掃討されたとは書いていません。掃討作戦の結果として多くの民間人が死傷し、ファルージャでのこの時の掃討作戦だけで死者数は少なくとも2080人、生活基盤はめちゃくちゃに破壊されたと書いています。これが掃討作戦の実態です。武装勢力掃討が、じつは罪のない多くの市民を犠牲にしている。これはアフガニスタンなど、テロとの戦いという名目でこれからも続くであろう戦争の本質です」
淡々と事実を書き連ねているように見える青山邦夫裁判長による判決文ですが、言葉のはしはしにイラクの惨状に対する厳しい認識が表れていると川口さんは言います。
「国際的に使用が禁止されているナパーム弾とか、残虐兵器といわれる白リン弾とか、わざわざ修飾語をつけています。兵器を並列的に書くだけだったら、こういう修飾語はいりません。あえて書いているのは、こんな兵器を市民に対して使っているんだ、許せんということでしょう。これが裁判官の認識です。裁判官を突き動かして書かせたのは、そんなすさまじいまでのイラクの実態なのです。残虐非道の兵器で人を殺していくことは許せんという人としての思いが、この判決文を生み出したんだと思っています」
首都バグダッドとその周辺では年を追うごとに掃討作戦を強化したことが書かれており、2006年(平成18年)8月からはアメリカ兵1万5千人を増派、2007年1年間の空爆回数は1447回で、それは2006年の6倍にも上るとあります。この時期に日本の航空自衛隊が新たな活動を始めたのです。川口さんはそこを指摘します。
「私たちの航空自衛隊は、陸上自衛隊が撤退したあと活動を大きく変化させています。それまでは主に陸上自衛隊の物資を運んでいましたが、撤退後はアメリカの要請でクエートからバグダッドまでの輸送が始まりました。航空自衛隊がバグダッドに輸送を始めたのが平成18年7月で、8月ごろからアメリカがバグダッドに1万人規模で増派していきます。その米兵を送り込んだのが私たちの航空自衛隊なんです」
2006年にWTO(世界保健機関)は開戦からのイラク人死者は15万1千人から最大で22万3千人と発表、イギリスの医学誌は2006年6月までで65万人を超えるという考察を発表しています。また2007年1年間の死者は、イラクのNGOが2万4千人に上ると発表、イラク政府もそれを裏付ける数字を出しています。またイラクの全人口の7分の1にあたる400万人が家を追われ、シリアに150~200万人、ヨルダンに50~75万人が難民として流れ、国内の避難民は200万人以上になるといわれています。川口さんは殺人事件にたとえて、こう強調するのです。
「極端なことを言えば、殺人グループのひとりがクルマを運転して現場に行って、もうひとりが殺人を犯した。運転した人は直接手を下さなくとも殺人幇助または共同正犯です。イラクの市民からしてみれば、日本の自衛隊がやっていたのは、そういうことじゃないですか。直接銃口を向けていないかもしれない。それは憲法9条があるからかもしれない。しかしやっていることはイラクの市民を直接殺しているに等しいのです」
そして青山裁判長は航空自衛隊のイラクでの活動は憲法違反であると断じたのです。
<現在イラクにおいて行われている航空自衛隊の空輸活動は、政府と同じ憲法解釈に立ち、イラク特措法を合憲とした場合であっても、武力行使を禁止したイラク特措法2条2項、活動地域を非戦闘地域に限定した同条3項に違反し、かつ憲法9条1項に違反する活動を含んでいることが認められる>
箕輪訴訟弁護団事務局長の佐藤博文弁護士は、全国弁護団連絡会議の事務局長をつとめ、名古屋でも意見陳述しました。
「名古屋の判決というのは、従来のいわゆる護憲派が主張していたことを、そうだと認めた判決じゃないんです。法廷で読み上げられた判決要旨では真っ先に、従来の政府の解釈によれば、ということから始まっている。要するに箕輪さんが言っていたことなんです。護憲派、改憲派、そのほかいろいろ議論があるけれども、百歩譲って政府の解釈によったとしても、それは憲法違反と言わざるを得ない、というのが名古屋判決なんです。箕輪さんが従来の政府の立場から論陣を張ったことが、名古屋判決に影響を与え、下支えをしたと思っています」
そして佐藤さんは、この判決には予想もしなかったことが含まれていたといいます。
「名古屋判決で驚いたのは憲法9条1項違反だと言ったことです。僕らは9条2項違反だと主張していたんです。じつは自民党の新憲法草案は2項は変えるけれども1項はそのままなんです。民主党の改憲派も2項は変えるが1項を変えるとは言っていない。判決は、たとえ改憲しても今度のような派兵はできないよ、と言っているに等しいのです」
