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1988年07月号/第27号  [特集]    函館

歴史的なかかわりが深く観光資源としても愛される函館市民の心のよりどころ
函館山 函館

  
 温帯北部と亜寒帯との境界線上にあって貴重な生物相と、歴史的なかかわりも深い函館山は、市民にとって心のよりどころです。また、待望の青函トンネルの開通によって“青函新時代”の到来に期待をかけている函館のシンボルであり、山頂からみる夜景の美しさは世界三大夜景のひとつと賞賛されています。函館はいま、基幹産業の造船、北洋漁業が不振のつづくなかで観光事業による活性化への期待は強く、その一翼を担う函館山をどのように位置づけていくかが問われています。

早朝から散策を楽しむ市民も多く

「ほら、この花、先週よりこんなに大きくなっているわよ」

その日―、あいにくの小雨まじりだというのに、早朝6時から、そんな明るい声が函館山の中腹で聞こえます。15年も前から、毎週この山を歩きつづけている『朝の散歩』のみなさんです。

「山道を歩いていると、運動靴の下から伝わってくる生命力が、なんともいえない感動を与えてくれるのです」

代表の臼倉トシさんは、この山を愛しつづけてきた喜びをそのように語ります。

イメージ(函館山で見かける花々(宗像英雄さん提供))
函館山で見かける花々(宗像英雄さん提供)

その一群が林道を登って行ったあと、何人かのジョギング姿とすれ違い、いつも見かける初老の夫妻も、先ほど山を下って行きました。

夜遅くまで、夜景を楽しむ観光客でにぎわっていたあの喧騒とは別世界のように、この山に深い愛着を持つ地元の人たちの訪れで、函館山の朝はさわやかに明けていくのです。

“鋼いらず”の巴港を形成した海中火山

函館駅を南へ2キロの地点から隆起する函館山は、北部の御殿山(334メートル)を主峰にいくつかの山地が集まって形成され、面積は326.6ヘクタール、周囲約9キロの孤立した山。山容が牛の寝姿に似ているところから、臥牛(がぎゅう)山とも呼ばれています。

函館山生成の歴史を、宗像英雄さん(南北海道自然保護協会・函館植物研究会各会長)は次のように語ります。

イメージ(歴史的町並みがつづく元町界隈から見た函館山)
歴史的町並みがつづく元町界隈から見た函館山

もっとも古い地層は津軽海峡側に面した寒川火山噴出物層で、いまから2千万年前の新第3紀中新世末期に海底火山が噴出して、函館山の土台を形成したものと考えられています。さらに1200万年前ころの鮮新世紀に立待岬や千畳敷台地、高龍寺山、御殿山などが溶岩噴出によって次々と山地を生成していったのです。そして200万年前ごろの洪積世になると、なんどかの氷河期を経るなかで海食作用を繰リ返しながら現在のような山容の島ができあがりました。

亀田川や沿岸流が運ぶ土砂によって、亀田半島と砂州でつながる陸繋島としての函館半島ができあがったのは縄文海進時代で、いまから3500年から3000年前ごろの、きわめて新しい時代といわれています。このことによって「巴港」と呼ばれる天然の良港が生まれ、古くから“綱いらずの港”として日本海商品流通圏の最北端の商業港湾都市に発展するステージが形成されたのです。

その良港ぶりは、1854年(嘉永7)に米国のペリー提督が函館港を視察したときに「広々として美しい函館港の船の入りやすさと安全さは世界無比」(『ペリー提督遠征記』から要約)と賞賛しています。

山頂で多くの人が蝦夷地経営の想を練る

函館山をこよなく愛し、、函館山を知り尽くしている人のひとりといわれる千田(ちだ)浩さん(函館市公園緑地課緑化保全係主任)は、函館山にかかわる人文的年表をまとめています。その千田さんは「函館に来て、蝦夷地といわれた北海道の将来を考えた人は、ほとんどこの山に登って思いをめぐらせたのではないか」と、歴史的なかかわりを話しはじめます。

