1913年(大正2)9月、1年前に開通したばかりの網走駅にバリカンとカミソリ、ハサミを小脇にしたひとりの青年が降りたちます。見かけは小柄ながら、その胸に大きな期待をふくらませた青年です。駅前の木賃宿(きちんやど)で、函館から3日がかりの長旅の疲れをいやした彼は、翌朝、網走川沿いの道を散歩に出かけます。
青森に生まれ育って幼いときから考古学に興味を持ち、高等小学校を中退後、東京で理髪職人として奉公。この間、東京大学の鳥居龍蔵教授の研究所や通信教育で専門的な知識を学びとってきた青年がふと目にとめたのは、網走川河口・最寄(もよろ)の地に30メートル前後の急斜面を露出している丘陵でした。
「なにかあるぞ」。考古学好きの人だけが持つ独特の勘にかられて近寄ってみると、厚さ1メートルにも及ぶ貝殼層が2重、3重に堆積している――彼は思わず驚きの声をあげ、しばしぼう然とするのでした。
調べてみると、縄文系ともアイヌともまったく異質な石器や土器が多数混在しています。さらに丘の上には、古代の住居跡と思われる竪穴も点在しています。彼はこの貝塚を『モヨロ貝塚』と名づけました。米村喜男衛(きおえ)さん(1892―1982)とオホーツク文化人との劇的な出会い―彼が21歳のときでした。
喜男衛さんが北海道に渡って来たのは、東京で鳥居教授の著書『千島アイヌ』を読み、アイヌの生活を知りたいと思ってのこと。お礼奉公のすむのを待って東京を引き払い、函館にやって来たのでした。しかし「アイヌの暮らしを知りたければ日高か網走に行かなければだめだ」と町の人に教えられ、市内の理髪店に勤めながら旅費を蓄え、1年半後に網走へ向かったのです。
その網走で新しい貝塚と出会った喜男衛さんは、アイヌの研究よりもこの貝塚の調査のほうが先だと胸を高鳴らせ、網走に定住を決意します。そのためには理髪店の開業資金を稼がなくてはならない。同宿の人に地域の様子を尋ねると「奥地の造材飯場には、髪を刈りたがっている人夫が大勢いる」とのこと。早速、商売道具を手に出稼ぎに行きます。そして翌春、なにがしかの資金を懐に網走へ戻り、家を買って開業します。『米村バーバーショップ』という、当時としては奇抜な看板を掲げて町の人の度胆を抜き、津軽弁丸出しの気さくさもあって、商売は順調に伸びていきました。
そのころの喜男衛さんの生活は、早朝は貝塚の発掘、昼間は理髪業に励み、夜は遅くまで専門書と首っぴきで発掘資料の整理です。珍しい遺物を店に陳列し、2階の部屋も石器や土器でうずまっていきます。
昭和初期、地質学者でもあった紋別鴻之舞鉱山住友鉱業所の久保田所長が訪れ「貴重な史料が火災にでも遭っては大変」と助言します。それを契機に住友本社から寄付を仰ぎ、管内からの出資、喜男衛さんの私費と収集資料数千点が提供されて1936年(昭和11)待望の北見博物館(現網走市立郷土博物館)建設にこぎつけたのです。貴重なのは貝塚も同じです。乱掘や破壊から永久保存するためには国の指定史跡の認可を受ける必要のあることに気づいた喜男衛さんは、なんども上京して文部省に通いつめ、博物館開設の前年に本道の貝塚では初の史跡天然記念物の勅令を受けます。
ところが、第二次世界大戦の暗雲が重く覆いはじめた1941年(昭和28)、帝国海軍は網走を補給港とするため、モヨロ員塚一帯を破壊して軍事施設を建てるというのです。驚いた喜男衛さんは、監督官に面会を求めて懸命に折衝するのですが、逆に“天皇の軍の行動を妨害する非国民”として憲兵に引き渡されてしまいます。威丈高ににらみつける憲兵隊長を前に、喜男衛さんは必死に食い下がりました。
「この貝塚は、おそれおおくも天皇の勅令による法律で保護されています。それを陛下のお許しもなく勝手に破壊してよいものでしょうか」。このひとことで『貝塚の破壊は最少限にとどめる、工事現場には米村一人が自由に出入りして遺物の採取研究することを許可する』というお墨付きが降り、なんとか貝塚の破壊を一部にとどめることができたのです。
そうした喜男衛さんの献身的な努力と呼びかけが学界を動かし、戦後、1947年(昭和22)から東大、北大、郷土博物館の3者合同による大発掘調査が行われます。このときの喜男衛さんの活躍する姿は印象的だったと、当時を知る人は語ります。
この発掘を皮切りに、オホーツク文化解明への本格的な調査が次々と実施され、貴重な資料の発見とともに、その起源と滅亡をめぐる謎も深めていきます。