名古屋高裁の判決では、いわゆる平和的生存権について「平和的生存権に具体的権利性がある」としました。これは一審の名古屋地裁での判決(田近年則裁判長)で認められたことで、1973年の札幌地裁・長沼ナイキ基地訴訟判決以来のことでした。そして今年2月の岡山地裁の判決は原告敗訴でしたが、平和的生存権が認められました。
「つい先日の2月24日、岡山地裁の判決は敗訴でしたが、ここでも平和的生存権を具体的に正面から認める判決が出ました。いまから30数年前の長沼判決で初めて平和のうちに生きる権利が国民の人権として認められました。人権は国家の前に存在するわけですから、国家がどうあろうと我々はその人権を主張して、国家の誤った政策をただすことができる。人権とはそういうものだと思います。それが30数年ぶりにこのイラク訴訟を通じて、名古屋地裁の田近判決、名古屋高裁の違憲判決、そして岡山地裁の判決と、具体的権利性を認める3つの判決を勝ち取りました」
各地で起こされた裁判で、その代理人となった全国の弁護士たちは全国弁護団連絡会議を結成、10回にわたる会議を開き、また自衛隊員や家族からの相談を電話で受ける『何でも110番』を実施したり、イラクの隣国ヨルダンに行って現地調査を行うなど積極的な活動を展開してきました。その横の連携が原告団・弁護団の力を高め、名古屋高裁の判決を導いたともいえます。札幌弁護士会館での集いの冒頭、名古屋の川口さんからこんな発言がありました。
「この裁判が全国の裁判として出発したのがこの札幌の弁護士会館でした。まさにここでのろしを上げたわけです。私たちは全国各地の裁判所で、全国はひとつとして闘ってきました。ですから名古屋高等裁判所の判決は、名古屋だけの判決ではなく、北海道のみなさんをはじめとした全国の闘いの成果であることを確認したいと思います」
佐藤弁護士も名古屋の裁判には箕輪裁判からの積み重ねがあると言います。たとえば2006年5月には札幌地裁で、2008年1月には名古屋高裁で軍事史を研究している明治大学文学部教授、山田朗(あきら)さんの証人尋問が実現しています。
「全国で最初に山田朗さんの証人尋問をしたのが箕輪さんの裁判でした。イラクのサマワに行った陸上自衛隊が何をやっているのかを札幌で解明し、そこからリレーする形で、輸送航空隊の小牧基地がある名古屋では航空自衛隊に絞った尋問が行われました」
札幌では陸上自衛隊が持ち込んだ装輪装甲車、機関銃、自動てい弾銃などは正当防衛用ではなく、組織的な戦闘もありうるという想定でなければ必要ないこと、給水活動も戦闘行為を支えていることなどが述べられました。その陸上自衛隊が撤退し、航空自衛隊はバグダッドへの乗り入れを開始します。
そして盛んに活動内容が宣伝されていたサマワの陸上自衛隊からは一転し、航空自衛隊の活動はほとんど公開されず、書類が開示されても大部分が黒く塗りつぶされました。山田さんは航空自衛隊の秘密裏の活動が、まさに軍事行動であることを明らかにしました。違憲判決はこうした証言から導かれていったのです。
一審敗訴の箕輪訴訟ですが、もうひとつの大きな成果があったと佐藤さんは言います。それはイラク派遣に反対する人々を監視していた自衛隊の保全隊についてです。本来は自衛隊の機密情報保持のための防諜組織なのに、市民がその監視対象になったのです。札幌地裁の判決文には次のように書かれています。
<本件派遣に際して、自衛隊情報保全隊による国民一般に対する情報収集活動自体はゆゆしき問題といわざるを得ない>
この件では2007年7月に仙台弁護士会が抗議声明を出し、札幌地裁の判決言い渡しの1ヶ月ほどまえの10月5日には仙台市民が情報保全隊の活動停止と損害賠償請求を求めて地裁に提訴しました。第4次までの提訴で原告は80名近くとなり、裁判が続いています。
札幌弁護士会館の集いは、川口さん、佐藤さんのほか砂川、恵庭、長沼、百里訴訟の弁護団だった内藤功(いさお)弁護士による平和訴訟の歴史についての話がありました。また箕輪さんが生前、国会議員に向かって病床から発信したビデオレター、札幌の法廷内でも上映されたアメリカの現実を切り取った映画「アメリカばんざい」のダイジェスト版が上映され、飲食しながらの交流会へと続きます。こうして箕輪訴訟と呼ばれたイラク派兵差止北海道訴訟は幕を閉じました。
箕輪さんについて佐藤さんはこう振り返ります。
「提訴してすぐのころ、箕輪さんは元気だったので、あちこちの講演に呼ばれたんです。紋別に呼ばれたときは元レバノン大使の天木さんと一緒に行きました。天木さんがアメリカの反体制学者ノーム・チョムスキーの話題を持ち出したとき、箕輪さんは知らないだろうな、天木さんの独壇場になっちゃうなと思ったんです。ところが箕輪さんが口を挟んだ。私もチョムスキーを愛読していると。それにはびっくりしました」