イメージ(世界に誇る夜景の展望は函館観光の目玉のひとつ)
世界に誇る夜景の展望は函館観光の目玉のひとつ

もちろん、縄文早期の遺跡が寒川地区や青柳町、谷地頭町、佳吉町などの西部山ろく地区に分布していますが、記録にあらわれるのは、異境の布教を志した日蓮の高弟・日持上人が1295年(永仁3)に函館山へ登り、山頂に題目を大書した鶏冠形の巨石を残したとする伝承が初めて。それから150年後の1445年(文安2)に河野政通が、山ろくの現函館公園付近に箱館(箱型の城)を築き、そのために函館山を御殿山と呼ぶようになったことが、『蝦夷実地検考録』に記されています。

江戸時代後期になると蝦夷地開拓が本格的に考えられはじめます。松平忠明らが函館山に登って蝦夷地経営の抱負を詠じたのが1799年(寛政11)、翌1800年には伊能忠敬がこの山に登って北海道の測量を開始します。そして、同じ年に間宮林蔵もこの山で忠敬から測量技術を習うのです。また、北方探検家の近藤重蔵もエトロフまでの探査計画をこの山頂で練ったといわれます。

このころは、とくに幕吏・文人がひんぱんに箱館を訪れ、村上島之丞の『蝦夷島奇観』や松浦武四郎の『蝦夷日誌』をはじめとした函館山についての見聞が、数多く残されるようになりました。

「薬師山」とも呼ばれ、信仰の山として尊ばれる

イメージ(幕末に出版された錦絵「箱館真景図」)
幕末に出版された錦絵「箱館真景図」

人びとに親しまれる山は、往々にして霊山とされることか多く、函館山もまた信仰の山としてあがめられました。日持上人の伝承はもとより、1616年(元和2)に河野政通の末孫・良道という密教の僧が函館山に金銅の薬師仏を納めて天下太平国土安民を祈願。それ以降、この山を薬師山と呼ぶようになったことも『蝦夷鳥奇観』に記されています。

山中には三十三観音の石像か点在しています。これは1834年(天保5)に称名寺(現・船見町)の僧と旧家の蛯子長兵衛が協力して西国の霊場の土を少しずつ移し、そこに四国の花崗岩を大阪の仏師に刻ませた観音像を、高田屋の船で運んで建立したものです。またの名を「移土観音」とも呼び、春と秋には“山かけ”といって、衆人が群をなして参詣したとのことです。

イメージ(昭和初期の市街地図、函館山の地形が空白になっている)
昭和初期の市街地図、函館山の地形が空白になっている

この三十三観音像は、のちの要塞時代にほとんどが湯川町に移され、大正時代に造りかえられたものが、戦後、ふたたび山にもどされました。ただ、その中の1番と3番観音だけが往時のままの石仏で、150年もの風雪に耐えて、変わらぬ慈悲の笑みをたたえています。

そのほか、不動、弁天、薬師などの地蔵もあり、「函館山権現」の石柱もあって、いまも時折、信者の参拝する姿が見受けられます。また、青函連絡船海難者の慰霊碑(1953=昭和28)や、死者・行方不明千数百人に及んで世界海難史上2番目の惨事となった洞爺丸台風被災者の慰霊碑(1955年=昭和30)も建立されています。

半世紀も市民の立ち入りを禁じた要塞時代

明治の陸軍省によって函館山に要塞が築造されたのは1899年(明治32)のことです。第二次大戦後の1946年(昭和21)までの47年間、函館市内地図から函館山の地形は消え、市民の立ち入りはもとより、山麓からの写真撮影やスケッチすらも厳しく禁じられていました。そのため、函館出身の画家・田辺三重松が「函館山のない函館は絵にならない」と嘆いていたと、宗像さんは当時を思い起こします。

函館山要塞は第1級の要塞で、フランス式を採用した砲台の数は御殿山、薬師山、立待、鞍掛山などに7つ。1944年(昭和19)には高龍山に臨時高射砲が設置され(曾田金吾著『函館山要軍の終焉』)、いまもその跡が残っていて観光資源のひとつになっています。