本道オホーツク海沿岸やサハリン(樺太)南部での遺跡調査が進んだ1979年(昭和54)に、北海道新聞紙上で“オホーツク文化の担い手はだれか”をめぐる5人の学者の論戦が展開されました。
筑波大の加藤晋平教授は「4~8世紀に黒龍江(アムール川)中・下流域で強大勢力を誇った黒水靺鞨(まつかつ)(満州ツングース民族)の進出」が起源と仮定。北大の菊池俊彦助教授は「中国の史書にみえる流鬼(りゅうき)=吉里迷(きつりめい)がギリヤーク族であると推定でき、これこそオホーツク文化人」と主張します。しかし北大の大井晴男教授は「ギリヤーク族でもアイヌ族でもない“第3のグループ”を考え」中国の史書にいっとき現れるあい因(あいいん)、亦里于(いりう)の名を持つ謎のグループに注目しています。ところが東大の藤本強助教授は精神文化の面から「アイヌの祖先の可能性」を述べ、札幌大の石附喜三男教授はギリヤーク説に賛成しながら「日本書紀に登場する粛慎(みしはせ)がオホーツク文化人を指しているのではないか」と推測。謎はいっそう混迷を呈するのでした。
オホーツク文化の遺跡は南サハリンから礼文島を経てオホーツク海沿岸、根室半島、千島にまで分布しています。つまり、アムール川河口を発祥とする流氷の離着する沿岸地帯に、その生活圏を限定して暮らす民族であることがわかります。
流氷の下のプランクトンをエサに魚が群がり、その魚を追ってトドやアザラシなどの海獣が沿岸近くにやって来ます。それを追って、彼らもまた大陸から流氷域を南下して来た移住者だったのです。事実、オホーツク文化の遺跡からは他の民族よりはるかに多くの海獣の骨が出土し、さまざまな生活道具や装飾品に利用しています。そのため彼らを『海洋民族』と呼ぶ人も多いのですが、喜男衛さんを“モヨロ爺々(ちゃちゃ)”と呼んで親交の厚かった菊池さん(前出)は別の見解をもっています。「貝塚を掘ってみると、ウニ殻や魚骨が圧倒的に多く出土します。特に夏の食糧は魚類に依存していたとみるべきで、むしろ『沿海民族』と呼ぶほうが正しい」としています。
モヨロ貝塚をはじめ沿岸各地のオホーツク文化遺跡から多数の人骨が発掘され、何体かは網走郷土博物館やモヨロ貝塚館に展示されています。それは北海道土着の民族とはまったく異質なばかりか、北方大陸のどの民族につながるかも究明できず、形質人類学上の大きなテーマになっています。
骨格の特徴は、頭部が顔高短頭であご骨がひじょうに発達しており、顔面全体が後方に傾斜しているのが目立ちます。眼孔をみるとアイヌ民族のように切れ長ではなく、クリクリ目をしていたものと思われます。
身長は男で平均165センチ、女でも150センチ以上とみられ、同時代の擦文(さつもん)文化人や後のアイヌ民族の平均150センチ前後に比較すると、かなり長身だったことがわかっています。背が高く、がっちりした体格の男女が竪穴の住居に住み、男は1隻の船に7、8人が乗り込んで海獣の狩猟をしたり、重い石をくくりつけた網や精巧な釣針での漁労を生業としていた勇壮な姿がほうふっとさせられます。この骨格の特長がウリチ―靺鞨(まつかつ)―女真(じょしん)と続く満州ツングース族に近いとする説が浮びあがっていますが、確証を得ていません。土器の製作は女性が中心だったのか、オホーツク文化を特徴づける装飾の美しい土器が数多く出土しています。
喜男衛さんの孫にあたる衛(まもる)さん(同博物館学芸員)はその土器を示しながら「オホーツク式土器の特色は縄文がなく、表面をよく磨いた上に木を櫛歯状に削ってスタンプのように押しつける刻文と、ソーメン状に伸ばした粘土ひもを用いた貼付浮文(はりつけふもん)に大別されます。紋様に波形や水鳥、魚などをたくみに装飾しているのは、海の民族だった彼らの思いがこめられているのでしょうね」と説明します。しかしこの特色ある土器も周辺文化に類似はありながら、その起源を特定するまでにいたっていません。
住居跡も5角形か6角形の特徴的な形をしています。中央に炉をきり、その周囲に粘土で固めたコの字型の居住スペースがあります。これは“冬の家”と呼ばれ、ギリヤーク族の家に似ています。しかし一辺が15メートル×8メートル前後と、他の民族の2倍近くも広い面積を有し、血縁関係の2、3家族が十数人で同居していたと考えられます。
その家の中にNマの頭骨を積み重ねた骨塚があり、彼らにクマを祭る風習のあったことをうかがわせます。しかし菊池さんは「古代北方民族に広く分布する風習で、このことから共通の精神文化を持つ民族を探すことは無理」と考えています。