箕輪さんは道内だけでなく小泉首相のお膝元の神奈川で4つの講演をこなしたり、長崎にも出かけています。でもその姿はかなり疲れた様子だったといいます。この裁判で原告が死ぬと損害賠償請求は相続できますが、差止訴訟は終わってしまいます。それで佐藤さんは「無理しないでくれ」と頼んだそうです。また箕輪さんが「俺、いつまでひとりなんだ」と言うので、2次訴訟の原告を集めることになりました。
「この裁判は勉強になりました。僕が学生のころの箕輪さんは全盛期でした。自民党でも田中派に属していて、一番悪いやつだ、選挙で落とすのは箕輪登だと思っていましたよ。それが晩年、法廷で一緒にやることになって。そのへんの口先だけの平和主義者なんかより、ほんとの意味の気骨がありました。だからお葬式の会葬礼状にあるような、きちんとした平和への思いを書けるのだと思います」
会葬礼状の文は、生前の箕輪さんの言葉の中から遺族が選んだものでした。それはまさしく遺言でした。
なんとかこの日本がいつまでも平和であってほしい
平和的生存権を負った日本の年寄り一人が
やがて死んでいくでしょう
やがては死んでいくが死んでもやっぱり日本の国が
どうか平和で働き者の国民で幸せに暮らして
欲しいなとそれだけが本当に私の願いでした
みのわ登
原告のひとりだった平井敦子さんは札幌市内の中学校で社会科の教師をしています。
「イラク戦争を小泉首相が支持すると言ったときに、天地がひっくり返った気分でした。ブッシュが戦争だ、報復だと言っているかぎりは、バカだと思って済むのに、間髪入れずに日本の首相が支持しますと。その一週間後でしょ。自衛隊派遣を表明したのは。箕輪登という名前で裁判が起こったと聞いたときには、法に則ってまっとうに動こう、権利を主張していこうという、箕輪さんの姿勢そのものが憲法の姿だなと思ったんです」
控訴を取り下げたことについてはどう思っているのでしょうか。
「箕輪さんが生きていたら何と言っただろうかと思います。憲法を地で行くような手続きを踏んで生きてきた方ですから。国側は法廷の場でいっさい弁明せずに終わってしまったわけで、箕輪さんの前でしゃべらせるまでは終われないという思いもありました。でもこの訴訟は全国に広がって戦後最大の規模になりましたよね。その一翼を担う札幌が共同歩調をとって、ここで取り下げることが全国でプラスになる。これは正しいと思っています」
平井さんはこの裁判に参加し、これまでにない大きなものを得たと言います。
「私なんかとは考え方が違ったにしても、箕輪さんは政治信条を曲げずに、それまでの自民党政治も否定しなかった。(政権の)外で言うのは簡単だけれども、中で闘い続けている人がいて、手をつなぐことができると分かったことは、私にとって大きな宝となりました」
子どもたちは平和や社会問題についての関心をちゃんと持っていると平井さんは言います。
「中学生に接していて無気力、無関心だと思ったことはないです。9.11のときもイラク戦争のときも子どもたちは関心を持っていました。ただ社会の矛盾については子どもたちは合意するけれども、一歩踏み出そうとか、それに関わろうとかはあまり思っていない。矛盾に思ったら声を上げられる国なんだからと、模擬選挙をやったり、国会議員に手紙を書いたりしています」
2006年5月には箕輪登さんが、そして2007年7月には大阪訴訟の小田実さんが死去します。札幌原告の松田平太郎さんなど、裁判のさなかに亡くなった人は数多いでしょう。ときには激しい論戦を交わした日本の良心たちが、命が尽きるまで憲法に訴え続けたその願いが、名古屋高裁の判決ではっきりした形になりました。
そして全国で5千人を超えた原告とその弁護団による訴訟は、その過程でさまざまな遺産を残しています。たとえば個々の固定観念を乗り越え、思想信条は違っても平和を願う気持ちで協調し連帯できるという新たな意識が生まれたこともそのひとつでしょう。そしてそれらが、次の世代にも伝えられていくはずなのです。
[関連リンク]
ウェブマガジン カムイミンタラ第9号特集『元自民党代議士・箕輪登さんが問うたもの イラク派兵差止訴訟』
特集の最後に「自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟」、「2008.4.17.名古屋高裁 イラク派兵違憲判決」等の様々な資料を掲載しています。合わせてぜひご覧下さい。
自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟
http://www.hg-law.jp/iraq/
自衛隊イラク派兵差し止め訴訟(名古屋)
http://www.haheisashidome.jp/index.htm