1945年(昭和20)7月、函館は米軍グラマン約400機の空爆を受けて要塞からも応戦しますが、撃ち落としたのはわずか1機だけだったということです。

半世紀にわたり、巨額の軍資を投じて固めた要塞も、時代とともに急速に発達する科学兵器や新戦法には迫いつけず、「しょせんは“こけおどし”的存在だった」と、曾田さんはその著書の中で述べています。

その痛みを知った函館市は、1984年(昭和59)の市議会で『核兵器廃絶平和宣言都市」を決議しました。「美しい自然を誇り、優れた市民性を育んできた住みよい函館の発展は、平和の達成なくしてあリ得ない」というのが、この宣言の心です。

一般開放後は無線中継所やテレビ送信塔が林立

イメージ(眺望を楽しむ観光客)
眺望を楽しむ観光客

敗戦後、米軍によって、要塞は破壊され、一般に開放されると、まず青函局函館無線区の局舎が千畳敷に建設(1948年=昭和23)されました。そして、テレビ放送が本格化する1955年(昭和30)以降は、テレビ各局が競うように送信塔を林立させます。

一方、御殿山に無人の展望台が建ち、日曜・祭日に市営バスが9合目まで運行を開始したのが1953年(昭和28)。翌年、初めての市民ハイキングが実施され、名実ともに函館山は市民のものになったのです。1957年(昭和32)に雑誌社が企画した「新日本百景」に全国第1位で入選。その翌年に口ープウェーが開通しました。近年では年間300万人もの市民や観光客がこの山を訪れています。

緑のトンネルを行く数々のハイキングコース

戦後、大蔵省の所管となって函館市に管理を委ねられてからは、数々のハイキングコースが開かれました。函館山を足で知り尽くした千田さんは、その主なコースを説明してくれます。

旧山道コースは、旧道入口から水元谷までの1,023メートルと、つつじ山駐車場までの615メートル、千畳敷方面の堀割車止め柵までの597メートルの3つに分かれ、家族連れには最適。途中、江戸時代に植林した見事な杉林があり、自然樹が緑のトンネルをつくって野鳥の営巣もみられよす。

イメージ(函館山の動植物との出会いを楽しむ市民は多い)
函館山の動植物との出会いを楽しむ市民は多い

千畳敷コースは、堀割車止め棚から千畳敷休憩所までの670メートル。眼下にウグイス谷があり、住吉漁港や大森海岸や青柳、谷地頭、住吉などのカラフルな町並みが展望できます。鳥獣保護区で、10月下旬から11月上旬までの短期間に32種637羽が観測されたという野鳥の楽園です。

地蔵山コースは、千畳敷休憩場から地蔵山見晴台までの830メートル。青森県の山並が浮島となって映り、汐首岬、恵山も眺望できます。

七曲がりコースは、鞍掛山口から地蔵山見晴台までの990メートル。曲がり坂は28を数え、眼下には立待岬が―。

宮の森コースは、八幡宮裏の杉林を通って、箱館戦争の戦死者をまつる碧血碑へ抜ける1200メートル、適度な起伏に富み、この山ではハードなコースのひとつ。

そのほか、汐見山、寒川、穴澗(あなま)など数多くのRースがあり、「函館山を散策しながら、市民みんなが自然とふれあう心で生きて欲しい」というのが千田さんの願いです。

600種の植物と111種の野鳥が観察される市民の宝

「都市の中にあって600種にも及ぶ植物相を有する緑地は日本でも珍しく、市民の貴重な宝物です。その中には、ナデシコ科のサムカワミミナグサ、ユキノシタ科のハコダテネコノメなど、かつて海に封鎖されて亜種化した固有種も8種あります」と、宗像さんは誇らしげに語ります。

また、水本八弥さん(日本野鳥の会函館支部長)によると「津軽海峡を南下北上する渡り島の休息地にあたり、留鳥も豊富。私たちの観測では111種を数えています」とのこと。草原が少ないので疎林や森林性の野鳥が多いのですが、托卵する相手がいないため、どこの森でも鳴くカッコウはほとんど見かけることがありません。

イメージ(函館山で見かける花々(宗像英雄さん提供))
函館山で見かける花々(宗像英雄さん提供)