それよりも、彼らがブタを飼養していたことが大きな謎のひとつとなっています。ブタを飼うのは黒龍江下流域の農耕民族に広くゆきわたっていますが、海洋民族にはみられないことだからです。
死者の埋葬の仕方も特徴的です。頭を北西、つまり日の出を見るかたちで仰向けにして饗(かめ)を被せ、腕を胸に組み、ひざを折り曲げた姿で埋葬しています。仰臥屈葬は靺鞨・女真文化の埋葬法に共通ですが、北西頭位はどの周辺文化にもみられません。
オホーツク文化人は、北海道南西部から釧路付近にまで勢力を広げていた擦文文化人と5世紀以上も隣り合わせていながら、両者の交流はきわめて少なく、むしろ黒龍江下流を中心とした大陸と緊密に交流しています。回転式離頭銛(もり)や釣針など高度に発達した漁具・捕獲道具は大陸に共通したものが多く、鉄製の刀、斧(おの)、鉾(ほこ)をはじめ軟玉製の首飾りや銀製・ガラス製の耳飾り、青銅の帯飾りのほか北宋銭など、大陸の文物そのものが大量に出土します。
しかし、この民族と文化も13世紀末には滅亡への道をたどり、その原因がまた謎を投げかけます。
「この時代にチンギス・カンを王とするモンゴール族の『元』が中国東北部に勢力を伸ばし、北方民族に厳しい鎖国をしく。そのため、オホーツク文化人は大陸との文物の交流を絶たれるのです。一方、鎌倉幕府は流刑人を蝦夷に送り込み、それにつれて鉄の武器など本州の文化が北海道に持ち込まれます。そのため、オホーツク文化人とプレアイヌといわれる擦文文化人とのあいだで文化レベルの逆転が起こり、ついにその文化に吸収されたものと思われます。その証拠は、羅臼や根室付近の遺跡にみることができるのです」と語るのは喜男衛さんの長男・哲英さん(前・同館長)です。
菊池さんも東洋史の立場から中国の史書にそれを推測させる記述のあるのを指摘し、さらに“オホーツク文化人はだれか”までを推論して『流鬼=ギリヤーク説』を発表しています。また、元史に『樺太で吉里迷が骨嵬(こつかい)に圧迫されて救援を求めている』とあります。吉里迷はギリヤークを指す“ギリミー”の音に近く、骨嵬は黒龍江下流の諸民族がアイヌ民族を呼ぶ“クイ”に通じるとして「吉里迷こそオホーツク文化人である」との説をたてています。さらにさかのぼって、7世紀中葉の中国史書に『イヌ皮やブタ皮の衣服を着て、乗馬を知らない流鬼という部族が靺鞨の地を訪問している』とあり、菊池さんは流嵬を吉里迷の先祖とみて、オホーツク文化人の起源と滅亡の歴史を推論しているのです。しかし、数多い仮説はいずれも定説を得ないまま、現在にいたっています。
「資料が少ないから面白いんですよ」と菊池さんはいいます。日本の歴史では、大陸の文化は常に朝鮮を経由して西から入り、東へと流れて来ました。しかし、北海道では北からも大陸文化の流入があったことに菊池さんは大きな意味を感じています。
「人間は結局、追体験によって生きるものだと思うのです。だとしたら、この謎に満ちた北方民族がどのように大陸文化を取り入れていたか。その生活誌を知ることは、北海道の未来を考える材料としてもふさわしく、やりがいのあるテーマです」と今もときどきモヨロ貝塚に足をはこび、今後は農耕との関連に注目するといいます。
一方、2月に喜男衛さんの7回忌をすませたばかりの哲英さんは、いま苫前町で遺跡の発掘調査をしています。ここは大和文化、擦文文化、オホーツク文化の接点となる場所。哲英さんのひそかなねらいは『斉明4年(658年)に阿倍比羅夫(あべのひらふ)が、圧迫されているエゾを救うために粛慎と呼ばれる異民族と日本海に注ぐ大河のほとりで戦う』という日本書紀の記述をもとに、オホーツク文化人の行動圏がこの地にも及んでいないかを探ることです。
90歳の長寿を全うする5日前まで網走市立郷土博物館長としてオホーツク文化の資料を守り、後進の研究者に多くの教示を残した喜男衛さんが情熱をこめて求め続けたものは、歴史の真実と未来につなぐ意義でした。同じ情熱は、いまなお古い地層を掘り続ける2代目・哲英さんと、博物館で資料と対時(たいじ)している3代目・衛さんにも受け継がれています。そして、喜男衛さんの貝塚発見を端緒に、謎解きとロマンにひかれた多くの研究者―。
その人たちの前で、この民族が残した資料の数々は、汲めども尽きぬ魅力を持って未知のことばを語り続けています。