ウェブマガジン カムイミンタラ

1988年07月号/第27号  [ずいそう]    

盲導犬の犬としての部分
香月 洋一 (かつき よういち ・ (財)北海道盲導犬協会所長)

人びとは、『盲導犬』という言葉を聞いて「いぬ」を思い浮かべている。しかしその「いぬ」は、一般的な「犬」ではないと考えているようだ。目の不自由なかたを安全に目的場所まで連れて行く、非常に厳しい訓練を受けた自由のない「いぬ」。目の不自由なかたのために尊い仕事をする「いぬ」これらが一般のかたがたの盲導犬に対する評価のようである。

事実、この仕事に携わるわれわれも、この評価を受け入れてきた時代があったように思われる。盲導犬は、なんでもできる「スーパードッグ」でなければならなかった。犬を連れて公共の乗リ物に乗り、公共の建物に自由に入ることか認められるには、この「スーパードック」でなくては認められない、「いぬ」に対する国民性を民族の歴史のなかに感じていたからである。

乗り物のなか、建物のなかでは盲導犬は息をひそめている。盲導犬を使用する視覚障害者のかたは、他の人ひとに迷惑をかけないよう、盲導犬に服を着せ犬の毛が散るのを防ぎ、少しでも間違いが起こらないようにと『引き綱』(リード)を握りしめ緊張している。

しかし、彼ら盲導犬は「犬」であり、愛らしく飼い主に対しその持てる愛情のすべてをぶつける、悪戯もし、できれば飼い主と一緒のベッドで休みたいと思い、飼い主と同じ食べ物を欲しがる。一緒にボール遊びをしたり、散歩に出かけたり、いつでも飼い主と一緒に居ることを好む一般的な普通の犬でもある。

普通の犬たちが持つこのような面をなくしては、盲導犬は生まれてこない。『盲導犬』として成長していくためには、人間杜会と犬世界が一体となった生活から始まる。人間社会のルールを犬は学び、犬世界のことを人間が理解することである。人間との生活が長い彼らは、自然とそのルールを知り身に付けていく。「犬達」にとっての「人間」は、主人、友達、愛する者、そして神にも近い存在なのである。

今、私の足下に病に倒れた一頭の盲導犬が、その病と闘っている。その愛する「人間」とともに。一般で飼われている「犬達」は、その飼い主とどれほどの時間を共に過ごせているのだろうか。

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