こうした函館山の生物相にいち早く強い関心を寄せたのは、幕末にやって来た外国人たちでした。ペリーは入港するとまもなく乗組員に命じて動植物の採集をさせていますし、その数年後に着任したイギリス領事ホジソンは植物目録を発表しています。また、さらにその数年後、ソ連の植物学者マキシモウィッチは須川長之助を伴って採集研究をつづけ、わが国植物学界に大きく寄与しました。

イギリス人ブラキストンが、東亜温帯系とシベリア大陸系の鳥類や哺乳類の境界線は津軽海峡だとする有名なブラキストン・ラインを唱え、学界に波紋を投じたのは1886年(明治19)のことでした。

函館山の紅葉が始まれば漬物のしたく

函館山は、市街地のどこからもその全容が目にはいります。とくに和洋混交の歴史的な町並がつづく元町界隈は山が目前に迫り、独特の景観をかもしています。

「函館山に雪が残っているから函館公園の桜はまだだろう」「函館山に雲かかかっているから傘を持って行こう」「函館山の紅葉が始まったから、そろそろ漬物のしたくをしなくては」。

この山の四季の変化は日常生活の目安として、市民感情にしっかり根をおろしていると宗像さんは強調します。

イメージ(東山から見た函館山の全景)
東山から見た函館山の全景

そして、毎週同じ道を通って1週間ずつの変化を楽しんでいる朝の散歩のグループ、函館植物研究会、日本野鳥の会支部、函館山ふるさとの会、函館山の緑を育てよう市民の会、そして崩れかけた小道の修埋や防火帯の草刈りのボランティア活動をする函館山少年レンジャー隊などのグループが数多く結成されていることでも、この山がいかに市民に愛されているかがわかリます。

函館山の自然を守るルールづくりが課題

しかし、その人たちの多くが「函館山の自然を守る基本的な考え方が、市民の間にいまひとつ確立されていないのでは」と疑問を投げかけています。

イメージ(茂辺地地区から見た西側の函館山)
茂辺地地区から見た西側の函館山

この山は観光の目玉でもあり、より充実した観光開発を望む人も多いのです。いま、函館山は北海道の「緑のふるさと整備事業」に指定されて整備計画が進められています。かつて遊歩道の設置計画を市民の強い反対で撤回させた経緯があるのですが、観光公園としての宿命の中で、開発と自然保護とのルールをどう確立していくか、函館市民には大きな課題が背負わされているのです。

函館山の保全に気を配り、観光活性化の担い手として力を尽くす

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函館山ロープウェイ 代表取締役会長 加藤 昇

青函トンネルの開通によって、津軽海峡をはさんだ対岸同士が新しい文化経済圏をうみだそうとしています。しかし、造船と漁業の町だった函館は、その両産業ともが沈滞し、前途は必ずしも明るいとは言えない状況を抱えています。そこで浮かび上がってくるのが、観光事業を活性化の柱にしようという期待です。函館は開港都市として歴史も古く、都市型の観光資源はきわめて豊富。そして、毎年300万人の市民や観光客が函館山を訪れています。

わが社は1958年(昭和33)にロープウェイを開設しました。そして今年、満30周年を迎えたのを機に第3セクター方式をとり、輸送力を従来の3倍にアップする125人乗りのゴンドラを導入して、ゴールデン・ウィーク中もほとんど待ち時間なしで輸送することができました。

山頂の新展望台は旧来の4倍に拡張しました。屋内に雨天でも眺望を楽しめる展望ル-ムがあり、イベントルームでは演奏会などの文化行事の開催を随時計画していきます。とくにロープウェーの建設にあたっては、路線下の樹木にはいっさい手をつけず、自然環境の保全に細心の注意を払いました。また、展望台の外観は北イタリアの山岳地帯に建つクロイスター(修道院)をイメージして、函館山の稜線と山ろくの異国情緒豊かな西部地区の景観にマッチさせた設計を採用しました。

ロープウェーを充実させることは自然保護につながります。観光函館のシンボルである函館山を守る役割を十分に果たしていきたいと思っています。

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